血と束縛と

北川とも

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第3話

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 エレベーターホールに向かおうとしたが、追いつかれることを危惧し、非常階段を使って一階に降りる。雑居ビルを出た和彦は足早に通りを歩き始めたが、大通りに出る前に、背後から近づいてくる足音に気づいた。
「先生っ」
 呼びかけてくる声は三田村のものだった。こういうときでも、和彦の面倒を見るのは三田村になっているらしい。
 和彦は頑なに振り返らないどころか、歩調も緩めない。それでもかまわないとばかりに、三田村がものすごい勢いで前に回り込み、両腕を広げた。
「先生、どこに行く気だ」
 無表情で問いかけてきた三田村だが、さすがに息がわずかに乱れている。和彦は睨みつけてから、三田村の腕を躱して行こうとする。
「先生っ」
 鋭い声を発した三田村に腕を掴まれた。和彦は掴まれていないほうの手を振り上げ、三田村の頬を平手で容赦なく打ち据えた。通りを行き交う人が、何事かといった様子をこちらを見てから、慌てて目を逸らして通りすぎる。
「……ぼくは、ヤクザにはならない」
「あれは、そういう書類じゃない。ただ先生の立場を確かなものにするために――」
「何も知らない人間からしたら、ぼくもあんたたちも、一括りにされる。他人からしたら、事情なんて知ったことじゃない。……ぼくは、被害者だ。あんな猛獣みたいな男に脅されて、協力させられて、オンナ呼ばわりされて。これまでだって男とは寝ていたが、尊厳を踏みにじられるようなことはされなかったし、させなかった。なのに、あの男は……」
 和彦はもう一度、三田村の頬を打つ。
「今度はヤクザにしようとしているっ」
 肩を上下させ、興奮のあまり涙を滲ませる和彦を、三田村はじっと見つめてくる。そして、ぽつりと言った。
「――あんたは、〈ヤクザに脅されている被害者〉という立場を失うのが嫌なのか?」
 淡々とした三田村の言葉は、鋭く和彦の心を抉った。この瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われたのは、これ以上ないほど図星を指されたからだ。
 和彦は必死に三田村の手を振り解こうとするが、腕どころか、肩まで掴んできた三田村の力は、骨がどうにかなりそうなほど強い。
「離せっ」
「先生、大声を出すな。警官が来る」
「だったらどうしたっ。ぼくは訴えるからな。変なものに名前を書かされて、ヤクザの組に引き込まれそうになっていると」
 声を抑えない和彦に苛立ったように三田村が舌打ちする。さすがに、和彦の騒ぎぶりが只事ではないと思ったのか、通行人が足を止め始めていた。
 素早く周囲を見回した三田村の腕ががっちりと肩に回され、手首を掴まれて引きずられる。
「離せっ。あそこには戻らないからなっ」
「わかってる」
 抵抗しようとしたが、掴まれた手首を捻られる。一瞬息が止まるような痛みに、あえなく和彦の抵抗は封じられ、おとなしく三田村についていくことになる。
 また事務所に連れて行かれるのかと思ったが、三田村はわき道に入り、黙々と歩く。左右に建ち並ぶのは、飲食店や風俗店や、それらが入った雑居ビルが大半だった。昼過ぎという時間帯もあり、どこの店もまだ閉まっており、人通りもほとんどない。
 三田村が細長い造りの古い雑居ビルに入る。このとき和彦はもう一度逃げ出そうとしたが、容赦なく手首を捻られて悲鳴を上げさせられた。
「あまり、医者の先生の手を痛めるようなことはしたくない。おとなしくしていてくれ」
「いっそのこと、刃物でも出して脅したらどうだ。ヤクザなら得意だろ」
 初めて三田村から、ゾッとするような凄みを帯びた眼差しを向けられた。
 引っ張り込まれたのは、まだ開店準備をしているカラオケボックス店だった。驚いたように若い従業員が目を見開き、相手が三田村だとわかると、大げさなほど勢いよく頭を下げた。
「お疲れ様ですっ」
「部屋の一つを貸してくれ。話がしたいんだ」
 従業員が、手首を掴まれ、肩を押さえられている和彦を見て、すべてを理解したように頷く。
「一番奥の部屋を使ってください。もう掃除が終わってますから」
 大股で歩く三田村の迫力に圧されて、促されるまま部屋に足を踏み入れた和彦は、狭いうえに、きれいとは言いがたい部屋を見回す。このときになってようやく三田村の手から解放され、思わず自分の手首に視線を落とす。掴まれていた部分がしっかり跡になっていた。
「……悪かった。力加減がわからなかった」
 和彦の手元を覗き込み、三田村が言う。間近で目が合った途端に、外で言われた言葉を思い出し、和彦は三田村を睨みつけた。
「これだけははっきりさせろ。――ぼくは、被害者か加害者か?」
「加害者ではないな」
 三田村の言い方にカッとして手を振り上げたが、すかさず手首を掴まれた。
「人を殴り慣れてない先生が俺をいくら殴ったところで、手を痛めるだけだ」
 手を振り払った和彦は、感情のない三田村の顔を見るのが嫌で背を向ける。汚れた壁を見据えながら、震える声で言った。
「ぼくは……、ヤクザは嫌いだ」
「普通の人間はそうだろう。だけど、あんたは今、そのヤクザの庇護を受けている」
「望んだわけじゃない。押し付けられたんだっ」
「だが、受け入れた。組長と千尋さんのオンナとして、体を開いている。感じているから、その立場を喜んでいるとは、俺も思ってないがな。ただ、割り切って受け入れることが、先生なりの処世術だと思っていたのは確かだ」
 和彦は、三田村を殴れない代わりに、壁を拳で殴りつける。
「……ぼくも、そう思っていた。抜け出す勇気も覚悟も持てないなら、このヌルイ状況にしばらく身を置くのもいいってな。だけどそれはあくまで、普通の人間が、一歩だけ一線を踏み越えた感覚だった。ヤクザの世界に全身まで浸かる気はない」
 話しながら和彦は、何回も壁を殴りつける。
「この世界じゃ、そんな理屈は通らない。一度、ヤクザから何かを与えられたら、人生か命を代償に差し出す覚悟が必要だ。たとえ、無理やり与えられたものだとしてもな」
 すぐ背後に三田村が立った気配がして、スッと手が伸ばされる。壁を殴りつけていた手をそっと止められた。ここに来るまで、骨を砕きそうなほど強い力で手首を握っていた男とは思えないほど、丁寧な動作だ。
 背に三田村の体温を感じ、痛む手を、労わるように大きな手で包まれながら、和彦はこう三田村に問いかけた。
「――……あんたも、何か差し出しているのか、あの組に」
「俺は、人生と命の両方を。もともと大して価値があるものじゃない……、そう思っていた俺に存在理由をくれたのは、先代と、今の組長だ。好きに使ってほしいと思っている。少なくとも今の生活が、俺には一番性に合っているし、楽しい――という表現は違うが、普通の人間なら味わえない刺激がある。性質の悪い刺激だが、嫌いにはなれない」
 感情を表に出さない三田村だが、少なくともこうして聞く声にはなんとも言えない深みがあった。高ぶっていた和彦の気持ちは次第に落ち着きを取り戻していく。
 誰にも言えない――誰にも言う気のなかった本心を、和彦は吐露していた。

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