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第3話
(8)
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「体調には気をつけろ。医者の不養生というしな」
「飼った早々に壊れられても困る、か」
「そう憎まれ口を叩くな。俺なりに、先生を大事にするための環境を整えているつもりだ。今日、事務所に連れていくのも、そのためだ。何事も形式と儀式は大事だからな。対外的な意味でも」
また、気になる言い回しだ。
急に車を降りて帰りたい心境になったが、肩に回された腕はがっちりと和彦を押さえ込んでおり、身動きもままならない。正直、賢吾に肩を抱かれるのは好きではなかった。自分の所有物だと示されているようで気に障る。こんなことにこだわるのも、ここ数日の気分の浮沈の激しさのせいかもしれない。
車がある駐車場に入ると、エンジンを切るまでの間に、何人かの人間が駆け足で車の周囲に集まってくる。賢吾を出迎えるためのもので、目にするのは初めてではないのだが、やはり緊張する。賢吾と一緒にいると、必然的に和彦も恭しい待遇を受けることになり、気詰まりして仕方ない。
気が重くなるのを感じながら、賢吾に促されるまま車を降りた和彦は、周囲を組員たちに守られながら事務所に向かう。
事務所が入っているきれいな雑居ビルには、ほとんど看板は出ていなかった。ヤクザの事務所が入っているようなビルに、まともなテナントが入るとも思えない。
エレベーターに乗り込んだところで、和彦は隣に立つ賢吾を見る。組員たちに囲まれるたびに思い出すのが、賢吾と初めて会ったときのことだ。拘束され、目隠しをされて辱められたときの光景は、いまだに夢に見る。
もう、あんなことはしないと賢吾は言うが、ヤクザの約束ほど信用ならないものはないと教えてくれたのもまた、賢吾だ。
その賢吾とともに和彦が通されたのは、フロアの奥の応接室だった。すでに先客の姿があり、賢吾の姿を見るなり立ち上がり、深々と頭を下げた。一連の動作はビジネスマン然としており、こんな場所でなければ、ごくごく普通の商談の光景のようだ。
頭を上げた男が、縁なし眼鏡の中央を押し上げ、レンズ越しの眼差しをこちらに向けてくる。動作だけでなく、顔立ちはおろか全体の雰囲気も、やはりビジネスマンのように見えた。言い換えるなら、こんな場所にいるのが非常に不似合いだということだ。
全体に印象の薄い顔立ちをしており、四十歳そこそこのようだ。ヤクザと関わってから、よくも悪くもアクの強い人間ばかりと接してきた和彦にとっては、ある意味、新鮮だ。
これは誰だと思った和彦は、半ば条件反射のように、ドアの側に立っている三田村を見る。他に組員たちがソファの側に立っている中、三田村だけは常にそうであるように部屋の隅にいるのだ。
この状況で三田村一人が口を開けるはずもなく、和彦の無言の問いかけは、視線を逸らされる形で受け流された。
「待たせたな」
賢吾が口を開き、和彦は促されるまま並んでソファに腰掛ける。それを待って男も座り直し、傍らのアタッシェケースに手をかけた。それを見て、クリニックの手続きに関することだろうかと予想する。しかし、そうではなかった。
男は封筒を取り出して賢吾に手渡してから、和彦には、名刺入れから取り出した名刺を差し出してきた。
「――総和会での事務処理全般に当たっている藤倉です。今後、何かと佐伯先生とお会いする機会もあると思いますので、よろしくお願いします」
藤倉と名乗った男がまた深々と頭を下げたので、つられて和彦も頭を下げたが、すぐに意識はもらった名刺へと向く。
何かの植物の葉らしきものに、『総』という字が囲まれている代紋と、総和会という名が確かに記されていた。男の肩書きは正式には、文書室筆頭というらしい。
「『総』の字を囲むのは、十一枚の葉です。ただし、一番上にある葉だけは、形が大きいことにお気づきですか? あとの十枚の葉の大きさは同じ。総和会とは、そういう組織です。そして現在のところ、一番大きな葉を持つのは、こちらの長嶺組です」
慣れた口調での藤倉の説明に相槌を打つことも忘れ、和彦は賢吾を見る。賢吾は封筒から取り出した書類に万年筆で何か書き込んでいた。さらに、傍らに立った組員から別の書類を受け取る。
すぐにその書類は、和彦の前に万年筆とともに置かれた。『加入書』と記された文字を見て、和彦はあることを察した。
「まさか、これ……」
「お前が、本当にうちの身内になるための書類だ。本来は盃も取り交わすところだが、お前はそういうのとは違うからな。ただ、形式は必要だ。正式な身内としてお前を迎えるためにな」
どこか冷然とした声で話しながら、賢吾がさらにもう一枚の書類を置いた。
「こちらは、総和会の加入書。順番を間違えるな。先に、長嶺組の書類に名前を書き込め。うちの組に身を預けたうえで、総和会と結縁ができるんだ。お前の立場を保証するのは、長嶺組組長の俺だ。これで、組と総和会でのお前の存在に、誰も文句はつけられない。お前に何かあるときは、うちにケンカを売るのと同義になる」
賢吾の説明を聞いても、心強いとか、感謝するという気持ちは一切湧かなかった。むしろ、狼狽し、恐怖すら抱いてしまう。
いままでも、引き返せない状況になってしまったと思っていたが、加入書などというものに署名してしまえば、今度こそ、死ぬまでヤクザとつき合っていく義務を負わされる。
「――……ぼくは、こんなものに名前を書く気はない……」
「先生?」
「ヤクザでもない、そんなものになりたくもないぼくが、なんでこんなものを書かないといけないんだ。それこそ、逃げられなくなる。……医者として、できることはしてやる。だけど、こんなものをぼくに突きつけるなっ。わけのわからない組織と、ぼくを関わらせるなっ」
二枚の書類を払い除けて和彦は立ち上がり、動じた様子もない賢吾を睨みつけた。
「喜んで名前を書くと思ったのか? さっさとヤクザと縁を切りたいと思っているのに。――なんでも自分の思い通りになると思うな。つき合ってられるかっ……」
和彦は応接室を出ると、そのまま出口に向かう。途中にいる組員たちが何事かといった様子で和彦を見て、止めていいものかどうか逡巡している。その隙を突いて、和彦は事務所を飛び出した。
「飼った早々に壊れられても困る、か」
「そう憎まれ口を叩くな。俺なりに、先生を大事にするための環境を整えているつもりだ。今日、事務所に連れていくのも、そのためだ。何事も形式と儀式は大事だからな。対外的な意味でも」
また、気になる言い回しだ。
急に車を降りて帰りたい心境になったが、肩に回された腕はがっちりと和彦を押さえ込んでおり、身動きもままならない。正直、賢吾に肩を抱かれるのは好きではなかった。自分の所有物だと示されているようで気に障る。こんなことにこだわるのも、ここ数日の気分の浮沈の激しさのせいかもしれない。
車がある駐車場に入ると、エンジンを切るまでの間に、何人かの人間が駆け足で車の周囲に集まってくる。賢吾を出迎えるためのもので、目にするのは初めてではないのだが、やはり緊張する。賢吾と一緒にいると、必然的に和彦も恭しい待遇を受けることになり、気詰まりして仕方ない。
気が重くなるのを感じながら、賢吾に促されるまま車を降りた和彦は、周囲を組員たちに守られながら事務所に向かう。
事務所が入っているきれいな雑居ビルには、ほとんど看板は出ていなかった。ヤクザの事務所が入っているようなビルに、まともなテナントが入るとも思えない。
エレベーターに乗り込んだところで、和彦は隣に立つ賢吾を見る。組員たちに囲まれるたびに思い出すのが、賢吾と初めて会ったときのことだ。拘束され、目隠しをされて辱められたときの光景は、いまだに夢に見る。
もう、あんなことはしないと賢吾は言うが、ヤクザの約束ほど信用ならないものはないと教えてくれたのもまた、賢吾だ。
その賢吾とともに和彦が通されたのは、フロアの奥の応接室だった。すでに先客の姿があり、賢吾の姿を見るなり立ち上がり、深々と頭を下げた。一連の動作はビジネスマン然としており、こんな場所でなければ、ごくごく普通の商談の光景のようだ。
頭を上げた男が、縁なし眼鏡の中央を押し上げ、レンズ越しの眼差しをこちらに向けてくる。動作だけでなく、顔立ちはおろか全体の雰囲気も、やはりビジネスマンのように見えた。言い換えるなら、こんな場所にいるのが非常に不似合いだということだ。
全体に印象の薄い顔立ちをしており、四十歳そこそこのようだ。ヤクザと関わってから、よくも悪くもアクの強い人間ばかりと接してきた和彦にとっては、ある意味、新鮮だ。
これは誰だと思った和彦は、半ば条件反射のように、ドアの側に立っている三田村を見る。他に組員たちがソファの側に立っている中、三田村だけは常にそうであるように部屋の隅にいるのだ。
この状況で三田村一人が口を開けるはずもなく、和彦の無言の問いかけは、視線を逸らされる形で受け流された。
「待たせたな」
賢吾が口を開き、和彦は促されるまま並んでソファに腰掛ける。それを待って男も座り直し、傍らのアタッシェケースに手をかけた。それを見て、クリニックの手続きに関することだろうかと予想する。しかし、そうではなかった。
男は封筒を取り出して賢吾に手渡してから、和彦には、名刺入れから取り出した名刺を差し出してきた。
「――総和会での事務処理全般に当たっている藤倉です。今後、何かと佐伯先生とお会いする機会もあると思いますので、よろしくお願いします」
藤倉と名乗った男がまた深々と頭を下げたので、つられて和彦も頭を下げたが、すぐに意識はもらった名刺へと向く。
何かの植物の葉らしきものに、『総』という字が囲まれている代紋と、総和会という名が確かに記されていた。男の肩書きは正式には、文書室筆頭というらしい。
「『総』の字を囲むのは、十一枚の葉です。ただし、一番上にある葉だけは、形が大きいことにお気づきですか? あとの十枚の葉の大きさは同じ。総和会とは、そういう組織です。そして現在のところ、一番大きな葉を持つのは、こちらの長嶺組です」
慣れた口調での藤倉の説明に相槌を打つことも忘れ、和彦は賢吾を見る。賢吾は封筒から取り出した書類に万年筆で何か書き込んでいた。さらに、傍らに立った組員から別の書類を受け取る。
すぐにその書類は、和彦の前に万年筆とともに置かれた。『加入書』と記された文字を見て、和彦はあることを察した。
「まさか、これ……」
「お前が、本当にうちの身内になるための書類だ。本来は盃も取り交わすところだが、お前はそういうのとは違うからな。ただ、形式は必要だ。正式な身内としてお前を迎えるためにな」
どこか冷然とした声で話しながら、賢吾がさらにもう一枚の書類を置いた。
「こちらは、総和会の加入書。順番を間違えるな。先に、長嶺組の書類に名前を書き込め。うちの組に身を預けたうえで、総和会と結縁ができるんだ。お前の立場を保証するのは、長嶺組組長の俺だ。これで、組と総和会でのお前の存在に、誰も文句はつけられない。お前に何かあるときは、うちにケンカを売るのと同義になる」
賢吾の説明を聞いても、心強いとか、感謝するという気持ちは一切湧かなかった。むしろ、狼狽し、恐怖すら抱いてしまう。
いままでも、引き返せない状況になってしまったと思っていたが、加入書などというものに署名してしまえば、今度こそ、死ぬまでヤクザとつき合っていく義務を負わされる。
「――……ぼくは、こんなものに名前を書く気はない……」
「先生?」
「ヤクザでもない、そんなものになりたくもないぼくが、なんでこんなものを書かないといけないんだ。それこそ、逃げられなくなる。……医者として、できることはしてやる。だけど、こんなものをぼくに突きつけるなっ。わけのわからない組織と、ぼくを関わらせるなっ」
二枚の書類を払い除けて和彦は立ち上がり、動じた様子もない賢吾を睨みつけた。
「喜んで名前を書くと思ったのか? さっさとヤクザと縁を切りたいと思っているのに。――なんでも自分の思い通りになると思うな。つき合ってられるかっ……」
和彦は応接室を出ると、そのまま出口に向かう。途中にいる組員たちが何事かといった様子で和彦を見て、止めていいものかどうか逡巡している。その隙を突いて、和彦は事務所を飛び出した。
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