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第2話
(5)
しおりを挟む段ボールに本を詰め込んでいた和彦は、インターホンが鳴って手を止める。一瞬ドキリとしたのは、賢吾が迎えにきたからではないかと思ったせいだが、次の瞬間には、それはないと否定する。
自分の都合で和彦を連れ回す男だが、身の安全を考えてか、朝のうちに絶対に連絡を入れてきて、三田村とともに部屋まで迎えにやってくる。知り合って間もないとはいえ、賢吾が一人になったところはまだ見たことがなく、必ず組の人間を一人は連れていた。あらかじめ決めたスケジュールの中で、賢吾は和彦を振り回しているのだ。
今朝、賢吾から電話はなかったので、つまり会う予定はないということになる。
組関係しか人づき合いがなくなってしまった自分に自嘲気味な笑みを洩らしつつ、和彦はインターホンに出る。画面に映った人物を見て、会話もそこそこに慌てて玄関に向かった。
「澤村っ」
ドアを開けた和彦は、段ボールを抱えた澤村の姿を改めて認めて、声を上げる。クリニックを辞めてから、もう澤村と顔を合わせることはないと思っていたのだ。
困惑する和彦に対して、澤村はこれまでと変わらない笑みを向けてくる。無駄に爽やかなその表情を見ていると、なんだか嬉しくなった。
「……どうかしたのか」
「クリニックに残っていたお前の荷物を持ってきた。お前は、適当に処分してくれと言っていたけど、専門書はなかなか手に入らないものもあるし、何より高いしな」
クリニックに写真が送られてきた日のうちに和彦は、辞める旨を電話で事務局に伝え、デスクの片付けなどもすべて任せてしまった。あれから一度もクリニックに顔を出さず――出せるはずもなく、必要な書類などのやり取りを終えたあとは、それで居心地のいい職場との縁は切れたと思っていた。
だが、今日こそが本当に最後らしい。澤村から段ボールを受け取ってから、和彦はほろ苦い感情を噛み締める。
「わざわざすまない。……住所がわかってるんだから、送ってくれたらよかったのに」
「アホ。俺がお前の顔を見たかったんだよ。ああいう別れ方のままだったから、気になってたんだ。本当はすぐにでも来たかったが、お前なりに落ち着く時間も必要かと思ってな。お前の荷物は俺が個人的に預かってた」
そこまで言われて、玄関先で追い返すわけにもいかない。和彦は、散らかっているけどと前置きしてから、澤村を部屋に上げた。
「お前、引っ越すのか?」
ダイニングに通すと、驚いたように澤村に問われる。和彦は受け取った段ボールを、すでに置いてある段ボールの上に置いてから、キッチンに行く。
「……ああ。生活を一新させるついでに、新しい部屋に移ろうかと思って」
「ということは、もう次の部屋は見つけたのか」
「まあな」
本当は和彦自身は、引っ越しのことまで考えが至っていなかったが、今のマンションよりさらにセキュリティーがしっかりしたマンションに移るよう、賢吾に指示されたのだ。当然、引っ越し先のマンションを借りたのも、賢吾だ。家賃も長嶺組が持つらしく、引っ越せば、本格的に囲われ者生活の始まりだ。
「仕事のほうは?」
「ああ、そっちも心配ない。次の職場のメドもついている」
「本当か? 自惚れるつもりはないが……、俺を心配させまいと思って、ウソなんて、ついてない……よな?」
ペーパーフィルターにコーヒーの粉を入れていた和彦は、一度手を止めてから、すぐに何事もなかったようにゆっくりと湯を注ぐ。
「心配するな。本当だ。――……澤村先生が、ぼくにそんなに友情を感じてくれていたなんて、意外だな」
「茶化すなよ。俺は、お前とくだらないことを言い合うのが、けっこう気に入ってたんだ。俺と張り合うレベルぐらいにはイイ男だと、認めてたんだぜ」
なんとも澤村らしい言葉に、久しぶりに和彦は屈託なく笑うことができた。そしてふっと現実に戻る。
何事もなかったように話してくれる澤村も、和彦が辱めを受けながら感じている写真を見ているのだ。あんな目に遭った和彦がどんな選択をしたのか知ったら、軽薄そうに見えて人のいい元同僚は、どんな顔をするだろうか――。
こんなことを想像して胸が痛むのは、和彦が抱えた未練を如実に表しているといえる。平気なふりをしているが、普通の生活に未練がないわけがないのだ。いや、未練だらけだ。本当は、どこかに逃げ出したい。
だがそれを実行する勇気も行動力も、あいにく和彦は持ち合わせていない。何より、毒のように刺激的で甘い日々がじわじわと、和彦の爪先から侵食してきている。素直には認めがたいが、誰かにすべてを強引に決められる生活は、楽だった。賢吾は和彦を拘束はしておらず、ある程度の自由も与えてくれている。
こんなふうに骨抜きにされ、飼い殺されていくのだろうかと考えながら、和彦は淹れたコーヒーをカップに注ぎ、テーブルに運ぶ。
「それで、新しい住所はどこなんだ? 仕事が休みの日だったら、引っ越しを手伝うぞ」
「あー、手伝いは大丈夫。人手だけは嫌というほどあるから」
自嘲気味な和彦の言葉に、不思議そうに澤村が首を傾げたが、すぐに気を取り直したように、辺りを見回した。
「なんか書くもの貸してくれ。お前の新しい住所をメモしておく」
和彦は軽く目を見開いてから、唇を歪めた。
「――……澤村」
「んっ?」
「お前もあんな写真を見たら、薄々何かは感じているだろう。……ぼくは厄介事に巻き込まれている。下手したら、お前にも迷惑をかけるかもしれない。だからもう、ぼくに関わるな」
「おい――」
澤村が腰を浮かせて何か言いかけたが、それを制して和彦は首を横に振る。
「あんなおぞましいものを見ても、こうして来てくれたお前には感謝しているし、嬉しい。だからこそ、そんなお前にもし迷惑をかけたとき、ぼくがどう感じるかを考えてくれ」
「……お前、その言い方は卑怯だぞ」
「すまない」
澤村は苛立ったようにくしゃくしゃと前髪を掻き乱してから、乱暴に息を吐き出した。
「わかったよ。お前が巻き込まれた厄介事のほとぼりが冷めるまで、会うのは控える。だけど、電話はするからな」
最近、似たようなことを別の人間にも言われたなと思いながら、和彦は笑って頷く。そこで、千尋に伝わるのを恐れて告げていなかった携帯電話の新しい番号を、やっと澤村に教えることができた。
それから二人は、コーヒーを飲みながら他愛ない話をしていたが、ふと思い出したように澤村が切り出してきた。
「そういえば、お前が気に入っていた犬っころのウェイターくん、あの店を辞めたらしいぞ」
「ちひ――」
危うく、『千尋』と名を呼んでしまいそうになり、慌てて和彦は言い直す。
「長嶺くんが?」
「ああ。最近見かけないから、てっきり昼から夜の勤務になったのかと思ってたんだ。だけど数日前に店の女の子に聞いたら、急に辞めたらしい。……がっかりする客もいるだろうな。お前も、じゃれつく犬っころの相手をするように長嶺くんを可愛がってたから、教えてやろうと思ったんだ」
カフェでのバイトを辞めたなど、千尋は一言も言ってなかった。和彦が見る限り、まじめに働いていたので、よほどの理由がなければ辞めるとは思えない。そして和彦は、その〈よほどの理由〉に心当たりがあった。
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