血と束縛と

北川とも

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第1話

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「手術するにしても、道具はどうする気だ」
「ふん。それで逃げ道を作ったつもりかもしれないが、心配するな。立派な設備は無理だが、人間の体を切って縫うぐらいの道具は用意してある。あと、点滴セットも。必要な輸液があれば持ってこさせる。血液は、ここに活きのいいのが何人も揃っているしな」
 完全に逃げ場を断たれた。和彦は大きく息を吐き出して目を閉じると、動揺のため速くなっている自分の鼓動の音を聞く。頭に血が上り、頭痛すらしている。
 近くにいる男たちの視線を痛いほど感じながら和彦は、懸命に思考を働かせる。少しでも、自分の立場を安全なものにするために。
「――条件がある」
 和彦は覚悟を決めて目を開けると、前を見据えたまま切り出す。賢吾は低く笑い声を洩らした。
「本当に、見た目は優男のくせして、度胸があるな。この状況でヤクザに取引を持ちかけるなんて、開き直りにしても大したものだ」
 いいだろう、と言った賢吾にまた腕を掴まれて、別の部屋へと押し込まれた。脱衣所も兼ねた洗面室で、洗濯機の横に置かれたカゴには洗濯物が山積みとなっており、浴室に通じる扉の前にはマットが敷いてある。
 ヤクザが何人も待機しているという、和彦にとっては非日常的な場所の中で、ここは妙に生活感が溢れている。人が住んでいるのであれば当然の風景だが、なんだか妙な感覚だ。
「それで、条件は」
 賢吾に声をかけられ、和彦は我に返る。いつの間にか、白い壁を背にする形で追い詰められ、威圧するかのように賢吾が傍らに片手を突く形で和彦の顔を覗き込んでいた。
 むせ返るような雄の匂いを賢吾から嗅ぎ取り、半ば本能的に顔を背ける。
「……ビデオで録ったものを消してほしい……」
「それだけか?」
「それと、ぼくを脅すな。千尋にはもう関わらないんだから、必要ないはずだ」
 スッとあごを賢吾に撫でられ、和彦は体を硬直させる。耳元に熱い息遣いがかかり、卑猥な言葉を囁かれた。
「〈あれ〉を消すのは、惜しい気もするな。おもちゃをケツに突っ込まれて、お前みたいな色男がよがり狂う様は、なかなかの見ものだった。お前にとっても、新たな刺激に目覚めるいい経験だっただろ」
 和彦は屈辱と羞恥で体を熱くしながら、賢吾を睨みつける。すると突然、体を壁に押し付けられた。真正面から賢吾を見つめ、和彦は思う。
 この男にだけは捕まってはいけないと。捕まったら、何もかも終わる。
 頭ではそう思いながらも、あごを掴み上げられた和彦は抵抗できなかった。賢吾を怖いと思いながら、いままで誰に対しても感じたことのない圧倒的な存在感を、よりリアルに知ってみたいという衝動がある。
「……お前の言いたいことはわかった。要求は呑んでやる」
「本当、に……?」
「念書は書いてやれないが、もっと確かなものをやる」
 そう言って賢吾が威圧するように体を寄せてくる。あごを押さえられたまま有無を言わさず唇を塞がれていた。
「んんっ」
 喉の奥から声を洩らした和彦は、咄嗟に賢吾の厚みのある胸を押し退けようとしたが、あごを掴む指に力が込められ、痛みに喘いだ拍子に、無遠慮に舌が口腔に差し込まれた。煙草の苦味を感じて眉をひそめるが、かまわず賢吾に口腔を犯すように舐め回され、唾液を流し込まれる。
「お前が応えないと、約束を交わしたことにはならないぞ」
 唇を触れ合わせたまま、おもしろがるような口調で賢吾に囁かれ、睨みつけながらも和彦は応えないわけにはいかなかった。立場はあくまで、賢吾が上なのだ。
 たっぷりと賢吾に唇を吸われ、口腔に差し込まれた舌にぎこちなく自分の舌を絡める。妙な気分だった。
 ほんの何日か前まで十歳年下の青年と関係を持っていて、その青年の父親の逆鱗に触れた。ここまでは理解できる。そこから先の展開が、あまりに和彦の想像を超越していた。ヤクザに拉致された挙げ句に辱められ、それをネタに青年との関係を絶つよう言われて従うつもりだったはずが――なぜか今、青年の父親と唇と舌を貪り合っている。
 体の奥でじわりと情欲の種火が点る。和彦を威嚇する気満々の、粗野で乱暴な口づけだが、舌に歯を立てられる痛みすら、厄介な疼きを伴う。
 賢吾の舌をきつく吸うと、後頭部に大きな手がかかり、後ろ髪を撫でられてからうなじをゆっくりと揉まれる。この瞬間、和彦は腰が砕けそうになった。咄嗟に賢吾の肩を強く押すと、和彦の異変に気づいたのか賢吾がゆっくりと唇を離す。
「約束は守ってやる。録画したものは消すし、お前を脅すようなこともしない。ただし、うちの人間を助けたら、の話だ」
「……医者として、できることはやる」
「いいだろう。交渉は成立だ」
 和彦がほっとした瞬間を見計らったように、賢吾にもう一度唇を吸われてから、なんの余韻もなく体が離れた。
「――さっそく、患者の命を救ってもらおうか、先生」
 そう言って、賢吾がニッと笑いかけてくる。年齢よりずっと若々しい笑みは、当然のことなのかもしれないが、千尋にそっくりだった。


 組員たちに必要なものを揃えるよう指示を出しながら、ワイシャツの袖を捲り上げた和彦は丁寧に石けんで手を洗う。さすがに病院のようになんでも揃っているわけではないため、足りないものについては、代用となりそうなものを急いで買いに行かせて、揃える側からアルコールで消毒していく。
 急場ながらなんとか手術の準備を調えると、柔らかなベッドの上では下手に患者の体に触るのもためらわれ、どこかの部屋から外してきた引き戸を担架代わりにして、ダイニングのテーブルの上に運んでもらうと、傷口を検分してから、局所麻酔をする。麻酔薬などどうやって入手したのか、面倒なのであえて考えないことにしていた。
 部屋は汚してもかまわないと言われているため、遠慮なく傷口の血を洗い、消毒する。撃たれた弾がまだ体内に残っているので、その弾を取り除いたときの出血が心配だが、今のところは大きな血管に傷はついていない。ただし、見立てでは腸は無傷とはいかないようだった。
 人間の臓器を見るのはいつ以来だろうかと思った和彦は、天井を見上げると、手術の手順を頭の中で整理する。この程度の手術なら、救急にいた頃に何度も手がけている。おろおろしていた研修医時代とは違うのだ。
 ふとダイニングの隅に目を向けると、腕組みをした賢吾が難しい顔をして立っていた。他の組員たちも同じだ。和彦がやることを、ただ見ているしかない。
 今のこの場を支配しているのは自分だと思うと、不思議な力が湧いてくる。
 早く手術を終えて、こんなところから出ていってやると思いながら、和彦はメスを手にした。

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