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第3話
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千尋に促されるまま舌を絡め合っているうちに、車内に微かに濡れた音が響く。急に羞恥を覚えてうろたえた和彦が唇を離すと、千尋が低く囁いた。
「ほら、先生やっぱり、興奮してる」
なんとも答えようがなくて和彦は、千尋の頬を軽くつねり上げる。
「……お前、他に相手を見つけろよ。家のことを知らせずに済む遊びの相手ぐらい、不自由しないだろ」
「純粋に遊ぶだけの仲間ならいるけどさ、こういうことをするのは、先生だけ。俺って意外に硬派なんだよ」
硬派な人間は、父親と〈オンナ〉を共有して楽しんだりはしないだろう。そう指摘したかったのだが、最近の和彦は、たとえ千尋相手でも、思ったことをそのまま口にできなくなっていた。自分の発言が、どんな形で返ってくるかわかったものではないからだ。
千尋が意味ありげな流し目を寄越してくる。
「先生、さっさと自分に飽きてくれと思ってるだろ。そうしたら、ぽいっと自分を捨ててくれるだろうって」
咄嗟に和彦が見たのは、三田村だった。共同所有を宣言されたあと三田村に投げかけた質問を、賢吾や千尋に報告されたと思ったのだ。しかし、そうではなかった。
「さっき先生が見せた暗い顔で、誰でもそれぐらい察しがつくよ。円満に組から遠ざかるには、俺やオヤジから、顔も見たくないって放り出されるぐらいしかないからね」
「……レストランでお前が話してくれたことを聞いたら、円満にフェードアウトするなんて無理な気がしてきた」
「まあね。先生は、利用価値がありすぎるんだよ。だからこそ、長嶺組の身内であり続けることが、結局先生のためなんだ。何かあれば、組の人間が必死で先生を守ってくれる。オヤジや俺のオンナだからというんじゃなくて、先生がもうすでに、身内を助けてくれたからだ」
身内と言われてすぐにはわからなかったが、千尋が自分の腹を指さしたので、それでピンときた。腹を撃たれた組員の手術を、和彦が手がけたことを言っているのだ。
「ああ……。助けたというか、助けさせられたという感じだけどな」
「だけど、撃たれた組員は、もう動き回れるようになった。先生が助けたからだ」
和彦が黙り込むと、千尋もそれ以上は話しかけてはこなかった。子供のような傍若無人さを発揮しながらも、肝心なところで気遣いを見せるのだから、性質が悪い。だから和彦は、千尋を嫌いになれないし、避けることもできない。
車が駅に着くと、千尋が三田村の手からバッグを受け取る。和彦は、千尋の頭を撫でてやった。
「気をつけて行けよ」
「うん。――帰ってきたら、今度こそ、先生の部屋でセックスしようよ」
和彦はパシッと千尋の頭を叩いてから、車から追い出した。
「……なんてガキだ……。ったく、どういう子育てしてるんだか」
バックミラー越しに三田村と目が合うと、何も言わないまま車が出る。
「今日はもう、何も予定は入ってないんだよな」
「俺はそう聞いている。立ち寄るところがないなら、このまま先生のマンションに向かうが」
「そうだな……」
千尋と別れたときには、今日はもうまっすぐマンションに戻るつもりだったが、ふと気が変わった。
和彦はシートに深くもたれかかりながら、ぼんやりとした声で三田村に告げた。
「立ち寄るというほどじゃないが、回り道して通ってほしい場所がある」
「――先生の望み通りに」
三田村のその言い方が、自分でも不思議なほど和彦は気に入った。
車通りが少なかったせいもあり、気をつかった三田村が車の速度を落としてくれる。和彦はウィンドーを半分ほど下ろし、少し前まで自分が勤めていたクリニックのビルを見上げる。
自分の意思でここを通ることはないだろうと思っていたが、どんどんヤクザの事情やルールに搦め捕られていくうちに、ふいに、普通の生活を送っていた頃の思い出に浸りたくなった。取り乱さない自分は冷静だと自賛すらしていたが、自覚がないまま、精神的にはかなりの負担を感じていたようだ。
「……信じられるか? ちょっと前まで、ぼくはここのクリニックに勤めていたんだ。三十歳にして、それなりにいい収入を得て、いい同僚もいて、やり甲斐のある手術を任されて美容外科医としてのキャリアを積み上げてた。それが今じゃ――」
言葉にできないもどかしさが込み上げてくるが、表に出すことはできなかった。和彦の反応すべてを、三田村の口から賢吾に告げられることを恐れたのだ。
「ヤクザに……しかも組長に逆らったら、やっぱり重石をつけられて海に沈められるのが定番なのか? それとも、酸で指紋を消されて埋められるのか、手間を惜しまないなら、バラバラかな。なんにしても、まともな死体が残らないような消され方をするんだろうな」
一方的に話してから、万が一を考えた和彦はウィンドーを上げる。勤務時間中だが、クリニックの関係者に見つかる事態は避けたかった。
三田村が静かに車のスピードを上げたので、次に進む道の指示を出す。シートの反対側に移動した和彦がまたウィンドーを下ろすと、ちょうど馴染みだったカフェの前を通るところだった。千尋がバイトをしていた店だ。
天気がいいこともあり、テラスは満席でにぎわっている。ウェイターたちが慌ただしく行き来しており、和彦は簡単に、そこにかつての千尋の姿を重ねることができた。
「……千尋は、ものすごく目立ってたんだ。きれいな顔をしているうえにスタイルもいいし、何より人懐こかった。特にぼくに対して。どこから見てもモテそうなくせに、ぼくがカフェに行くと、テーブルの担当じゃなくても、嬉しそうにやってきてた。そんな千尋とつき合っているときは楽しかった。たまには年下もいい、とのん気に思ってた」
元の場所に戻った和彦は、深いため息をついてシートにもたれかかる。天気のよさとは裏腹に、今日は調子が悪かった。気分の浮沈が激しい。
いや、千尋と一緒にいるときは、何も悟られたくなくて平素を装っていただけで、今の状態のほうが自然なのだ。
ようやく落ち着いた時間を手に入れて、あれこれ考えすぎているのだろうか――。
「ほら、先生やっぱり、興奮してる」
なんとも答えようがなくて和彦は、千尋の頬を軽くつねり上げる。
「……お前、他に相手を見つけろよ。家のことを知らせずに済む遊びの相手ぐらい、不自由しないだろ」
「純粋に遊ぶだけの仲間ならいるけどさ、こういうことをするのは、先生だけ。俺って意外に硬派なんだよ」
硬派な人間は、父親と〈オンナ〉を共有して楽しんだりはしないだろう。そう指摘したかったのだが、最近の和彦は、たとえ千尋相手でも、思ったことをそのまま口にできなくなっていた。自分の発言が、どんな形で返ってくるかわかったものではないからだ。
千尋が意味ありげな流し目を寄越してくる。
「先生、さっさと自分に飽きてくれと思ってるだろ。そうしたら、ぽいっと自分を捨ててくれるだろうって」
咄嗟に和彦が見たのは、三田村だった。共同所有を宣言されたあと三田村に投げかけた質問を、賢吾や千尋に報告されたと思ったのだ。しかし、そうではなかった。
「さっき先生が見せた暗い顔で、誰でもそれぐらい察しがつくよ。円満に組から遠ざかるには、俺やオヤジから、顔も見たくないって放り出されるぐらいしかないからね」
「……レストランでお前が話してくれたことを聞いたら、円満にフェードアウトするなんて無理な気がしてきた」
「まあね。先生は、利用価値がありすぎるんだよ。だからこそ、長嶺組の身内であり続けることが、結局先生のためなんだ。何かあれば、組の人間が必死で先生を守ってくれる。オヤジや俺のオンナだからというんじゃなくて、先生がもうすでに、身内を助けてくれたからだ」
身内と言われてすぐにはわからなかったが、千尋が自分の腹を指さしたので、それでピンときた。腹を撃たれた組員の手術を、和彦が手がけたことを言っているのだ。
「ああ……。助けたというか、助けさせられたという感じだけどな」
「だけど、撃たれた組員は、もう動き回れるようになった。先生が助けたからだ」
和彦が黙り込むと、千尋もそれ以上は話しかけてはこなかった。子供のような傍若無人さを発揮しながらも、肝心なところで気遣いを見せるのだから、性質が悪い。だから和彦は、千尋を嫌いになれないし、避けることもできない。
車が駅に着くと、千尋が三田村の手からバッグを受け取る。和彦は、千尋の頭を撫でてやった。
「気をつけて行けよ」
「うん。――帰ってきたら、今度こそ、先生の部屋でセックスしようよ」
和彦はパシッと千尋の頭を叩いてから、車から追い出した。
「……なんてガキだ……。ったく、どういう子育てしてるんだか」
バックミラー越しに三田村と目が合うと、何も言わないまま車が出る。
「今日はもう、何も予定は入ってないんだよな」
「俺はそう聞いている。立ち寄るところがないなら、このまま先生のマンションに向かうが」
「そうだな……」
千尋と別れたときには、今日はもうまっすぐマンションに戻るつもりだったが、ふと気が変わった。
和彦はシートに深くもたれかかりながら、ぼんやりとした声で三田村に告げた。
「立ち寄るというほどじゃないが、回り道して通ってほしい場所がある」
「――先生の望み通りに」
三田村のその言い方が、自分でも不思議なほど和彦は気に入った。
車通りが少なかったせいもあり、気をつかった三田村が車の速度を落としてくれる。和彦はウィンドーを半分ほど下ろし、少し前まで自分が勤めていたクリニックのビルを見上げる。
自分の意思でここを通ることはないだろうと思っていたが、どんどんヤクザの事情やルールに搦め捕られていくうちに、ふいに、普通の生活を送っていた頃の思い出に浸りたくなった。取り乱さない自分は冷静だと自賛すらしていたが、自覚がないまま、精神的にはかなりの負担を感じていたようだ。
「……信じられるか? ちょっと前まで、ぼくはここのクリニックに勤めていたんだ。三十歳にして、それなりにいい収入を得て、いい同僚もいて、やり甲斐のある手術を任されて美容外科医としてのキャリアを積み上げてた。それが今じゃ――」
言葉にできないもどかしさが込み上げてくるが、表に出すことはできなかった。和彦の反応すべてを、三田村の口から賢吾に告げられることを恐れたのだ。
「ヤクザに……しかも組長に逆らったら、やっぱり重石をつけられて海に沈められるのが定番なのか? それとも、酸で指紋を消されて埋められるのか、手間を惜しまないなら、バラバラかな。なんにしても、まともな死体が残らないような消され方をするんだろうな」
一方的に話してから、万が一を考えた和彦はウィンドーを上げる。勤務時間中だが、クリニックの関係者に見つかる事態は避けたかった。
三田村が静かに車のスピードを上げたので、次に進む道の指示を出す。シートの反対側に移動した和彦がまたウィンドーを下ろすと、ちょうど馴染みだったカフェの前を通るところだった。千尋がバイトをしていた店だ。
天気がいいこともあり、テラスは満席でにぎわっている。ウェイターたちが慌ただしく行き来しており、和彦は簡単に、そこにかつての千尋の姿を重ねることができた。
「……千尋は、ものすごく目立ってたんだ。きれいな顔をしているうえにスタイルもいいし、何より人懐こかった。特にぼくに対して。どこから見てもモテそうなくせに、ぼくがカフェに行くと、テーブルの担当じゃなくても、嬉しそうにやってきてた。そんな千尋とつき合っているときは楽しかった。たまには年下もいい、とのん気に思ってた」
元の場所に戻った和彦は、深いため息をついてシートにもたれかかる。天気のよさとは裏腹に、今日は調子が悪かった。気分の浮沈が激しい。
いや、千尋と一緒にいるときは、何も悟られたくなくて平素を装っていただけで、今の状態のほうが自然なのだ。
ようやく落ち着いた時間を手に入れて、あれこれ考えすぎているのだろうか――。
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