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第4話
(8)
しおりを挟む「――中嶋から、お前に対する礼を言付かった」
和彦がカクテルに口をつけようとすると、突然思い出したように賢吾が言った。軽く眉をひそめた和彦は、ゆっくりと足を組み替える。
「礼?」
「難波を黙らせて、従わせたらしいな。中嶋は、若くして総和会に招き入れられたから、少しばかり他人を見下す傾向がある。それで口が過ぎることがあるんだが、お前が場を収めてくれたと言っていた……と、うちの若頭から報告を受けた」
殊勝なところがあるのだなと、中嶋の顔を思い返しながら、和彦は素直に感心する。四日前、難波の女の両瞼を治療してから、和彦は毎日、傷の治療のため出向いているが、送り迎えをしている中嶋本人の口からは、何も聞いていない。
「お前は、猛獣使いの才能があるみたいだ。ヤクザっていう、性質の悪い猛獣の」
「……世の中で、こんなに言われて嬉しくない褒め言葉は、そうないかもな」
うんざりしながら和彦が呟くと、賢吾が楽しそうに笑い声を洩らす。
護衛が周囲についているとはいえ、こうして賢吾と二人でバーで飲んでいるのは、妙な感じだった。まるで、気心が知れている相手と飲んでいるような錯覚を覚える。実際のところは、和彦を食らい尽くしても不思議ではない、獰猛な猛獣と向き合っているというのに。
「お前とは関係ない原因で、お前の手を煩わせた。難波は昔、俺のオヤジ――うちの組の先代と、やり合ったことがあってな。長嶺と名がつくと、なんでも気に食わないんだ」
「総和会に加入している組同士で、いろいろあるんだな」
「人間同士ですら、十一人もいたら揉めるんだ。組同士となったら、もっといろいろある。お前はこの先、いろんな組の人間と関わることになるが……、まあ、上手くやれそうだな」
「――……患者を診るだけなら、な」
そっとため息をついて、和彦は今度こそカクテルを飲み干す。一方の賢吾は、ブランデーを味わうようにゆっくりと飲んでから、逸らすことを許さないような強い眼差しを向けてきた。一見寛いでいるようで、この眼差しの威力はすごい。和彦はまばたきすらできなくなる。
「難波に何か言われただろう」
「……中嶋くん、だったか、彼から聞いたんじゃないのか。若頭を通じて」
「お前の口から聞きたい」
これも賢吾なりの、倒錯した性的嗜好なのだろうかと思いながら、苦々しい思いで和彦は正直に告げた。
「あんたのオンナだと言われた。手術の腕より、男のものを咥え込むほうが上手くて、そっちの経験ばかり積んでるんだろうとも。あとは、総和会に入ったのは長嶺組のごり押しで、医者としての経験は関係ない、と言われた気もする」
「概ね正解じゃないか」
ニヤニヤと笑いながら賢吾に言われ、和彦は睨みつける。そんなことは、自分でもわかっているのだ。
「……気分が悪い。帰る」
そう言って和彦が立ち上がると、賢吾もぐいっとブランデーを飲み干して悠然と立ち上がる。
「送って行ってやる。今日は、三田村がついてないからな」
三田村は、賢吾の命令で今日は別の仕事に就いているということで、和彦は若い組員が運転する車でこのバーにやってきた。
必要ないと答える前に、周囲のテーブルにひっそりと陣取っていた賢吾の護衛たちも立ち上がる。嫌と言ったところで賢吾に聞き入れるはずもなく、仕方なく和彦は従う。
当然のように、和彦が飲んだ分も賢吾が支払いを済ませた。
賢吾は、ホテルのバーで飲むことを好む。長嶺組の縄張りで、組の息がかかった場所で飲むと、生臭い話ばかりになって寛げないらしい。だったら組とは関係ない店で、となるかというと、そうもいかない。万が一の事態に常に備えている護衛の人間が、賢吾の身の安全を咄嗟に確保できない場所を避けたがるのだ。
こうして結局、建物内の移動が楽で、人通りと人目があるホテルが選ばれる。護衛が殺気立たない分、賢吾も気楽というわけだ。
バーを出ると、行き交う人たちから、何事かと言いたげな視線を向けられる。端然とスーツを着込んでいながら、近寄りがたい独特の空気を発している男たち数人がまとまっているのだ。醸す威圧感は人目を惹く。
悠然としているのは賢吾だけで、和彦は数歩ほど離れて他人のふりをしたい衝動に駆られる。和彦のそんな気持ちを十分知ったうえで、賢吾は必ず自分の隣に和彦を歩かせるのだ。
エレベーターホールに息が詰まりそうな緊張感が漂う。さきほどまで談笑していた人たちが一斉に声を潜めてしまい、遠巻きにこちらを眺めている。できることなら同じエレベーターに乗り込みたくないと、誰もが願っているだろう。
ここが三十階でなければ、和彦は喜んで階段を使っているところだ。
顔を伏せがちにして、小さくため息をついて髪を掻き上げたとき、前触れもなく賢吾に肩を抱き寄せられた。
「えっ……」
思わず声を洩らした和彦が隣の賢吾を見ると、すかさずあごを掴み上げられる。あとは有無を言わさず唇を塞がれた。思いがけない場所での、思いがけない賢吾の行動に、和彦の頭の中は真っ白になる。それをいいことに、まるで二人きりのときのように賢吾にたっぷりと唇を吸われ、ふてぶてしい舌を口腔に差し込まれた。
ここまでされてようやく我に返った和彦は、必死に賢吾の肩を押し退けようとする。
「なっ……、何、考えてるんだっ……」
ようやく唇が離されると、激しくうろたえながら和彦は抗議する。本当はこの場から逃げ出したいところだが、賢吾にがっちりと肩を押さえられているため、動けない。
素早く視線を周囲に向ければ、賢吾の護衛は何事もなかったように立っているが、一般人のほうは、驚きや嫌悪を露わにしているか、関わりたくないとばかりにこちらに背を向けている。
「――他人は気にするな」
恫喝するように低い声で囁かれ、あごにかかった手に力が込められる。和彦の眼前で賢吾が、人を食らう粗野な笑みを浮かべた。
「他人がどう思おうが、どう反応しようが、どうでもいい。お前が気にしないといけないのは、俺の反応だけだ。どうやって俺を悦ばせるか、朝起きて、夜寝るまで考えてろ。そうすれば、大抵のつまらないことはどうでもよくなる」
そこでまた、噛み付くようなキスを与えられる。甘い眩暈に襲われながら和彦が感じたのは、自分は本当に、この男の腕の中に堕ちてしまったということだった。
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