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第3話
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「……本当は、今の生活を刺激的だと思い始めている自分が嫌だ。怖くて汚い世界だとわかっているのに。毎日何度も、そんな自分を嫌悪して落ち込む」
「悪かった……。先生が何もかもが平気なわけじゃないと、気づくべきだった。そうしたら、もっと気遣ってやれたかもしれない」
和彦がちらりと笑みをこぼすと、まるで見ていたようなタイミングで体の向きを変えられ、二人は向き合う。
「あの組長が、きめ細かい気配りなんてできるとは思えないけどな」
「だが、先生のことは考えている。だからこそ組長は、あんなものを用意した。堕ち始めた人間の拠り所は、力だ。先生はヤクザの力なんて嫌がるだろうが、この世界に足を踏み入れたら、長嶺組の力が一番確実に先生を守ってくれる。だから、嫌がるのを承知で、これみよがしにあんなことをした。先生に、現実を見せるために。嫌でももう、目を背けることは許されない」
「――堕ち始めた、か」
自嘲気味に和彦が洩らすと、初めて三田村が狼狽した素振りを見せ、肩に手をかけてきた。
「あっ、いや……、堕ちるというのは、俺たちのような人間のことで、別に先生がそうだというわけじゃ――」
「まあ、普通の人間からしたら、ぼくもあんたも、同じ種類の人間だろうな。組に飼われていて、そこから抜け出そうとしない。反社会的な組織や人間の下での生活を心地いいと感じ始めたら、堕ち始めているという証拠だ」
和彦は苦い笑みをこぼし、ようやくある事実を認める。自分はもう、ヤクザに何かを強いられている〈被害者〉ではない。とっくに〈共犯者〉なのだ。
「先生……」
「もう少しだけ時間をくれ。気持ちを整理している」
そう言いながら和彦は、三田村の肩に額を押し当てる。押し退けられるかと思ったが、意外にも、肩にかかった三田村の手が背に回された。和彦は胸が詰まったが、何も言えなくなる前にこれだけは確認しておいた。
「……別にやましい気持ちはないが、この部屋、監視カメラがついているんだよな」
「ガキが薬をキメるのに使っているような場所に、そんないいものがついているわけないだろ」
言い終わると同時に、三田村は和彦が欲しがっているものがわかっているかのように、逞しい両腕が体に回された。
あれだけ男に抱かれてよがり狂う和彦の様を見ていながら、それでも抱き締めてくれるのだなと思ったら、三田村を自分につけてくれた賢吾の慧眼だけは、認めたくなった。
「どうして、こんなことをしてくれるんだ」
「多分今、先生にこうすることが一番いいと思うからだ」
三田村らしい答えだと、和彦は小さく笑う。そして自らも、三田村の背に両腕を回した。
「――……これは別に、大事なことじゃない。だから、組長に報告する必要はないだろ」
「そうだ。俺はただ、先生を組長の元に連れて戻るために、説得しているだけだ。だから特別なことじゃない。仕事の一つだ」
三田村の両腕に力が加わり、二人の体はこれ以上なく密着する。
この男はこんな体つきをしているのだと、スーツを通して感じる三田村の体の感触を、和彦は新鮮なものとして受け止める。
何も要求せず、ただ抱き締めてくれる腕の強さが心地よかった。和彦は顔を上げると、相変わらず感情をどこかに置き忘れたような無表情の三田村を見つめる。無表情ながら、今日はわずかに感情が透けて見えそうな気もして、和彦は間近に顔を寄せる。
「……人を慰めながら、弱みを探ってるんだろ。ヤクザのやり口はわかってるんだ」
「わかっているなら油断するな、先生。あんたは口は悪いが、根本的なところで、優しくて、甘い人間だ。だから、ヤクザなんかにつけ込まれる」
もっともな言葉に思わず苦笑を洩らした和彦は、指先を三田村のあごの傷跡に這わせてから、てのひらを三田村の頬に押し当て、撫でる。すると、三田村の大きな手が、子供をあやすように和彦の背をさすってきた。
和彦は、両腕を三田村の首に回してしがみつき、耳元で囁いた。
「もっと強く抱き締めてくれ」
「――先生の望み通りに」
三田村のこの言い方が、やはり好きだった。淡々とした口調とは裏腹に、強く熱い抱擁を与えてくれる律儀さも。
結局この日、和彦は加入書に署名はしなかった。
事務所に戻るよう、三田村に言われたが、頑として和彦は動かなかったのだ。
無理強いするようなら、三田村曰く、『ガキがクスリをキメるのに使っているような』部屋に篭城するつもりだったが、それは未遂に終わった。
店員が気を利かせて運んでくれたジンジャーエールを飲んでいると、乱暴にドアが開けられ、危うく和彦は口に含んだものを噴き出しそうになる。
「――大丈夫か、先生」
顔を背けて激しく咳き込む和彦の背が、強くさすられる。今日知ったばかりの三田村の手の感触ではなかった。かけられた声も、ハスキーな声ではない。ゾッとするほど忌々しく、魅力的なバリトンだ。
本能的な恐怖で身をすくませながらも、苦しさで滲んだ涙を拭って顔を上げると、傍らに賢吾が立っていた。口元に浮かんでいる薄い笑みを見て一瞬怯みかけた和彦だが、普段の条件反射から、睨みつけてしまう。
「殴りたいなら殴れ。だけど、自分からは絶対、あんなものに署名しないからな」
賢吾は鼻で笑ってから、和彦のあごの下を軽く撫でた。
「俺は、オンナに手を上げない」
「ぼくはっ――」
「つまらない意地を張るな。先生は、痛いのが何より嫌いだろう」
あごをすくい上げられ、和彦は体を強張らせる。あごにかかった手が、次の瞬間には首を絞めてくる想像が容易につくのだ。
息を詰める和彦の視界に、出入り口の前に立った三田村の姿が入る。このとき咄嗟に考えたのは、三田村は、この場所で和彦との間にあった行為を、賢吾に報告していないのだろうかということだ。
「……逃げたことは謝る」
「ほう」
ようやく和彦が絞り出した言葉に、わざとらしく賢吾が応じる。
「だけど、ぼくになんの説明もなく、あんなものに名前を書かせようとしたことは許さない。……ぼくは、ヤクザなんかになるつもりはない」
「俺もするつもりはない。先生は先生だ」
賢吾の指先に唇を擦られ、うろたえるほど強烈な疼きが背筋を駆け抜ける。動揺を見透かされたくなくて、和彦は虚勢を張るしかなかった。
「悪かった……。先生が何もかもが平気なわけじゃないと、気づくべきだった。そうしたら、もっと気遣ってやれたかもしれない」
和彦がちらりと笑みをこぼすと、まるで見ていたようなタイミングで体の向きを変えられ、二人は向き合う。
「あの組長が、きめ細かい気配りなんてできるとは思えないけどな」
「だが、先生のことは考えている。だからこそ組長は、あんなものを用意した。堕ち始めた人間の拠り所は、力だ。先生はヤクザの力なんて嫌がるだろうが、この世界に足を踏み入れたら、長嶺組の力が一番確実に先生を守ってくれる。だから、嫌がるのを承知で、これみよがしにあんなことをした。先生に、現実を見せるために。嫌でももう、目を背けることは許されない」
「――堕ち始めた、か」
自嘲気味に和彦が洩らすと、初めて三田村が狼狽した素振りを見せ、肩に手をかけてきた。
「あっ、いや……、堕ちるというのは、俺たちのような人間のことで、別に先生がそうだというわけじゃ――」
「まあ、普通の人間からしたら、ぼくもあんたも、同じ種類の人間だろうな。組に飼われていて、そこから抜け出そうとしない。反社会的な組織や人間の下での生活を心地いいと感じ始めたら、堕ち始めているという証拠だ」
和彦は苦い笑みをこぼし、ようやくある事実を認める。自分はもう、ヤクザに何かを強いられている〈被害者〉ではない。とっくに〈共犯者〉なのだ。
「先生……」
「もう少しだけ時間をくれ。気持ちを整理している」
そう言いながら和彦は、三田村の肩に額を押し当てる。押し退けられるかと思ったが、意外にも、肩にかかった三田村の手が背に回された。和彦は胸が詰まったが、何も言えなくなる前にこれだけは確認しておいた。
「……別にやましい気持ちはないが、この部屋、監視カメラがついているんだよな」
「ガキが薬をキメるのに使っているような場所に、そんないいものがついているわけないだろ」
言い終わると同時に、三田村は和彦が欲しがっているものがわかっているかのように、逞しい両腕が体に回された。
あれだけ男に抱かれてよがり狂う和彦の様を見ていながら、それでも抱き締めてくれるのだなと思ったら、三田村を自分につけてくれた賢吾の慧眼だけは、認めたくなった。
「どうして、こんなことをしてくれるんだ」
「多分今、先生にこうすることが一番いいと思うからだ」
三田村らしい答えだと、和彦は小さく笑う。そして自らも、三田村の背に両腕を回した。
「――……これは別に、大事なことじゃない。だから、組長に報告する必要はないだろ」
「そうだ。俺はただ、先生を組長の元に連れて戻るために、説得しているだけだ。だから特別なことじゃない。仕事の一つだ」
三田村の両腕に力が加わり、二人の体はこれ以上なく密着する。
この男はこんな体つきをしているのだと、スーツを通して感じる三田村の体の感触を、和彦は新鮮なものとして受け止める。
何も要求せず、ただ抱き締めてくれる腕の強さが心地よかった。和彦は顔を上げると、相変わらず感情をどこかに置き忘れたような無表情の三田村を見つめる。無表情ながら、今日はわずかに感情が透けて見えそうな気もして、和彦は間近に顔を寄せる。
「……人を慰めながら、弱みを探ってるんだろ。ヤクザのやり口はわかってるんだ」
「わかっているなら油断するな、先生。あんたは口は悪いが、根本的なところで、優しくて、甘い人間だ。だから、ヤクザなんかにつけ込まれる」
もっともな言葉に思わず苦笑を洩らした和彦は、指先を三田村のあごの傷跡に這わせてから、てのひらを三田村の頬に押し当て、撫でる。すると、三田村の大きな手が、子供をあやすように和彦の背をさすってきた。
和彦は、両腕を三田村の首に回してしがみつき、耳元で囁いた。
「もっと強く抱き締めてくれ」
「――先生の望み通りに」
三田村のこの言い方が、やはり好きだった。淡々とした口調とは裏腹に、強く熱い抱擁を与えてくれる律儀さも。
結局この日、和彦は加入書に署名はしなかった。
事務所に戻るよう、三田村に言われたが、頑として和彦は動かなかったのだ。
無理強いするようなら、三田村曰く、『ガキがクスリをキメるのに使っているような』部屋に篭城するつもりだったが、それは未遂に終わった。
店員が気を利かせて運んでくれたジンジャーエールを飲んでいると、乱暴にドアが開けられ、危うく和彦は口に含んだものを噴き出しそうになる。
「――大丈夫か、先生」
顔を背けて激しく咳き込む和彦の背が、強くさすられる。今日知ったばかりの三田村の手の感触ではなかった。かけられた声も、ハスキーな声ではない。ゾッとするほど忌々しく、魅力的なバリトンだ。
本能的な恐怖で身をすくませながらも、苦しさで滲んだ涙を拭って顔を上げると、傍らに賢吾が立っていた。口元に浮かんでいる薄い笑みを見て一瞬怯みかけた和彦だが、普段の条件反射から、睨みつけてしまう。
「殴りたいなら殴れ。だけど、自分からは絶対、あんなものに署名しないからな」
賢吾は鼻で笑ってから、和彦のあごの下を軽く撫でた。
「俺は、オンナに手を上げない」
「ぼくはっ――」
「つまらない意地を張るな。先生は、痛いのが何より嫌いだろう」
あごをすくい上げられ、和彦は体を強張らせる。あごにかかった手が、次の瞬間には首を絞めてくる想像が容易につくのだ。
息を詰める和彦の視界に、出入り口の前に立った三田村の姿が入る。このとき咄嗟に考えたのは、三田村は、この場所で和彦との間にあった行為を、賢吾に報告していないのだろうかということだ。
「……逃げたことは謝る」
「ほう」
ようやく和彦が絞り出した言葉に、わざとらしく賢吾が応じる。
「だけど、ぼくになんの説明もなく、あんなものに名前を書かせようとしたことは許さない。……ぼくは、ヤクザなんかになるつもりはない」
「俺もするつもりはない。先生は先生だ」
賢吾の指先に唇を擦られ、うろたえるほど強烈な疼きが背筋を駆け抜ける。動揺を見透かされたくなくて、和彦は虚勢を張るしかなかった。
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