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第6話
(18)
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秦に腕を掴まれたかと思うと、強引に引っ張られて歩かされる。男は手を伸ばして追いかけてこようとしたが、早くこの場から逃げろと誰かに命令されたように、和彦の足は勝手に動く。秦とともに階段を駆け下りていた。
「――……さっき、あの男に何を?」
一階に向かいながら、背後を振り返った和彦は尋ねる。まだ、男は追いかけてこない。
「拳をちょっと腹に入れただけです」
「そんなことしたらっ――」
ちらりと口元に笑みを浮かべた秦だが、その目は油断なく一階のショールームを探っている。
「心配いりません。あの男、かなり鍛えているみたいなので、そう堪えてませんよ。だから……すぐにここを離れないと」
そう言いながら秦が向かっているのは、店の正面出入り口だ。
「でも……」
店から出ないよう言われているため判断を迷った和彦に対して、秦は鋭い口調で言った。
「あのキレた刑事に捕まったら、どんな微罪で警察署に連行されるか、わかりませんよ」
ハッと目を見開いた和彦に対して、秦はこの状況に不似合いな艶やかな笑みを浮かべた。
「まあ、もっとも、微罪どころか、わたしは暴行罪になるかもしれませんが」
足早に店を出た途端、秦が走り出し、和彦も倣う。走りながら、店を振り返る。できることなら、店の裏にある駐車場の様子を確認しておきたかったが、それはもうできない。のこのこと戻ったら、今度こそあの男――おそらく刑事であろう――に捕まってしまう。
「とにかく今は、一刻も早くここから離れましょう」
秦はすでにこの先の行動を決めているらしく、考える素振りも見せずに、通りを走るタクシーを停めた。戸惑う和彦に向けて、片手が差し出される。
「乗りましょう。わたしの車も駐車場に置いたままなので、タクシーで移動しないと」
和彦は、もう一度店の方角を振り返ってから、秦に続いてタクシーに乗り込んだ。
タクシーに乗っている間、頭の中が真っ白で何も考えられなかったが、座り心地のいいソファに腰を落ち着けてしまうと、自分は安全な場所にやってきたのだという安堵感から、今度は思考がオーバーフロー気味になっていた。
手足が小刻みに震えていることに気づいた和彦は、懸命に自分の手を擦り、震えを抑えようとする。すると、すぐ側で物音がした。顔を上げると、秦がテーブルの上にグラスや水のボトルを置いているところだった。
「あの――」
「すぐに、アルコールを準備しますから、欲しいものがあれば遠慮なく言ってください。なんといってもここは、客に飲ませてなんぼの、ホストクラブですから」
秦にそう言われて、和彦は喉に手をやる。この店についてから、まっさきに水を飲ませてもらったのだが、さらに喉の渇きを覚えた。
興奮しすぎて、体の水分がずいぶんな速さで汗になったのかもしれない。着ているシャツが汗で濡れて、少し不快だ。それでも、空調を入れた店内の空気はゆっくりと冷え始めていた。
和彦がほっと息を吐き出すと、隣に腰掛けた秦に笑いかけられる。
「何を飲みます?」
水でいい、と言いかけたが、まだ震え続けている自分の手を眺めてから、和彦は精神安定剤代わりに、アルコールをもらうことにした。
「……ワインを」
「かしこまりました」
秦の慇懃な受け答えに、やっと和彦は微笑することができる。実は唇を動かすのも苦労するほど、顔の筋肉が強張っていた。
ワインが注がれたグラスを手渡されると、和彦は一気に飲み干す。
インテリアショップを飛び出した二人がタクシーに乗ってから、どこに向かうかという話になったのだが、秦が提案したのは、自分が経営している店の一つに来ないかというものだった。
刑事と思しき男が和彦をつけ狙っていたのは間違いなく、このまま長嶺の本宅や組事務所、和彦のマンションにまっすぐ向かうのは危険だと言われれば、納得するしかない。どんな理由で、あの男が踏み込んでくるかわからないのだ。
長嶺組のテリトリーに、警察が踏み込む理由を与えるわけにはいかないし、和彦自身、医者として長嶺組や総和会で行ってきたことを洗われると、立場が危うい。マンションには、クリニック経営のために偽造された書類が山のようにある。
自分が何をやってきたか、一つ一つは理解していた。そして今日、自分は警察と関われない存在になってしまったのだと、身をもって痛感させられた。
和彦は大きく体を震わせる。あの男に対する嫌悪感が蘇ったことと、これまで築いてきた生活を失うかもしれないという怖さからだ。
「大丈夫ですか?」
秦の腕が肩に回され、このときコロンの香りがふわりと和彦の鼻先を掠めた。
「――……さっき、あの男に何を?」
一階に向かいながら、背後を振り返った和彦は尋ねる。まだ、男は追いかけてこない。
「拳をちょっと腹に入れただけです」
「そんなことしたらっ――」
ちらりと口元に笑みを浮かべた秦だが、その目は油断なく一階のショールームを探っている。
「心配いりません。あの男、かなり鍛えているみたいなので、そう堪えてませんよ。だから……すぐにここを離れないと」
そう言いながら秦が向かっているのは、店の正面出入り口だ。
「でも……」
店から出ないよう言われているため判断を迷った和彦に対して、秦は鋭い口調で言った。
「あのキレた刑事に捕まったら、どんな微罪で警察署に連行されるか、わかりませんよ」
ハッと目を見開いた和彦に対して、秦はこの状況に不似合いな艶やかな笑みを浮かべた。
「まあ、もっとも、微罪どころか、わたしは暴行罪になるかもしれませんが」
足早に店を出た途端、秦が走り出し、和彦も倣う。走りながら、店を振り返る。できることなら、店の裏にある駐車場の様子を確認しておきたかったが、それはもうできない。のこのこと戻ったら、今度こそあの男――おそらく刑事であろう――に捕まってしまう。
「とにかく今は、一刻も早くここから離れましょう」
秦はすでにこの先の行動を決めているらしく、考える素振りも見せずに、通りを走るタクシーを停めた。戸惑う和彦に向けて、片手が差し出される。
「乗りましょう。わたしの車も駐車場に置いたままなので、タクシーで移動しないと」
和彦は、もう一度店の方角を振り返ってから、秦に続いてタクシーに乗り込んだ。
タクシーに乗っている間、頭の中が真っ白で何も考えられなかったが、座り心地のいいソファに腰を落ち着けてしまうと、自分は安全な場所にやってきたのだという安堵感から、今度は思考がオーバーフロー気味になっていた。
手足が小刻みに震えていることに気づいた和彦は、懸命に自分の手を擦り、震えを抑えようとする。すると、すぐ側で物音がした。顔を上げると、秦がテーブルの上にグラスや水のボトルを置いているところだった。
「あの――」
「すぐに、アルコールを準備しますから、欲しいものがあれば遠慮なく言ってください。なんといってもここは、客に飲ませてなんぼの、ホストクラブですから」
秦にそう言われて、和彦は喉に手をやる。この店についてから、まっさきに水を飲ませてもらったのだが、さらに喉の渇きを覚えた。
興奮しすぎて、体の水分がずいぶんな速さで汗になったのかもしれない。着ているシャツが汗で濡れて、少し不快だ。それでも、空調を入れた店内の空気はゆっくりと冷え始めていた。
和彦がほっと息を吐き出すと、隣に腰掛けた秦に笑いかけられる。
「何を飲みます?」
水でいい、と言いかけたが、まだ震え続けている自分の手を眺めてから、和彦は精神安定剤代わりに、アルコールをもらうことにした。
「……ワインを」
「かしこまりました」
秦の慇懃な受け答えに、やっと和彦は微笑することができる。実は唇を動かすのも苦労するほど、顔の筋肉が強張っていた。
ワインが注がれたグラスを手渡されると、和彦は一気に飲み干す。
インテリアショップを飛び出した二人がタクシーに乗ってから、どこに向かうかという話になったのだが、秦が提案したのは、自分が経営している店の一つに来ないかというものだった。
刑事と思しき男が和彦をつけ狙っていたのは間違いなく、このまま長嶺の本宅や組事務所、和彦のマンションにまっすぐ向かうのは危険だと言われれば、納得するしかない。どんな理由で、あの男が踏み込んでくるかわからないのだ。
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和彦は大きく体を震わせる。あの男に対する嫌悪感が蘇ったことと、これまで築いてきた生活を失うかもしれないという怖さからだ。
「大丈夫ですか?」
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