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第3話
(1)
しおりを挟む引っ越し先の部屋の居心地は、いいとはいえなかった。まだ慣れていないというのもあるが、目につく家具の一つ一つが自分が選んだものではないというのが、最大の原因だろう。
大きな窓につけられたカーテンも、足元で心地いい感触を与えてくれるカーペットも、腰掛けているソファも、文句なしに品はいいが、少なくとも和彦の趣味ではない。まるで高級ホテルのスイートルームにでもいるようだ。
高層マンションの広くてきれいな角部屋を与えてくれたことだけは、唯一評価してもいいのだろうが――。
所有したものには、徹底して自分の好みを押し付けるのがこの男のやり方なのだろうかと、和彦は正面のソファに腰掛けた賢吾に視線を向ける。
露骨に警戒している和彦の反応がおもしろいのか、長嶺組組長という肩書きを持つ男は、悠然と足を組んだ姿勢で寛ぎながら、じっとこちらを見つめていた。
今、四十五歳だそうだが、年齢からくる衰えは、この男からは一切感じられない。仕立てのいいダブルスーツに包まれた体は偉丈夫と表現してもいいだろう。いまだに賢吾の素肌のほとんどを見たことがないが、抱き締められるたびに和彦は、引き締まり、張り詰めた筋肉の存在を感じるのだ。
そのうえ、全身から発している威圧的な空気や、圧倒されるほどの力強さ、男としての色気が、賢吾の存在をより強烈にしている。
強烈すぎて、凶悪。狡猾で残酷な性格も合わせれば、完璧だ。
そんな男に目をつけられ、こんなマンションに住まわされることになった和彦は、自分が置かれた状況を嘆く気力も失われつつあった。
囲われ者らしく、部屋にじっとしていて、主の訪れを待つだけの生活――などは待っておらず、引っ越し前後から急に和彦は忙しくなった。
独立する意思などまったくなかった一介の若い医者が、突如としてクリニックの経営を任されるのだ。開業資金や空きテナント探しといったことは長嶺組に一任するとしても、実際にクリニックで患者を診ることになる和彦は、必要な医療機器や備品などを選定しなくてはならないし、そのことでクリニックの開業専門に手がけているコーディネーターからアドバイスももらわなくてはならない。
真っ当な準備の裏では、医師会や役所に提出する必要書類についても、〈工作〉しなくてはならなかった。賢吾がかつて言っていたが、クリニックの経営者として、別の人間を立てることにした。つまり名義を買うのだ。
長嶺組から紹介された会計士を相手に、すでに税務対策も考えてもらっている。これは和彦個人の問題というより、長嶺組の資金の出入りに関して、外部からの調査を警戒してのものだ。
患者相手にカウンセリングをして、手術をこなしていた生活とはあまりに違う毎日だ。慌ただしく出かけて人と会い、慣れないこの部屋に戻ってきてからは、書類と首っ引きになり、合間に数字と格闘もしなければならない。
とにかく忙しくて、疲れている。どうして自分がこんな状況に置かれたのか、嘆く気力も失われるのは当然のことだ。時間は常に慌ただしく過ぎていく。
「……開業の準備に関しては、毎日組に報告しているはずだ。わざわざこの部屋に来ることはないだろう」
うんざりしながら和彦が言うと、わざと聞こえないふりをしているのか、賢吾はリビングを見回した。この部屋を訪れたのは今日が初めてのため、賢吾は玄関に入ったときから、他の部屋はおろか、トイレやバスルームまでこうやってチェックしていた。
「まだ、殺風景だな。引っ越しの荷物は解いたんだろう?」
「あまりごちゃごちゃと飾るのは好きじゃない。それに、こんな広い部屋にたっぷり置けるほどの家具なんて、もともと持ってなかった」
一人暮らしなのに広い4LDKの部屋を与えられ、和彦はスペースを持て余していた。どの部屋にいても落ち着かないため、自分の荷物をどっさり運び込んだ書斎で大半の時間を過ごしている。
ふん、と思案するように声を洩らした賢吾が、こう言った。
「もっと家具を買ってやる」
「ああ、好きなものを買って、どんどん運び込んでくれ」
いらないと答えたところで賢吾が聞き入れるとも思えないので、和彦はそう答える。ニッと笑った賢吾は、ソファの傍らを指さした。
「ついでに、こいつも常駐させてやろうか? いい番犬だぞ。吠えないし、茶も入れてくれる」
笑えない冗談だと思いながら和彦は、賢吾が指さした先に視線を向ける。ソファの傍らに、置き物のように立っているのは三田村だ。
引っ越してきてから、毎朝この部屋に通ってきて、和彦の運転手兼ボディーガードを務めてくれている。
「……あんたの番犬だろう。ぼくは、運転手をしてくれるだけで十分満足している」
「お前には、うちの子犬の面倒を見てもらってるからな。安いものだ」
その子犬は、実家暮らしは窮屈だと、よく和彦に電話をかけてきては訴えている。本当は会いたいらしいが、子犬扱いの千尋とは違い、和彦は忙しい。ここ何日か、顔を合わせる時間すら作れていない。
千尋はまだ、父親ほど要領がよくないようだ。
「さて――」
ふいに賢吾が声を洩らし、意味深な笑みを浮かべる。これから何が起こるか――求められるか、嫌というほどわかっている和彦は、ピクンと肩を震わせた。
「さっそく俺のオンナとしての務めを果たしてもらおうか、先生。俺もやっと、ここのベッドの使い心地を確かめられる時間が作れたしな」
そう言って賢吾がジャケットを脱ぎ、ネクタイを外してしまう。あとはもう、何も言わない。和彦に対する要求は、それで明白だ。
そっとため息を洩らした和彦は、ちらりと三田村に視線を向ける。相変わらずこの男は、どんな場面であろうが、自分の義務だといわんばかりにしっかりと見つめている。
和彦は思い切って立ち上がり、賢吾の前に歩み寄る。すかさず両腕が伸ばされて腰を捕えられると、引き寄せられた和彦は身を屈め、賢吾の頬を両手で挟み込む。
そっと唇同士を重ねると、賢吾のほうからきつく唇を吸われ、熱い舌が強引に口腔に侵入してくる。いつもの手順で粘膜を舐め回され、口づけだけで感じさせられてから、賢吾に唾液を啜られる。
「……舌を出せよ、先生。よく見えるように」
腰を撫でていた手に尻を揉まれ、さらに両足の間に入り込む。微かに眉をひそめた和彦だが、言われた通り舌を差し出し、まるで三田村に見せ付けるように賢吾と濡れた音を立てながら舌を絡め合う。
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