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第2話
(6)
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和彦は口元に手をやり、眉をひそめる。千尋はもう、和彦と自分の父親の関係を察している。そのことが、千尋になんらかの行動を起こさせるきっかけになったのだとしたら、和彦は無視するわけにはいかなかった。
「どうかしたのか、佐伯」
「……いや、クリニックを辞める前に、もう一度あの店に顔を出せばよかったなと思って。そうしたら、長嶺くんに挨拶ぐらいできたかもしれない」
「そうだなー。こうも突然だと、寂しいよな」
澤村の口調には、わずかな苦さが込められていた。昼休みによく通っていたカフェから馴染みのウェイターがいなくなっただけでなく、クリニックからは和彦もいなくなったのだ。寂しいというのは、澤村の本音なのかもしれない。
「今のクリニックが居心地悪くなったら、お前の新しい勤務先を紹介してもらおうかな」
「そうだな……。ハンサムで腕のいい医者が足りないようだったら、お前の名前を出しておいてやるよ」
そう和彦が応じると、満足そうに笑って澤村は頷いた。
澤村を見送った和彦は、部屋に戻るとすぐに携帯電話を取り上げ、ある番号にかけた。
『先生っ?』
すぐにコール音は途切れ、勢い込んだ千尋の声が鼓膜に突き刺さる。
『どうかした? あっ、これから一緒に昼メシ食おうよ。俺、美味い店見つけたんだ』
パタパタと尻尾を振る音が聞こえてきそうなほど、千尋は上機嫌だった。何も知らない頃なら、可愛い奴だとのん気に思いながら笑えたのだろうが――。
和彦はため息をついてから切り出した。
「お前、カフェでのバイトを辞めたそうだな」
『……なんで知ってるの――ああ、澤村先生か』
「澤村が教えてくれなかったら、ぼくはずっと知らないままだった。お前は教えてくれなかったしな」
黙り込んだ千尋だが、やっと気まずそうに話し始める。
『あそこのバイトは、本当はさっさと辞めるつもりだったんだ。だけど、先生と仲良くなりたかったし、仲良くなったあとも、仕事中にちょっとでも会えるメリットがあったから続けてたんだ』
こうもはっきりと、和彦が目当てでバイトを続けていたと言われると、さすがになんと言えばいいのかわからない。少しだけ動揺した和彦は、バカ、と口中で洩らす。貶けなしているわけではなく、可愛いと思ってしまった自分の気持ちを誤魔化すためだ。
「それで、新しいバイトは見つかったのか?」
『んー、まだ。ここ何日かは、先生にとってはいろいろあっただろうけど、そんな先生のこと考えてたら、俺も何も手につかなくてさ。……会わないと言われて、かなりショックだったんだぜ、俺。しかも、俺のオヤジの組に世話になるとかさ。予想外すぎるだろ』
「悪かったよ……。だけど今は、お前の話だ。先週会ったとき、どうしてバイトを辞めたことを言わなかった。言ったところで、ぼくはなんの力にもならないと思ったんだとしても、せめて教えてくれてもよかっただろ」
『思ってないよっ』
ムキになって千尋が声を張り上げる。携帯電話を耳から遠ざけた和彦は顔をしかめてから、声を抑えろと窘める。
『……ごめん。――先生が力にならないなんて、思ってないよ。ただ、言ったら怒られるかと思ったんだ。三田村もいたのにさ、そんなみっともないところ見られたくないよ」
その三田村に和彦は、さんざん見られたくない場面を見られている。無意識に苦い表情となり、自分には千尋に偉そうなことを言える権利はないのだと痛感していた。
「ぼくのせいで、生活を変えるようなことはするな。お前は、いままで通りに生活していればいい。ぼくのほうも、まあとりあえず、医者として必要とされているみたいだから、すぐにはひどいことにはならないと思うし」
『先生、俺を雇ってよ。なんでもするから。俺が側にいたら、組の連中も先生相手に下手なことできないはずだよ』
千尋からの思いがけない申し出に、和彦は目を丸くする。次に、笑みをこぼしていた。賢吾が、人任せであれ、どんな子育てをしていたのかは知らないが、とにかく千尋の精神が荒んでも病んでもいないことは確かだった。肉食獣の子供だとしても、子供は子供だ。やはり純粋で可愛いのだ。
「そこは安心しろ。ぼくは、組の人間に丁寧に扱われているから」
『先生が、俺の大事な人だから?』
「そう言ってもらえて光栄だな」
電話の向こうで千尋が微かな笑い声を洩らし、続いてヒヤリとするようなことを言った。
『――それとも先生が、オヤジの特別な相手になったからかな』
無邪気で素直で、頭を撫でられるのを待つ犬っころのような言動を取りながら、千尋はふいに、意図したように鋭い牙を覗かせる。和彦が何も知らないときは、そんな一面を隠していたのだろうが、今は違う。効果的に、怖い一面を見せてくる。純粋さから出る怖さだ。
携帯電話を持つ和彦の手は汗ばみ、心なしか心臓の鼓動も速くなっていた。千尋には、賢吾との関係について話したくなかった。たとえ千尋が察しているとしても。
「千尋、今のぼくは考えることが多すぎて、お前との関係をどうしたらいいのか、よくわからない」
『考えなくていいよ。いままで通りなんだから。俺と先生の関係は変わらない』
「……ぼくは、そう簡単には割り切れない。お前には悪いが、男と寝る以外では、ぼくはいままで普通に生きてきたんだ」
電話を切った瞬間に、激しい自己嫌悪に陥った。平穏な日常を奪われてから、いままで誰にもぶつけられなかった鬱屈した感情を、千尋にぶつけたと自覚したからだ。十歳も年下の青年に対して、八つ当たりしたのだ。
千尋と関わったから今の状況があるのだが、だからといって千尋が悪いわけではないのに。
和彦は携帯電話を折り畳むと、テーブルに突っ伏す。
自分から電話しておいて勝手だが、やはりもう、千尋とは会わないのはもちろん、電話もしないほうがいいと思った。それがきっとお互いのためだ。
嫌な光景だと、うんざりしながら和彦は腕組みをする。むしろ、悪夢と呼んでもいいかもしれない。
千尋との関係を思い、やや落ち込んでいた和彦だが、その一方で千尋の父親は多忙ながらも日々精力的らしい。
和彦はサングラスの中央を押し上げると、はあっ、とため息をついて視線を他へと向ける。一目でデザインや造りのよさを感じさせ、当然のように値の張る家具――主にベッドが並ぶフロアには、明らかに男女のカップルが多かった。しかも、幸せそうなオーラを全身から発しているような。
スーツ姿の男二人で訪れている客は、見た限り、和彦たちしかいなかった。しかも、一人はサングラスをかけて不機嫌全開の顔をしており、もう一人は、ちょっと近寄りがたいほどの精悍な顔立ちをして、熱心にキングサイズのベッドを見ている。
「……ありがた迷惑だ」
和彦がぼそりと呟くと、三田村がこちらを向く。
「何か言ったか?」
「なんで新しい部屋に入れる家具を、あんたに選ばれなきゃいけないんだ」
声を潜めてはいるものの、どうしても怒りが滲み出る和彦の言葉に、いつものように生まじめに三田村が応じる。
「どうかしたのか、佐伯」
「……いや、クリニックを辞める前に、もう一度あの店に顔を出せばよかったなと思って。そうしたら、長嶺くんに挨拶ぐらいできたかもしれない」
「そうだなー。こうも突然だと、寂しいよな」
澤村の口調には、わずかな苦さが込められていた。昼休みによく通っていたカフェから馴染みのウェイターがいなくなっただけでなく、クリニックからは和彦もいなくなったのだ。寂しいというのは、澤村の本音なのかもしれない。
「今のクリニックが居心地悪くなったら、お前の新しい勤務先を紹介してもらおうかな」
「そうだな……。ハンサムで腕のいい医者が足りないようだったら、お前の名前を出しておいてやるよ」
そう和彦が応じると、満足そうに笑って澤村は頷いた。
澤村を見送った和彦は、部屋に戻るとすぐに携帯電話を取り上げ、ある番号にかけた。
『先生っ?』
すぐにコール音は途切れ、勢い込んだ千尋の声が鼓膜に突き刺さる。
『どうかした? あっ、これから一緒に昼メシ食おうよ。俺、美味い店見つけたんだ』
パタパタと尻尾を振る音が聞こえてきそうなほど、千尋は上機嫌だった。何も知らない頃なら、可愛い奴だとのん気に思いながら笑えたのだろうが――。
和彦はため息をついてから切り出した。
「お前、カフェでのバイトを辞めたそうだな」
『……なんで知ってるの――ああ、澤村先生か』
「澤村が教えてくれなかったら、ぼくはずっと知らないままだった。お前は教えてくれなかったしな」
黙り込んだ千尋だが、やっと気まずそうに話し始める。
『あそこのバイトは、本当はさっさと辞めるつもりだったんだ。だけど、先生と仲良くなりたかったし、仲良くなったあとも、仕事中にちょっとでも会えるメリットがあったから続けてたんだ』
こうもはっきりと、和彦が目当てでバイトを続けていたと言われると、さすがになんと言えばいいのかわからない。少しだけ動揺した和彦は、バカ、と口中で洩らす。貶けなしているわけではなく、可愛いと思ってしまった自分の気持ちを誤魔化すためだ。
「それで、新しいバイトは見つかったのか?」
『んー、まだ。ここ何日かは、先生にとってはいろいろあっただろうけど、そんな先生のこと考えてたら、俺も何も手につかなくてさ。……会わないと言われて、かなりショックだったんだぜ、俺。しかも、俺のオヤジの組に世話になるとかさ。予想外すぎるだろ』
「悪かったよ……。だけど今は、お前の話だ。先週会ったとき、どうしてバイトを辞めたことを言わなかった。言ったところで、ぼくはなんの力にもならないと思ったんだとしても、せめて教えてくれてもよかっただろ」
『思ってないよっ』
ムキになって千尋が声を張り上げる。携帯電話を耳から遠ざけた和彦は顔をしかめてから、声を抑えろと窘める。
『……ごめん。――先生が力にならないなんて、思ってないよ。ただ、言ったら怒られるかと思ったんだ。三田村もいたのにさ、そんなみっともないところ見られたくないよ」
その三田村に和彦は、さんざん見られたくない場面を見られている。無意識に苦い表情となり、自分には千尋に偉そうなことを言える権利はないのだと痛感していた。
「ぼくのせいで、生活を変えるようなことはするな。お前は、いままで通りに生活していればいい。ぼくのほうも、まあとりあえず、医者として必要とされているみたいだから、すぐにはひどいことにはならないと思うし」
『先生、俺を雇ってよ。なんでもするから。俺が側にいたら、組の連中も先生相手に下手なことできないはずだよ』
千尋からの思いがけない申し出に、和彦は目を丸くする。次に、笑みをこぼしていた。賢吾が、人任せであれ、どんな子育てをしていたのかは知らないが、とにかく千尋の精神が荒んでも病んでもいないことは確かだった。肉食獣の子供だとしても、子供は子供だ。やはり純粋で可愛いのだ。
「そこは安心しろ。ぼくは、組の人間に丁寧に扱われているから」
『先生が、俺の大事な人だから?』
「そう言ってもらえて光栄だな」
電話の向こうで千尋が微かな笑い声を洩らし、続いてヒヤリとするようなことを言った。
『――それとも先生が、オヤジの特別な相手になったからかな』
無邪気で素直で、頭を撫でられるのを待つ犬っころのような言動を取りながら、千尋はふいに、意図したように鋭い牙を覗かせる。和彦が何も知らないときは、そんな一面を隠していたのだろうが、今は違う。効果的に、怖い一面を見せてくる。純粋さから出る怖さだ。
携帯電話を持つ和彦の手は汗ばみ、心なしか心臓の鼓動も速くなっていた。千尋には、賢吾との関係について話したくなかった。たとえ千尋が察しているとしても。
「千尋、今のぼくは考えることが多すぎて、お前との関係をどうしたらいいのか、よくわからない」
『考えなくていいよ。いままで通りなんだから。俺と先生の関係は変わらない』
「……ぼくは、そう簡単には割り切れない。お前には悪いが、男と寝る以外では、ぼくはいままで普通に生きてきたんだ」
電話を切った瞬間に、激しい自己嫌悪に陥った。平穏な日常を奪われてから、いままで誰にもぶつけられなかった鬱屈した感情を、千尋にぶつけたと自覚したからだ。十歳も年下の青年に対して、八つ当たりしたのだ。
千尋と関わったから今の状況があるのだが、だからといって千尋が悪いわけではないのに。
和彦は携帯電話を折り畳むと、テーブルに突っ伏す。
自分から電話しておいて勝手だが、やはりもう、千尋とは会わないのはもちろん、電話もしないほうがいいと思った。それがきっとお互いのためだ。
嫌な光景だと、うんざりしながら和彦は腕組みをする。むしろ、悪夢と呼んでもいいかもしれない。
千尋との関係を思い、やや落ち込んでいた和彦だが、その一方で千尋の父親は多忙ながらも日々精力的らしい。
和彦はサングラスの中央を押し上げると、はあっ、とため息をついて視線を他へと向ける。一目でデザインや造りのよさを感じさせ、当然のように値の張る家具――主にベッドが並ぶフロアには、明らかに男女のカップルが多かった。しかも、幸せそうなオーラを全身から発しているような。
スーツ姿の男二人で訪れている客は、見た限り、和彦たちしかいなかった。しかも、一人はサングラスをかけて不機嫌全開の顔をしており、もう一人は、ちょっと近寄りがたいほどの精悍な顔立ちをして、熱心にキングサイズのベッドを見ている。
「……ありがた迷惑だ」
和彦がぼそりと呟くと、三田村がこちらを向く。
「何か言ったか?」
「なんで新しい部屋に入れる家具を、あんたに選ばれなきゃいけないんだ」
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