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第6話
(20)
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この頃になって和彦は、自分が今味わっているのは酩酊感ではなく、実は強い眠気であることに気づいた。
気が抜けたせいだろうかと思いながら、ほとんど空になったグラスを置いて目を擦る。
「先生?」
「すみません、ちょっと顔を洗ってきます。いつもより、酔いが回るのが早いみたいで」
秦にタオルを手渡され、パウダールームに案内される。女性客相手ということで、ここも秦の気配りとセンスが徹底しており、広くはないが、きれいなパウダールームだった。
女性専用の場所を、男の自分が独占しているのも妙なものだと思いながら、和彦はさっそく洗面台に歩み寄る。汚れ一つないほど磨かれた鏡に、目の焦点が怪しくなった和彦自身が映っていた。
ふうっと大きく息を吐き出して、顔を洗う。ついでに口をすすいだ。さすがにこんな緊張感のない顔をして、これ以上アルコールをとるわけにはいかない。というより、もう体が受け付けないかもしれない。
頭を上げようとして足がふらつき、咄嗟に洗面台の縁に掴まる。頭を揺さぶられているような眩暈と、脱力感がひどい。なんとか水を止めて顔を拭いたときには、たまらずその場に屈み込みそうになっていた。
「――大丈夫ですか、先生」
いつの間にやってきたのか、秦の声がした。なんとか視線を鏡に向けた和彦は、そこに映る秦の姿を捉えた。
「すみ、ません……。なんだか、体がおかしくて……」
「気が高ぶっているせいで、いつもより酒の回りが早かったんでしょうね。中嶋と三人で飲んだときは、けっこういいペースで飲まれていたから、わたしも気安く勧めてしまいました」
秦に支えられながら洗面台から離れようとしたが、途端に足から力が抜ける。すかさず秦に受け止められ、和彦も秦のシャツを握り締めた。さすがに、ここまで急激な変化を示す自分の体に対して、ある疑念が湧いた。
本当に、ただアルコールに酔っただけなのか――。
和彦は、間近にある秦の端麗な顔をまばたきもせず凝視する。和彦の眼差しの意味がわかったのか、秦は笑った。穏やかでも、艶やかでもない、怖いほどしたたかな笑みだった。
「焦らず、〈いい人〉として先生と親しくなるつもりだったんです。だけど今日は、あまりに絶好の機会すぎた。ヤバそうな男が先生を脅して怯えさせ、その先生を守る屈強な護衛はいないうえに、こうして、わたしのテリトリーであるこの店に連れ込めた。いい具合に、先生はふらふらですしね」
秦が何を言っているのかよくわからなかった和彦だが、襲いかかる眠気を振り払うように頭を振ってから、ようやくあることを確信した。
自分は、秦に欺かれていたのだと。
その言葉を裏付けるように、どこか楽しげな口調で秦は続けた。
「先生は、無防備すぎますよ。それとも、少し前まで普通の生活を送っていた人間というのは、そういうものなんでしょうか。……ヤクザや、ロクでもない人間とばかりつき合っていると、よくわからなくなるんですよ。普通の感覚というものが。――わたしは自分が、ロクでもない人間だという自覚があるぐらいですから」
「何を、言って……」
「一人でのこのことわたしについてきて、もしわたしが、長嶺組長を恨んでいる人間だったら、どうするつもりだったんですか? あのヤバそうな男とグルだったら?」
和彦は目を見開くと、緩慢な動きで秦の手から逃れようとしたが、簡単に上体を洗面台に押さえつけられた。背にのしかかられるような格好となり、振り返ることすらできない和彦は、鏡を通して秦を見つめる。秦は余裕たっぷりに笑っていた。
「冗談ですよ。わたしは長嶺組に恨みはないし、あの男も知りません。ただ、先生に興味があるだけです。ヤクザの組長のオンナで、医者で、しかも近いうちにクリニック経営者だ。わたしみたいに、ヤクザではないけど、限りなくヤクザに近い不安定な世界に生きる人間としては、先生みたいな人と親しくなっておいて損はないと計算するわけです」
和彦は懸命に、鏡越しに秦を睨みつける。
「こんなことをして、逆効果だと思わないんですか? 頭のいいあなたなら、それがわからないはずがない……」
「評価されていて嬉しいですよ。もちろん、こうする目的はあります」
ここで秦に腰を引き寄せられたかと思うと、いきなり両手が前方に回され、コットンパンツのベルトを緩められていく。
「な、に、して――」
「あっさり先生を解放したら、わたしの命がありませんからね。だから、保険を掛けておきます。……あの長嶺組長のオンナと、誰にも言えない秘密を持つというのは、ゾクゾクしますよ。たまらなく、興奮する」
気が抜けたせいだろうかと思いながら、ほとんど空になったグラスを置いて目を擦る。
「先生?」
「すみません、ちょっと顔を洗ってきます。いつもより、酔いが回るのが早いみたいで」
秦にタオルを手渡され、パウダールームに案内される。女性客相手ということで、ここも秦の気配りとセンスが徹底しており、広くはないが、きれいなパウダールームだった。
女性専用の場所を、男の自分が独占しているのも妙なものだと思いながら、和彦はさっそく洗面台に歩み寄る。汚れ一つないほど磨かれた鏡に、目の焦点が怪しくなった和彦自身が映っていた。
ふうっと大きく息を吐き出して、顔を洗う。ついでに口をすすいだ。さすがにこんな緊張感のない顔をして、これ以上アルコールをとるわけにはいかない。というより、もう体が受け付けないかもしれない。
頭を上げようとして足がふらつき、咄嗟に洗面台の縁に掴まる。頭を揺さぶられているような眩暈と、脱力感がひどい。なんとか水を止めて顔を拭いたときには、たまらずその場に屈み込みそうになっていた。
「――大丈夫ですか、先生」
いつの間にやってきたのか、秦の声がした。なんとか視線を鏡に向けた和彦は、そこに映る秦の姿を捉えた。
「すみ、ません……。なんだか、体がおかしくて……」
「気が高ぶっているせいで、いつもより酒の回りが早かったんでしょうね。中嶋と三人で飲んだときは、けっこういいペースで飲まれていたから、わたしも気安く勧めてしまいました」
秦に支えられながら洗面台から離れようとしたが、途端に足から力が抜ける。すかさず秦に受け止められ、和彦も秦のシャツを握り締めた。さすがに、ここまで急激な変化を示す自分の体に対して、ある疑念が湧いた。
本当に、ただアルコールに酔っただけなのか――。
和彦は、間近にある秦の端麗な顔をまばたきもせず凝視する。和彦の眼差しの意味がわかったのか、秦は笑った。穏やかでも、艶やかでもない、怖いほどしたたかな笑みだった。
「焦らず、〈いい人〉として先生と親しくなるつもりだったんです。だけど今日は、あまりに絶好の機会すぎた。ヤバそうな男が先生を脅して怯えさせ、その先生を守る屈強な護衛はいないうえに、こうして、わたしのテリトリーであるこの店に連れ込めた。いい具合に、先生はふらふらですしね」
秦が何を言っているのかよくわからなかった和彦だが、襲いかかる眠気を振り払うように頭を振ってから、ようやくあることを確信した。
自分は、秦に欺かれていたのだと。
その言葉を裏付けるように、どこか楽しげな口調で秦は続けた。
「先生は、無防備すぎますよ。それとも、少し前まで普通の生活を送っていた人間というのは、そういうものなんでしょうか。……ヤクザや、ロクでもない人間とばかりつき合っていると、よくわからなくなるんですよ。普通の感覚というものが。――わたしは自分が、ロクでもない人間だという自覚があるぐらいですから」
「何を、言って……」
「一人でのこのことわたしについてきて、もしわたしが、長嶺組長を恨んでいる人間だったら、どうするつもりだったんですか? あのヤバそうな男とグルだったら?」
和彦は目を見開くと、緩慢な動きで秦の手から逃れようとしたが、簡単に上体を洗面台に押さえつけられた。背にのしかかられるような格好となり、振り返ることすらできない和彦は、鏡を通して秦を見つめる。秦は余裕たっぷりに笑っていた。
「冗談ですよ。わたしは長嶺組に恨みはないし、あの男も知りません。ただ、先生に興味があるだけです。ヤクザの組長のオンナで、医者で、しかも近いうちにクリニック経営者だ。わたしみたいに、ヤクザではないけど、限りなくヤクザに近い不安定な世界に生きる人間としては、先生みたいな人と親しくなっておいて損はないと計算するわけです」
和彦は懸命に、鏡越しに秦を睨みつける。
「こんなことをして、逆効果だと思わないんですか? 頭のいいあなたなら、それがわからないはずがない……」
「評価されていて嬉しいですよ。もちろん、こうする目的はあります」
ここで秦に腰を引き寄せられたかと思うと、いきなり両手が前方に回され、コットンパンツのベルトを緩められていく。
「な、に、して――」
「あっさり先生を解放したら、わたしの命がありませんからね。だから、保険を掛けておきます。……あの長嶺組長のオンナと、誰にも言えない秘密を持つというのは、ゾクゾクしますよ。たまらなく、興奮する」
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