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第3話
(17)
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「――……なんかいろいろと、大変そうだ。しがらみとか、つき合いとか」
「先生は、そういうの考えないで、医者としての仕事をしてればいいよ。……一番大事なのは、俺とオヤジの、オンナとしての仕事だけど」
一見好青年のような外見で、さらりとこんなことを言えるのが、千尋だ。
和彦が見つめる先で千尋は、今自分が物騒なことを言ったという自覚もない様子で、パンの袋を開けて顔を突っ込んでいる。和彦はちらりと笑って千尋の頭を撫でてやった。
「まだ食べるなよ。肝心の晩メシが入らなくなるぞ」
「……先生、俺のお袋みたい」
千尋の言葉に、和彦は容赦なく千尋の頬を抓り上げてやった。
夕食のあと店を移動し、勧められるままアルコールを飲んだ和彦はしたたか酔ってしまい、歩く足取りがあまりに危ないからと、千尋に体を支えられる事態になっていた。
「悪酔いした……」
エレベーターに乗り込んだところでぼそりと和彦は洩らす。
「珍しいよね、先生がこんなに酔うなんて。けっこう飲んでも、平然としてたと思うんだけど」
「……いい酒を飲ませてもらったけど、面子が悪すぎた。そのせいだろうな」
和彦の言葉に、千尋はきょとんとした顔をする。すると、和彦の反対隣から低い笑い声が聞こえてきた。思わず鋭い視線を向けた先では、賢吾が上機嫌といった様子を見せている。和彦以上に飲んでいたくせに、一切酔いはうかがわせない。千尋の酒豪っぷりは、間違いなく父親譲りだ。
「まあ、俺と飲むなら、それは諦めるんだな」
そう言いながらさりげなく賢吾の手が腰に回され、さらに下がって尻を撫でられた。エレベーター内が、自分の身内と護衛しかいないせいで、やりたい放題だ。一般人も乗っていたのだが、扉が開いてこの顔ぶれを見た途端、顔を背けて逃げるように降りてしまった。
さきほどまで飲んでいたバーでも、一応、和彦とこの父子の三人で飲んでいたのだが、周囲のテーブルをがっちりと長嶺組の護衛が囲んでしまい、気楽にアルコールを楽しめる雰囲気ではなかった。
エレベーターを降り、さりげなく周囲をガードされながら駐車場へと向かう。夜とはいっても、この辺りはまだにぎやかだ。ホテルを出入りする人の姿も多く、油断はできないといったところだろう。
一人なら気楽なのにと思いながら、和彦はぽつりと洩らした。
「早く帰って横になりたい……」
「だったら、今日も先生のところに泊まって、俺がいろいろ世話するよ」
パッと顔を輝かせてそんなことを言った千尋に向かって、和彦は即答した。
「――いらない」
「振られたな、千尋ちゃん」
こう言ったのは賢吾だ。その呼び方が気に障ったらしく、千尋は目を吊り上げたが、気にかけた様子もなく、賢吾が和彦の肩を抱いてきた。
「俺がどうして、こいつに千尋って名前をつけたかわかるか? いろいろと大層な名前の候補はあったんだがな、俺の息子だから、どうせふてぶてしいツラしたヤクザ者になると思ったんだ。それでせめて、名前ぐらいは可愛くしてやろうっていう――親心だ」
表には出さないが、意外に賢吾も酔っているのかもしれない。
似合わないことを語るヤクザの組長と、思いきり顔をしかめているその息子を交互に見てから、たまらず和彦は噴き出す。肩を震わせて笑っていた。
「……本当に酔ってるな、先生。こんなに楽しそうに笑えるなんて、初めて知った」
賢吾がしみじみと洩らした言葉に対して、千尋が余計な茶々を入れた。
「俺なんて、先生と何回もバカ笑いし合ってるぜ。やっぱり先生の感性は、おっさんより、若者と一緒にいるほうが合ってるんだよ」
「はいはい、子守りしてもらってよかったな」
同じレベルでやり合っている父子は放って、和彦はふらつきながらも先を歩き、駐車場に停められた一台の車に近づく。有能な〈番犬〉は、和彦や長嶺父子の姿を認めてから車を降りるようなマネはしない。
ずっとそうしているかのように、三田村は車の傍らに静かに佇んでいた。三田村だけは、どの店にも同行せず、こうして車で待機していたのだ。車の周囲に、いつ、誰が潜むかもわからない、ということだが、和彦にしてみればなんとも寂しいことだと思う。
もっとも、三田村が同行していたところで、影のように黙って付き従っているだけなのだろうが――。
言葉を交わさずとも、三田村がスマートな動作で後部座席のドアを開ける。和彦は父子を振り返ると、軽く手をあげた。
「今夜はご馳走さま。それじゃあ、ぼくはこれで」
そう言って車に乗り込み、ドアを閉めてもらう。和彦はほっと息を吐き出し、アルコールで熱くなった頬をてのひらで擦る。さきほどは悪酔いしたなどと言ったが、本当は気分はよかった。
何日か前まで、底が見えない憂鬱な気持ちに苛まれていたのがウソみたいだが、この気分のよさも一過性だろうなと和彦にはわかっている。日によって、どうしようもない自分の現状を痛感して打ちひしがれ、別の日には、それでも生きていくのだからと、妙に前向きな気持ちになるのだ。
したたかになるとは、この日々と上手く折り合いをつけていくことでもあるのかもしれない。
アルコール臭いため息をついて、和彦がシートに深くもたれかかろうとしたそのとき、急に後部座席の左右のドアが開き、同時に人が乗り込んできた。
「なっ……」
ついさきほど別れたはずの賢吾と千尋だった。その二人が、和彦を挟む形でシートに座ったのだ。
本来は二人乗りである高級車の後部座席のシートは、わざわざ特別仕様を施して三人乗りにしている。この仕様のおかげで、和彦は後部座席でさんざん賢吾に好き勝手されているのだが、とはいえ、さすがに大人の男が三人も乗り込むと窮屈だ。特に、中央に押し込まれた和彦が。
嫌な予感というより、危機感を覚えて、左右に座る男たちを交互に見る。
「……帰るんじゃないのか?」
「別れのキスをしていなかった」
賢吾の言葉にハッとして、千尋を見ると、にんまりと笑いかけられた。一方の三田村は、何事もないかのように運転席に乗り込み、いつものように前を見据えている。
「先生は、そういうの考えないで、医者としての仕事をしてればいいよ。……一番大事なのは、俺とオヤジの、オンナとしての仕事だけど」
一見好青年のような外見で、さらりとこんなことを言えるのが、千尋だ。
和彦が見つめる先で千尋は、今自分が物騒なことを言ったという自覚もない様子で、パンの袋を開けて顔を突っ込んでいる。和彦はちらりと笑って千尋の頭を撫でてやった。
「まだ食べるなよ。肝心の晩メシが入らなくなるぞ」
「……先生、俺のお袋みたい」
千尋の言葉に、和彦は容赦なく千尋の頬を抓り上げてやった。
夕食のあと店を移動し、勧められるままアルコールを飲んだ和彦はしたたか酔ってしまい、歩く足取りがあまりに危ないからと、千尋に体を支えられる事態になっていた。
「悪酔いした……」
エレベーターに乗り込んだところでぼそりと和彦は洩らす。
「珍しいよね、先生がこんなに酔うなんて。けっこう飲んでも、平然としてたと思うんだけど」
「……いい酒を飲ませてもらったけど、面子が悪すぎた。そのせいだろうな」
和彦の言葉に、千尋はきょとんとした顔をする。すると、和彦の反対隣から低い笑い声が聞こえてきた。思わず鋭い視線を向けた先では、賢吾が上機嫌といった様子を見せている。和彦以上に飲んでいたくせに、一切酔いはうかがわせない。千尋の酒豪っぷりは、間違いなく父親譲りだ。
「まあ、俺と飲むなら、それは諦めるんだな」
そう言いながらさりげなく賢吾の手が腰に回され、さらに下がって尻を撫でられた。エレベーター内が、自分の身内と護衛しかいないせいで、やりたい放題だ。一般人も乗っていたのだが、扉が開いてこの顔ぶれを見た途端、顔を背けて逃げるように降りてしまった。
さきほどまで飲んでいたバーでも、一応、和彦とこの父子の三人で飲んでいたのだが、周囲のテーブルをがっちりと長嶺組の護衛が囲んでしまい、気楽にアルコールを楽しめる雰囲気ではなかった。
エレベーターを降り、さりげなく周囲をガードされながら駐車場へと向かう。夜とはいっても、この辺りはまだにぎやかだ。ホテルを出入りする人の姿も多く、油断はできないといったところだろう。
一人なら気楽なのにと思いながら、和彦はぽつりと洩らした。
「早く帰って横になりたい……」
「だったら、今日も先生のところに泊まって、俺がいろいろ世話するよ」
パッと顔を輝かせてそんなことを言った千尋に向かって、和彦は即答した。
「――いらない」
「振られたな、千尋ちゃん」
こう言ったのは賢吾だ。その呼び方が気に障ったらしく、千尋は目を吊り上げたが、気にかけた様子もなく、賢吾が和彦の肩を抱いてきた。
「俺がどうして、こいつに千尋って名前をつけたかわかるか? いろいろと大層な名前の候補はあったんだがな、俺の息子だから、どうせふてぶてしいツラしたヤクザ者になると思ったんだ。それでせめて、名前ぐらいは可愛くしてやろうっていう――親心だ」
表には出さないが、意外に賢吾も酔っているのかもしれない。
似合わないことを語るヤクザの組長と、思いきり顔をしかめているその息子を交互に見てから、たまらず和彦は噴き出す。肩を震わせて笑っていた。
「……本当に酔ってるな、先生。こんなに楽しそうに笑えるなんて、初めて知った」
賢吾がしみじみと洩らした言葉に対して、千尋が余計な茶々を入れた。
「俺なんて、先生と何回もバカ笑いし合ってるぜ。やっぱり先生の感性は、おっさんより、若者と一緒にいるほうが合ってるんだよ」
「はいはい、子守りしてもらってよかったな」
同じレベルでやり合っている父子は放って、和彦はふらつきながらも先を歩き、駐車場に停められた一台の車に近づく。有能な〈番犬〉は、和彦や長嶺父子の姿を認めてから車を降りるようなマネはしない。
ずっとそうしているかのように、三田村は車の傍らに静かに佇んでいた。三田村だけは、どの店にも同行せず、こうして車で待機していたのだ。車の周囲に、いつ、誰が潜むかもわからない、ということだが、和彦にしてみればなんとも寂しいことだと思う。
もっとも、三田村が同行していたところで、影のように黙って付き従っているだけなのだろうが――。
言葉を交わさずとも、三田村がスマートな動作で後部座席のドアを開ける。和彦は父子を振り返ると、軽く手をあげた。
「今夜はご馳走さま。それじゃあ、ぼくはこれで」
そう言って車に乗り込み、ドアを閉めてもらう。和彦はほっと息を吐き出し、アルコールで熱くなった頬をてのひらで擦る。さきほどは悪酔いしたなどと言ったが、本当は気分はよかった。
何日か前まで、底が見えない憂鬱な気持ちに苛まれていたのがウソみたいだが、この気分のよさも一過性だろうなと和彦にはわかっている。日によって、どうしようもない自分の現状を痛感して打ちひしがれ、別の日には、それでも生きていくのだからと、妙に前向きな気持ちになるのだ。
したたかになるとは、この日々と上手く折り合いをつけていくことでもあるのかもしれない。
アルコール臭いため息をついて、和彦がシートに深くもたれかかろうとしたそのとき、急に後部座席の左右のドアが開き、同時に人が乗り込んできた。
「なっ……」
ついさきほど別れたはずの賢吾と千尋だった。その二人が、和彦を挟む形でシートに座ったのだ。
本来は二人乗りである高級車の後部座席のシートは、わざわざ特別仕様を施して三人乗りにしている。この仕様のおかげで、和彦は後部座席でさんざん賢吾に好き勝手されているのだが、とはいえ、さすがに大人の男が三人も乗り込むと窮屈だ。特に、中央に押し込まれた和彦が。
嫌な予感というより、危機感を覚えて、左右に座る男たちを交互に見る。
「……帰るんじゃないのか?」
「別れのキスをしていなかった」
賢吾の言葉にハッとして、千尋を見ると、にんまりと笑いかけられた。一方の三田村は、何事もないかのように運転席に乗り込み、いつものように前を見据えている。
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