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第6話
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賢吾の言葉で、和彦はあることを思い出す。千尋に絡んできたり、組事務所の近くで見かけた不審な男のことだ。
「――あの男のこと、何かわかったのか?」
和彦の問いかけに、再び賢吾がこちらを向く。寸前まで機嫌がよさそうだったのに、このとき賢吾の両目には、ひんやりとした質感が宿っていた。組長としての目だ。
「先生のような人間が知る価値もない、下衆な男だ」
「ヤクザに下衆呼ばわりされるなんて、大したものだ」
「蛇蝎のごとく嫌うって言葉があるだろ。蛇は、俺の背中にいる。だとしたら、あの男はサソリかもな」
指で和彦の頬をくすぐりながら、賢吾が低い笑い声を洩らす。そんな賢吾を、畏怖を込めた眼差しで見つめていた和彦だが、手慰みのように頬や髪を撫でられ続けているうちに、肩から力を抜く。
すると賢吾が、もう片方の手を差し出してきた。その手と賢吾の顔を交互に見てから、和彦は大きな手の上に、自分の手を重ねる。痛いほど握り締められた。
「……忙しく日帰りするつもりだったが、気が変わった」
「えっ?」
目を丸くする和彦に向けて、賢吾がニッと笑いかけてくる。その表情は、ハッとするほど千尋と瓜二つだ。
「このまま雨が続いたら、今日は行った先で泊まるぞ。ひなびた感じの、いい温泉場が近くにある。その辺りを縄張りにしている組と長嶺組は昵懇だから、挨拶に寄ったついでに、宿を紹介してもらおう」
勝手に決めるな、と言ったところで無駄だろう。それに、楽しそうに話している男を見ていると、野暮を言うのは気が引ける。
ため息交じりに和彦は応じた。
「あんたがそうしたいなら……」
心の半分では、雨が止んでくれないだろうかと思いながら、残りの半分では、賢吾と二人きりで宿の部屋に泊まる状況とはどんなものだろうかと、想像している自分がいた。
和彦は携帯電話を閉じると、片耳を軽く押さえる。電話を通してキャンキャンと喚き続けられたせいで、鼓膜がおかしくなったようだ。
「――うちの子犬は、元気だったようだな」
ふいに背後から声をかけられ、飛び上がりそうなほど驚く。和彦が振り返ると、いつ風呂から戻ってきたのか、大柄な体を浴衣に包んだ賢吾が立っていた。
すでに敷いてある布団の一つにどかっと胡坐をかいて座り込むと、片手に持っていた缶ビールを開け、豪快に飲み始める。和彦は、さりげなく部屋の隅へと移動しながら、そんな賢吾を見つめる。
昼前に目的地に着いてから、賢吾たちは病院に向かったが、和彦だけは組員一人を運転手としてつけられ、なぜか観光地巡りをさせられた。組員ではない和彦を、組員たちが集まった病室に連れて行かないだけの配慮を、賢吾はしてくれたのだ。
用意された宿は、こじんまりとして古くはあるが部屋も風呂もきれいで、いかにも温泉地にある宿といった風情を持っていた。観光シーズンから外れているためか一般の宿泊客も少なく、宿内を長嶺組の一団がうろうろしていても、さほど気にしなくて済んでいる。
大広間での夕食のあと、和彦だけは大浴場でゆったりと入浴を楽しめたが、体に刺青を入れている賢吾たちはそういうわけにもいかず、本来なら一時間ごとの貸切になっている家族風呂を悠々と占領してきたようだ。
和彦は窓に這い寄ると、外の景色を眺める。通りに沿って宿や飲食店の明かりがぽつぽつと灯っているが、降り続く雨のせいか、外を出歩く人の姿はまばらだ。
「千尋はなんと言っていた」
賢吾に話しかけられ、微かに肩を震わせた和彦は、意識して顔を外に向けたまま答える。
「……さんざん恨み言を言われた。ぼくとあんただけでズルイと。ぼくは振り回されているだけだと言っても、聞きやしない」
「帰ってから、千尋の子守りに苦労しそうだな、先生」
窓ガラスに賢吾の姿が反射して映っているが、ニヤニヤと笑っている。だらしなく浴衣を着て、布団の上であぐらをかいて缶ビールを飲む姿は、とうていヤクザの組長には見えない。しかし、この男が一声上げるだけで、別室で待機している組員たちが一斉にこの部屋に飛び込んでくるのは間違いない。
できることなら和彦も別室で一人ゆっくりと休みたかったのだが、提案した次の瞬間に、賢吾に鼻先で笑われて却下された。
「最近、千尋の甘ったれぶりに気合いが入っているんだが、本宅でもあんな感じなのか?」
「本気で、先生を母親のように感じているのかもな。情の深い先生のことだ、母性に溢れていても不思議じゃない」
「母親相手にサカるのかっ。……冗談でも、勘弁してくれ……」
少しの間、賢吾の笑い声が聞こえていたが、ふいにまじめな声で言われた。
「――あの男のこと、何かわかったのか?」
和彦の問いかけに、再び賢吾がこちらを向く。寸前まで機嫌がよさそうだったのに、このとき賢吾の両目には、ひんやりとした質感が宿っていた。組長としての目だ。
「先生のような人間が知る価値もない、下衆な男だ」
「ヤクザに下衆呼ばわりされるなんて、大したものだ」
「蛇蝎のごとく嫌うって言葉があるだろ。蛇は、俺の背中にいる。だとしたら、あの男はサソリかもな」
指で和彦の頬をくすぐりながら、賢吾が低い笑い声を洩らす。そんな賢吾を、畏怖を込めた眼差しで見つめていた和彦だが、手慰みのように頬や髪を撫でられ続けているうちに、肩から力を抜く。
すると賢吾が、もう片方の手を差し出してきた。その手と賢吾の顔を交互に見てから、和彦は大きな手の上に、自分の手を重ねる。痛いほど握り締められた。
「……忙しく日帰りするつもりだったが、気が変わった」
「えっ?」
目を丸くする和彦に向けて、賢吾がニッと笑いかけてくる。その表情は、ハッとするほど千尋と瓜二つだ。
「このまま雨が続いたら、今日は行った先で泊まるぞ。ひなびた感じの、いい温泉場が近くにある。その辺りを縄張りにしている組と長嶺組は昵懇だから、挨拶に寄ったついでに、宿を紹介してもらおう」
勝手に決めるな、と言ったところで無駄だろう。それに、楽しそうに話している男を見ていると、野暮を言うのは気が引ける。
ため息交じりに和彦は応じた。
「あんたがそうしたいなら……」
心の半分では、雨が止んでくれないだろうかと思いながら、残りの半分では、賢吾と二人きりで宿の部屋に泊まる状況とはどんなものだろうかと、想像している自分がいた。
和彦は携帯電話を閉じると、片耳を軽く押さえる。電話を通してキャンキャンと喚き続けられたせいで、鼓膜がおかしくなったようだ。
「――うちの子犬は、元気だったようだな」
ふいに背後から声をかけられ、飛び上がりそうなほど驚く。和彦が振り返ると、いつ風呂から戻ってきたのか、大柄な体を浴衣に包んだ賢吾が立っていた。
すでに敷いてある布団の一つにどかっと胡坐をかいて座り込むと、片手に持っていた缶ビールを開け、豪快に飲み始める。和彦は、さりげなく部屋の隅へと移動しながら、そんな賢吾を見つめる。
昼前に目的地に着いてから、賢吾たちは病院に向かったが、和彦だけは組員一人を運転手としてつけられ、なぜか観光地巡りをさせられた。組員ではない和彦を、組員たちが集まった病室に連れて行かないだけの配慮を、賢吾はしてくれたのだ。
用意された宿は、こじんまりとして古くはあるが部屋も風呂もきれいで、いかにも温泉地にある宿といった風情を持っていた。観光シーズンから外れているためか一般の宿泊客も少なく、宿内を長嶺組の一団がうろうろしていても、さほど気にしなくて済んでいる。
大広間での夕食のあと、和彦だけは大浴場でゆったりと入浴を楽しめたが、体に刺青を入れている賢吾たちはそういうわけにもいかず、本来なら一時間ごとの貸切になっている家族風呂を悠々と占領してきたようだ。
和彦は窓に這い寄ると、外の景色を眺める。通りに沿って宿や飲食店の明かりがぽつぽつと灯っているが、降り続く雨のせいか、外を出歩く人の姿はまばらだ。
「千尋はなんと言っていた」
賢吾に話しかけられ、微かに肩を震わせた和彦は、意識して顔を外に向けたまま答える。
「……さんざん恨み言を言われた。ぼくとあんただけでズルイと。ぼくは振り回されているだけだと言っても、聞きやしない」
「帰ってから、千尋の子守りに苦労しそうだな、先生」
窓ガラスに賢吾の姿が反射して映っているが、ニヤニヤと笑っている。だらしなく浴衣を着て、布団の上であぐらをかいて缶ビールを飲む姿は、とうていヤクザの組長には見えない。しかし、この男が一声上げるだけで、別室で待機している組員たちが一斉にこの部屋に飛び込んでくるのは間違いない。
できることなら和彦も別室で一人ゆっくりと休みたかったのだが、提案した次の瞬間に、賢吾に鼻先で笑われて却下された。
「最近、千尋の甘ったれぶりに気合いが入っているんだが、本宅でもあんな感じなのか?」
「本気で、先生を母親のように感じているのかもな。情の深い先生のことだ、母性に溢れていても不思議じゃない」
「母親相手にサカるのかっ。……冗談でも、勘弁してくれ……」
少しの間、賢吾の笑い声が聞こえていたが、ふいにまじめな声で言われた。
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