血と束縛と

北川とも

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第1話

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「お前、一体、これ……」
 こんなものを見たうえで、それでもなお声をかけてくるのは澤村の優しさだろう。しかし今の和彦は、答えられなかった。答えたくなかった。自分が、ヤクザに拉致された挙げ句に辱められ、そのときの様子をビデオカメラで撮影されたなど。
 この場で頭を抱えてうずくまりたいところをなんとか踏みとどまる。これ以上の醜態を晒せるわけがなかった。
「――……悪い、今日のぼくの手術は、全部キャンセルにしてくれ……。いや、この先の手術も、全部……」
「おいっ、佐伯、大丈夫かっ?」
 澤村の制止を振りきった和彦は、ふらつく足取りで医局を出る。そのままエレベーターに乗り込むと、一階に降りた。あの写真を見た人間と、同じ場所にいたくなかった。
 いやむしろ、見た人間のほうが、和彦にいてほしくないと思っているだろう。
 もう終わりだと、そんな言葉が頭の中を駆け巡っていた。あんな写真を見られては、もうこのクリニックで働き続けることはできない。仮に和彦が鋼のような神経を持っていたとしても、クリニックのほうが和彦を切るはずだ。
 なぜ、こんなことに――。
 呆然としながらロビーを通ってビルを出た和彦の目に飛び込んできたのは、正面に停められた高級車だった。その車の前に直立不動で立っているのは三田村だ。まるで、和彦がビルから飛び出してくるとわかっていたようなタイミングだが、もちろん偶然ではないだろう。
 和彦が睨みつけると、三田村は相変わらず、憎たらしくなるほど眉一つ動かさず、スモークフィルムの貼られた後部座席のドアを開けた。悠然とシートに腰掛けているのは、賢吾だ。
「あんたがっ……」
 ぐっと拳を握り締めると、賢吾は薄い笑みを口元に湛えながら、指先で和彦を呼んだ。乱暴に息を吐き出した和彦は大股で車に歩み寄り、乗り込む。すぐにドアは閉められ、三田村が助手席に乗り込むのを待ってから、静かに車は走り出した。
「――〈あれ〉は見たようだな」
 口を開いたのは賢吾が先だった。和彦はキッと賢吾を睨みつける。
「本当はもっときれいに印刷できるんだが、臨場感が出たほうがいいだろうと思って、少し画質を粗くしておいた」
「……約束したはずだ。録ったものは消すと」
「お前は、ヤクザが約束を守ってくれるなんて、本気で信じていたのか?」
 言葉に詰まった和彦の動揺を見透かすように、賢吾がちらりとこちらを一瞥する。
「お前はもう、あのクリニックにはいられないだろうな。女相手の商売だ。いくらハンサムでも、尻におもちゃを突っ込まれて悦んでるような医者がいたら、イメージが悪すぎる。しかもバックには、性質の悪いヤクザが控えている……」
 賢吾がくっくと低い笑い声を洩らす。その様子を見て、和彦は一瞬本気で、この男を殺したくなった。そんなことができるはずがないと、わかっていながら。
「だからといって、他の美容整形クリニックに移ったところで、無駄だぞ」
「また同じことをする、か」
「そうだ。お前がどこのクリニックに行こうが、俺はお前のあの写真をばら撒くよう、指示を出す。映像をそのまま流してやってもいい。そうやって、お前の行き場を奪ってやる」
 あまりの怒りで満足に呼吸もできなくなる。何度も肩を上下させ、なんとか空気を体内に取り込もうとする和彦の頬を、賢吾の指がくすぐるように撫でてきた。手を振り払いたいが、できなかった。強い憎悪の一方で、奇妙な諦観の感情も込み上げてくるのだ。
「――……何が、目的だ……。たかが美容外科医にこんなことをするぐらいだ。理由はあるんだろう」
 聞いてしまえば、従わざるをえないだろう。わかっていながら聞いてしまうのは、多分、理由が欲しいからだ。こうして賢吾と会う理由が。
 賢吾は、和彦が欲しがっている理由を与えてくれた。
「お前は、うちの組専属の医者になれ」
「専属……」
「美容外科医というのは、願ったり叶ったりだ。女だけじゃなく、顔を弄る必要がある男は、いくらでもいる。特にうちのような仕事をしている場合はな。組同士の繋がりで、まず患者に不自由することはないぞ。指の皮膚を弄って指紋の偽造ができるようになれば、あっという間に売れっ子だ」
 和彦は視線を逸らし、賢吾に言われた言葉を頭の中で反芻する。混乱した頭でも、これだけははっきりしていた。
「……あんたの組に飼われるということか」
「まあ、そうだな。いい場所を見つけて、お前にクリニックを持たせてやる。そこで嫌というほど経験を積め。細かなトラブルに煩わされることもないぞ。長嶺組どころか、総和会が後ろ盾についているんだからな。自分の名前を表に出したくないというなら、どこかで死にかけている医者の名義でも買えばいい。俺や組に協力する限り、お前は守ってやる。俺の〈身内〉としてな」
 見えない檻の中に追い込まれている気がして、和彦は小刻みに体を震わせる。そんな和彦に対して、賢吾が意味ありげな笑みを向けた。
「いや、どちらかというと、俺の〈オンナ〉だな」
 気がついたときには和彦は、賢吾の頬を平手で打っていた。しかし、車中にいる和彦以外の男たちは誰も動じない。賢吾は打たれた頬を軽く指先で撫でて、相変わらず笑っていた。
「お前に俺を殴らせるのは、これが最初で最後だ。次はないぞ。俺を殴るってことは、組の面子を汚すのと同じだからな」
 和彦は間近から賢吾の目を見据える。掴み所のない、迂闊に探れば容赦なく食らいついてきそうな獰猛さが静かに息を潜めている、嫌な目だった。だけど、目が離せない。きっともう、自分は捕えられてしまったのだと、和彦はようやく現実を受け入れた。そうするしかなかったのだ。
「……ぼくを〈オンナ〉と言うな」
「わかった。――約束してやろうか?」
 賢吾が低く笑い声を洩らした意味は、すぐにわかった。和彦は吐き出すように言う。
「誰が、ヤクザの約束なんて信じるかっ」
「気づくのが遅かったな」
 あごを掴み寄せられ、当然のように賢吾の唇が重なってくる。痛いほど唇を吸われたとき、和彦は自分から口を開け、熱い舌を受け入れていた。箍が外れたように唇と舌を貪り合い、力強い腕に体を抱き寄せられる。
「――俺は、否という返事は聞かないからな」
 激しい口づけの合間に賢吾に囁かれ、甘い眩暈を感じた和彦は、抗えないまま頷いていた。

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