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第6話
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唇を動かすだけで声が出ない和彦を見て、秦は薄い笑みを浮かべた。艶っぽいというより、冴えた表情なのだが、秦の美貌にはよく似合っている。まるで、別人に見えるぐらいだ。
ハッと我に返った和彦は、急いで非常階段に通じるドアに手をかけようとしたが、それより先に、秦が別のドアを開けてしまった。
「そこはっ――」
「ここは、この広さだと、仮眠室、といったところですか?」
「……倉庫代わりに使おうかと思っています。それより秦さん、早くこの階段から一階に下りてください」
このとき、和彦を呼ぶ千尋の声が聞こえた。もうこのフロアに上がってきたのだとわかり、悪いことをしているわけでもないのに、本気で和彦は焦る。しかし秦のほうは、そんな和彦の反応を楽しむように、こんなことを言った。
「わたしのことは気にしなくてかまいませんよ。お二人が話している間、この部屋でおとなしく待っています。せっかく先生が、わたしなんかのアドバイスを求めてくださったんですから、しっかり仕事はさせてもらいますよ」
予想外の秦の言葉に、和彦は何も言えない。ちらりと笑った秦は、するりと奥の部屋へと身を滑り込ませ、あっという間に中からドアを閉めてしまった。
「あっ、先生いたっ」
ギリギリのタイミングで秦の存在に気づかなかったらしく、廊下を走ってくる千尋の足音が近づいてくる。
和彦は、心臓を締め付けられるような緊張感を覚えながら、奥の部屋のドアに手を押し当てた姿勢で硬直していた。
暑さも感じなくなっていたが、冷や汗が一気に噴き出してくる。
「先生、こんなところで何してんの?」
千尋の手が肩にかかり、仕方なく振り返る。同時に、さりげなくハンカチを取り出し、額に押し当てた。
犬っころのような千尋の眼差しから、微妙に目を逸らした和彦は、大きくゆっくりと息を吐き出す。
「……暑いから、少し外の空気を吸おうと思ったんだ」
非常階段に通じるドアを指さすと、納得したように千尋は頷く。だが次の瞬間、ふいに和彦の首筋に顔を寄せてきて、犬のように鼻を鳴らした。
「先生、コロン変えた?」
こいつは本当に犬かと思いながら、和彦は千尋の顔を押し退ける。
「この間買ったコロンをつけてみたんだ」
「ふうん。……でも先生には、もう少し甘い香りをつけてほしいな」
強い光を放つ目が、じっと和彦を見据えてくる。その目の中に激情ともいえるものが渦巻いているのを感じ取り、とにかくこの場を離れるのが先だと思った。
こんな目をしている千尋には、自制というものが働かないということを、一度千尋に軟禁されたことがある和彦は身をもって知っているのだ。
「千尋、ここは暑いから、場所を変えよう」
「でも先生、用があるからここに来たんだよね? 一人で何してたの?」
そう問いかけてきながら千尋が両手をドアに突き、その中に捕えられた格好となった和彦は動けない。
「……早いうちに、待合室のインテリアを決めておこうと思ったんだ。いい家具を置いてある店も調べておきたいしな」
「家具買いに行くなら、俺も連れてってよ」
目を輝かせる千尋の顔をまじまじと見つめてから、和彦はそっと息を吐き出す。
「考えておく。それより、早く退け。ぼくはもう少し残るから、お前は先に帰れ。……この暑い中、わざわざここに寄らなくてもよかっただろ。会おうと思えば、いつでも会えるのに」
「だって先生、三田村の相手で忙しいかと思ったんだ」
拗ねたような口調でそんなことを言った千尋を、軽く睨みつける。悪びれた様子もなく、千尋はニッと笑いかけてきた。
「――先生をどうこうできる優先権は、オヤジが一番、二番は俺だよ。忘れてないよね?」
大蛇を背負った男の息子らしいと、和彦は嫌というほど実感させられる。普段は犬っころのように無邪気にじゃれついてきながら、いざとなると、こんなふうに牙をちらりと覗かせる。その牙を突き立てるマネすら必要ない。和彦は、長嶺父子のオンナなのだ。逆らえるはずもなかった。
こんな会話を、ドア一枚隔てて秦が聞いているのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。しかしいまさら、秦の存在を千尋に紹介できるはずもない。
和彦が顔を強張らせているとわかったのか、強気な態度を一変させた千尋は、おずおずと和彦の肩に額をすり寄せてきた。
「ズルイよ……。先生を先に見つけて、つき合ってたのは俺なのに、オヤジどころか、三田村にまで先を越された気がする」
「先を越されたって、何がだ」
「よく、わかんない……。でも、これだけは感じる。先生にとって、オヤジは特別で、三田村も特別。だけど俺は――」
ハッと我に返った和彦は、急いで非常階段に通じるドアに手をかけようとしたが、それより先に、秦が別のドアを開けてしまった。
「そこはっ――」
「ここは、この広さだと、仮眠室、といったところですか?」
「……倉庫代わりに使おうかと思っています。それより秦さん、早くこの階段から一階に下りてください」
このとき、和彦を呼ぶ千尋の声が聞こえた。もうこのフロアに上がってきたのだとわかり、悪いことをしているわけでもないのに、本気で和彦は焦る。しかし秦のほうは、そんな和彦の反応を楽しむように、こんなことを言った。
「わたしのことは気にしなくてかまいませんよ。お二人が話している間、この部屋でおとなしく待っています。せっかく先生が、わたしなんかのアドバイスを求めてくださったんですから、しっかり仕事はさせてもらいますよ」
予想外の秦の言葉に、和彦は何も言えない。ちらりと笑った秦は、するりと奥の部屋へと身を滑り込ませ、あっという間に中からドアを閉めてしまった。
「あっ、先生いたっ」
ギリギリのタイミングで秦の存在に気づかなかったらしく、廊下を走ってくる千尋の足音が近づいてくる。
和彦は、心臓を締め付けられるような緊張感を覚えながら、奥の部屋のドアに手を押し当てた姿勢で硬直していた。
暑さも感じなくなっていたが、冷や汗が一気に噴き出してくる。
「先生、こんなところで何してんの?」
千尋の手が肩にかかり、仕方なく振り返る。同時に、さりげなくハンカチを取り出し、額に押し当てた。
犬っころのような千尋の眼差しから、微妙に目を逸らした和彦は、大きくゆっくりと息を吐き出す。
「……暑いから、少し外の空気を吸おうと思ったんだ」
非常階段に通じるドアを指さすと、納得したように千尋は頷く。だが次の瞬間、ふいに和彦の首筋に顔を寄せてきて、犬のように鼻を鳴らした。
「先生、コロン変えた?」
こいつは本当に犬かと思いながら、和彦は千尋の顔を押し退ける。
「この間買ったコロンをつけてみたんだ」
「ふうん。……でも先生には、もう少し甘い香りをつけてほしいな」
強い光を放つ目が、じっと和彦を見据えてくる。その目の中に激情ともいえるものが渦巻いているのを感じ取り、とにかくこの場を離れるのが先だと思った。
こんな目をしている千尋には、自制というものが働かないということを、一度千尋に軟禁されたことがある和彦は身をもって知っているのだ。
「千尋、ここは暑いから、場所を変えよう」
「でも先生、用があるからここに来たんだよね? 一人で何してたの?」
そう問いかけてきながら千尋が両手をドアに突き、その中に捕えられた格好となった和彦は動けない。
「……早いうちに、待合室のインテリアを決めておこうと思ったんだ。いい家具を置いてある店も調べておきたいしな」
「家具買いに行くなら、俺も連れてってよ」
目を輝かせる千尋の顔をまじまじと見つめてから、和彦はそっと息を吐き出す。
「考えておく。それより、早く退け。ぼくはもう少し残るから、お前は先に帰れ。……この暑い中、わざわざここに寄らなくてもよかっただろ。会おうと思えば、いつでも会えるのに」
「だって先生、三田村の相手で忙しいかと思ったんだ」
拗ねたような口調でそんなことを言った千尋を、軽く睨みつける。悪びれた様子もなく、千尋はニッと笑いかけてきた。
「――先生をどうこうできる優先権は、オヤジが一番、二番は俺だよ。忘れてないよね?」
大蛇を背負った男の息子らしいと、和彦は嫌というほど実感させられる。普段は犬っころのように無邪気にじゃれついてきながら、いざとなると、こんなふうに牙をちらりと覗かせる。その牙を突き立てるマネすら必要ない。和彦は、長嶺父子のオンナなのだ。逆らえるはずもなかった。
こんな会話を、ドア一枚隔てて秦が聞いているのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。しかしいまさら、秦の存在を千尋に紹介できるはずもない。
和彦が顔を強張らせているとわかったのか、強気な態度を一変させた千尋は、おずおずと和彦の肩に額をすり寄せてきた。
「ズルイよ……。先生を先に見つけて、つき合ってたのは俺なのに、オヤジどころか、三田村にまで先を越された気がする」
「先を越されたって、何がだ」
「よく、わかんない……。でも、これだけは感じる。先生にとって、オヤジは特別で、三田村も特別。だけど俺は――」
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