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第2話
(2)
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抽象的な和彦の表現に、千尋はきょとんとした顔をする。千尋のその表情に、ここのところずっと荒んでいた気持ちが少し和らぐ。和彦はちらりと笑みを浮かべると、あえてサバサバとした口調で言った。
「とにかくぼくは、長嶺組の世話になることになった。この間の、お前としばらく会わないという言葉は撤回するが、ぼくはクリニックを辞めて、しばらくは開業の準備で忙しいから、あまり遊んでやる時間はないぞ」
「だったら、その準備を俺も手伝う」
「――却下」
「どうしてっ?」
「ぼくの独立開業と、お前は関わりがない。それに、お前にはバイトがあるだろう」
千尋を冷たく突き放すのには理由がある。千尋が跡目だというのはどうしようもないことだが、できることなら、和彦がどうして賢吾と深く関わることになったのか、その理由を千尋には知らないままでいてほしかった。
自分が原因だと知ったときの千尋のショックを慮ってというよりも、事実を知った千尋の暴走を恐れているのだ。
只でさえ厄介な状況が、千尋が絡むとさらに面倒なことになる――という予感。いや、確信めいたものが和彦にはある。なんといっても、あの男の息子だ。
賢吾にしても三田村にしても、千尋に余計な情報を与えていないということは、つまりはそういう方針なのだ。長嶺組の〈身内〉となってしまった和彦としても、従うほうが楽だった。
「――話し中、すみませんが、そろそろ時間が……」
恨みがましげな千尋の眼差しを向けられながら、ここで千尋の機嫌を取るべきなのだろうかと考えていると、ふいに三田村の声が割って入る。和彦は反射的に室内を見回し、壁にかけられた時計に目を止めた。
「ああ……、もうこんな時間か」
千尋には悪いが、助かったと思いながら和彦は立ち上がる。
「先生、どこか行くのっ?」
「さっき言っただろう。ぼくは忙しいんだ。これから人と会う約束がある」
「俺も行く」
勢いよく立ち上がった千尋を、和彦はじろりと睨んで首を横に振る。
「人と会うと言っただろう。なんで、お前を連れて行かないといけないんだ」
「会っている間、車で待ってる」
二人きりでいるときは、和彦に甘えて離れたがらない千尋だが、今日は少々様子が違う。和彦の環境が急激に変わったことに、何かしら思うところがあるのかもしれない。だからといって和彦は、千尋を伴って移動する気はなかった。
なんといってもこのあとは――。
ある人物のことを考えた途端、和彦の胸の奥で妖しい感覚が蠢く。それが表情に出ないよう気をつけながら、必要以上に冷然とした声で告げた。
「それも却下。遊びに行くわけじゃないんだ」
和彦が視線を向けると、三田村が言葉を継ぐ。
「不動産屋に、物件のことで打ち合わせに行きます。先生の新しいクリニックをどこに構えるか、早いうちにメドをつけないといけませんから」
和彦相手には砕けた言葉を使う三田村だが、組長の息子である千尋に対しては、さすがに敬語を使う。もっとも、言葉遣いはどうあれ、素っ気ない印象は変わらない。
ただ和彦としては、三田村がこんな男だからこそ救われる部分がある。そうでなければ、三田村の存在を認めるたびに、羞恥で苦悶しなければならない。この男には、さまざまな場面を見られているのだ。
「――ということだ。これで、ぼくの今の事情はだいたいわかったか?」
「堅気だった先生が、こちらの世界に片足突っ込んだ、ってことだよね」
的確な表現だが、非常に複雑な心境にさせられる。和彦が顔をしかめて見せると、今日会ってから初めて、千尋がニッと笑った。
「そんな顔しないでよ。せっかく〈身内〉になれたんだからさ」
「……お前は嬉しいのか?」
「先生を巻き込むのは嫌だったんだけど、こうなったんなら、正直歓迎する」
「現金なガキだ」
そう言って和彦は、千尋の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。まるで犬を撫でるような行為だが、千尋はこうされると喜ぶのだ。現に、首をすくめて楽しそうに笑い声を上げている。
ただし千尋は、犬っころのように無邪気で無垢な存在ではない。
三人で玄関に向かい、和彦が靴を履こうとしたとき、ふいに千尋に肩を掴まれて引き寄せられた。
驚いた和彦が声を上げる前に、素早く千尋が耳元に唇を寄せてくる。
「――先生、オヤジと寝た?」
熱い息遣いとともに注ぎ込まれた言葉に、全身の血が凍りつきそうになった。和彦が不自然に動きを止めると、先に靴を履いた三田村が、何事かというように顔を覗き込んできた。
「先生?」
「……なんでもない」
和彦はぎこちなく答えてから、千尋を見る。改めて、千尋は恵まれた容姿を持っているだけの普通の青年ではないのだと思い知らされた。
簡単に和彦の将来を――現在も変えてしまった男の息子なのだ。そして、そんな男の跡を継ぐ存在でもある。
千尋は、もう笑ってはいなかった。少し怒ったような顔をして和彦を睨みつけてくると、首の後ろに手をかけてきた。
「千尋っ……」
ぐいっと引き寄せられ、千尋に唇を塞がれる。目を見開いた和彦は、咄嗟に千尋を押し退けようとしたが、それ以上の力で首の後ろを押さえつけられ、きつく唇を吸われる。
「んっ」
片腕が腰に回されて、露骨に千尋の下肢が密着してくる。強引に舌を捩じ込まれ、三田村の視線を感じながらも和彦は、口腔に受け入れた。まるで、子供のわがままを許容するように。
二人は性急に舌を絡め合い、唾液を交わす。そこで和彦は唇を離そうとするが、なかなか千尋は許してくれない。和彦の唇を熱っぽく啄ばみながら、千尋が強い光を放つ目で間近から見据えてくる。
「千尋、本当にもう行かないといけないんだ……」
「俺が先に見つけたのに」
ぽつりと千尋が洩らし、両腕でしっかりと和彦を抱き締めてくる。目を丸くした和彦だが、反射的に三田村のほうをうかがい見る。この男は、まるで自分の義務だといわんばかりに、和彦と千尋の様子を無表情に見つめていた。
この状況をどうにかしろと訴えたかったのだが、三田村の様子からそれは期待できないと一瞬で察する。三田村はあくまで冷静な傍観者なのだ。
和彦は、しがみついてくる千尋の頭を手荒に撫でる。
「千尋、気が済んだか?」
「……やめてよ、そういう言い方。俺がガキみたいじゃん」
「ガキだろ」
そう答えると、千尋がパッと顔を上げる。和彦は両手で千尋の顔を挟み込み、しっかりと言い聞かせた。
「とにかくぼくは、長嶺組の世話になることになった。この間の、お前としばらく会わないという言葉は撤回するが、ぼくはクリニックを辞めて、しばらくは開業の準備で忙しいから、あまり遊んでやる時間はないぞ」
「だったら、その準備を俺も手伝う」
「――却下」
「どうしてっ?」
「ぼくの独立開業と、お前は関わりがない。それに、お前にはバイトがあるだろう」
千尋を冷たく突き放すのには理由がある。千尋が跡目だというのはどうしようもないことだが、できることなら、和彦がどうして賢吾と深く関わることになったのか、その理由を千尋には知らないままでいてほしかった。
自分が原因だと知ったときの千尋のショックを慮ってというよりも、事実を知った千尋の暴走を恐れているのだ。
只でさえ厄介な状況が、千尋が絡むとさらに面倒なことになる――という予感。いや、確信めいたものが和彦にはある。なんといっても、あの男の息子だ。
賢吾にしても三田村にしても、千尋に余計な情報を与えていないということは、つまりはそういう方針なのだ。長嶺組の〈身内〉となってしまった和彦としても、従うほうが楽だった。
「――話し中、すみませんが、そろそろ時間が……」
恨みがましげな千尋の眼差しを向けられながら、ここで千尋の機嫌を取るべきなのだろうかと考えていると、ふいに三田村の声が割って入る。和彦は反射的に室内を見回し、壁にかけられた時計に目を止めた。
「ああ……、もうこんな時間か」
千尋には悪いが、助かったと思いながら和彦は立ち上がる。
「先生、どこか行くのっ?」
「さっき言っただろう。ぼくは忙しいんだ。これから人と会う約束がある」
「俺も行く」
勢いよく立ち上がった千尋を、和彦はじろりと睨んで首を横に振る。
「人と会うと言っただろう。なんで、お前を連れて行かないといけないんだ」
「会っている間、車で待ってる」
二人きりでいるときは、和彦に甘えて離れたがらない千尋だが、今日は少々様子が違う。和彦の環境が急激に変わったことに、何かしら思うところがあるのかもしれない。だからといって和彦は、千尋を伴って移動する気はなかった。
なんといってもこのあとは――。
ある人物のことを考えた途端、和彦の胸の奥で妖しい感覚が蠢く。それが表情に出ないよう気をつけながら、必要以上に冷然とした声で告げた。
「それも却下。遊びに行くわけじゃないんだ」
和彦が視線を向けると、三田村が言葉を継ぐ。
「不動産屋に、物件のことで打ち合わせに行きます。先生の新しいクリニックをどこに構えるか、早いうちにメドをつけないといけませんから」
和彦相手には砕けた言葉を使う三田村だが、組長の息子である千尋に対しては、さすがに敬語を使う。もっとも、言葉遣いはどうあれ、素っ気ない印象は変わらない。
ただ和彦としては、三田村がこんな男だからこそ救われる部分がある。そうでなければ、三田村の存在を認めるたびに、羞恥で苦悶しなければならない。この男には、さまざまな場面を見られているのだ。
「――ということだ。これで、ぼくの今の事情はだいたいわかったか?」
「堅気だった先生が、こちらの世界に片足突っ込んだ、ってことだよね」
的確な表現だが、非常に複雑な心境にさせられる。和彦が顔をしかめて見せると、今日会ってから初めて、千尋がニッと笑った。
「そんな顔しないでよ。せっかく〈身内〉になれたんだからさ」
「……お前は嬉しいのか?」
「先生を巻き込むのは嫌だったんだけど、こうなったんなら、正直歓迎する」
「現金なガキだ」
そう言って和彦は、千尋の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。まるで犬を撫でるような行為だが、千尋はこうされると喜ぶのだ。現に、首をすくめて楽しそうに笑い声を上げている。
ただし千尋は、犬っころのように無邪気で無垢な存在ではない。
三人で玄関に向かい、和彦が靴を履こうとしたとき、ふいに千尋に肩を掴まれて引き寄せられた。
驚いた和彦が声を上げる前に、素早く千尋が耳元に唇を寄せてくる。
「――先生、オヤジと寝た?」
熱い息遣いとともに注ぎ込まれた言葉に、全身の血が凍りつきそうになった。和彦が不自然に動きを止めると、先に靴を履いた三田村が、何事かというように顔を覗き込んできた。
「先生?」
「……なんでもない」
和彦はぎこちなく答えてから、千尋を見る。改めて、千尋は恵まれた容姿を持っているだけの普通の青年ではないのだと思い知らされた。
簡単に和彦の将来を――現在も変えてしまった男の息子なのだ。そして、そんな男の跡を継ぐ存在でもある。
千尋は、もう笑ってはいなかった。少し怒ったような顔をして和彦を睨みつけてくると、首の後ろに手をかけてきた。
「千尋っ……」
ぐいっと引き寄せられ、千尋に唇を塞がれる。目を見開いた和彦は、咄嗟に千尋を押し退けようとしたが、それ以上の力で首の後ろを押さえつけられ、きつく唇を吸われる。
「んっ」
片腕が腰に回されて、露骨に千尋の下肢が密着してくる。強引に舌を捩じ込まれ、三田村の視線を感じながらも和彦は、口腔に受け入れた。まるで、子供のわがままを許容するように。
二人は性急に舌を絡め合い、唾液を交わす。そこで和彦は唇を離そうとするが、なかなか千尋は許してくれない。和彦の唇を熱っぽく啄ばみながら、千尋が強い光を放つ目で間近から見据えてくる。
「千尋、本当にもう行かないといけないんだ……」
「俺が先に見つけたのに」
ぽつりと千尋が洩らし、両腕でしっかりと和彦を抱き締めてくる。目を丸くした和彦だが、反射的に三田村のほうをうかがい見る。この男は、まるで自分の義務だといわんばかりに、和彦と千尋の様子を無表情に見つめていた。
この状況をどうにかしろと訴えたかったのだが、三田村の様子からそれは期待できないと一瞬で察する。三田村はあくまで冷静な傍観者なのだ。
和彦は、しがみついてくる千尋の頭を手荒に撫でる。
「千尋、気が済んだか?」
「……やめてよ、そういう言い方。俺がガキみたいじゃん」
「ガキだろ」
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