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第1話
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しおりを挟む連れて行かれたのは、先日のビルとは違う、普通のマンションだった。住人もいるらしく、ちらほらと部屋に電気がついている。やや拍子抜けして、駐車場からマンションを見上げる和彦に、あごに傷跡のある男が声をかけてきた。
「――先生、急いでくれ」
和彦はハッとして、男を見る。車中で素っ気なく自己紹介されたが、男は三田村といい、若頭補佐という肩書きが一応あるらしい。ただし組長である千尋の父親が、三田村を若頭から預かる形となっており、組長直属という形でさまざまな雑事を処理しているのだそうだ。
三田村の説明を聞いて、わけがわからないという顔をした和彦に対して、三田村は生まじめな顔で、組長の親衛隊のようなものだと理解すればいいと言葉を付け加えた。
ヤクザ同士の関係などわかりたくもない和彦は、三田村の話を半分聞き流しながら、適当に頷いておいた。
とにかくはっきりしたのは、この連中は今のところ、和彦に何かをやってもらいたいがために、迂闊に手出しができないということだ。先日より、ほんのわずかながらマシな立場になったようだが、あまり救われた気持ちにはなれなかった。
急かすように三田村に背を押され、マンションに連れ込まれる。エレベーターで最上階まで上がりながら、さらりと言われた。
「このマンションの住人は、大半がうちの組の関係者だ」
驚きよりも、うんざりした。和彦は冷めた視線を隣に立つ三田村に向ける。
「……つまり、いくら暴れて叫んでも無駄だと言いたいのか?」
「いや、単なる事実を言っただけだ」
精悍だが、感情というものをごっそりとどこかに置き忘れたような三田村の横顔をじっと見つめてから、ふいっと顔を背ける。
エレベーターを降りると、廊下には数人の男たちの姿があった。三田村の姿を見るなり一斉に姿勢を正して頭を下げた。
考えているより状況は深刻なのかもしれないと和彦は思う。エレベーターを降りたときから、空気が殺気立っているのを肌で感じていた。無意識に首筋を撫でてから、顔をしかめる。
一番奥まった場所にある部屋のインターホンを押すと、すぐにドアが大きく開けられた。振り返った三田村に手で促され、仕方なく玄関に入る。何人いるのか、広めの玄関には靴が散乱していた。
重い足取りでリビングに連れて行かれた和彦は、その場にいる一人の男を見て、ビクンと体を震わせる。和彦が逃げるとでも思ったのか、三田村の手がいつの間にか肩にかかり、ぐっと押さえられた。
「――来たな」
大きな革張りのソファの真ん中に腰掛けた千尋の父親が、まっすぐこちらを見据えてくる。目が合った瞬間、和彦の背筋に鳥肌が立つような熱い感覚が駆け抜け、恐怖や不安すらどこかに飛んでいってしまう。ただ、存在に圧倒されていた。
返事をしない和彦に苛立った様子もなく、悠然とした動作で千尋の父親が立ち上がり、こちらにやってくる。
「先日は、きちんとした自己紹介をしてなかったな。――長嶺組組長の、長嶺賢吾だ」
実は、知っている。知りたくなどないと思いながら、インターネットで調べてみたのだ。普段はインターネットの情報などさほど信用していないのだが、案外、噂程度のものでもときにはあてになるようだ。
「今日は長嶺組の組長として、お前に頼みたいことがある」
千尋の父親―― 賢吾がさらに一歩踏み出してきたので、反射的に和彦は一歩後退る。それを見た賢吾は唇を微かに歪めると、いきなり和彦の腕を掴んで引っ張る。
「何っ……」
「まずは見てもらったほうが早いな」
賢吾の行き先を察したように、組員と思しき男が先回りしてリビングを飛び出し、廊下に面した部屋のドアを開けた。賢吾とともにその部屋を覗いた和彦は、大きく目を見開く。
部屋の中央に置かれたベッドの上に男が一人横たわっていたが、様子が尋常ではなかった。苦しげに喘ぎ、ときおり呻き声を洩らしている。その理由は一目見てわかった。腰の辺りにタオルを当てているが、そのタオルが血に染まっている。ベッドの傍らには二人の男がいて、汗を拭ったり、声をかけてやっていた。それしかできないのだ。
締め切った部屋の中には、ムッとするような血と汗の匂いがこもっている。目の前の異常な光景も相まって、和彦は軽い眩暈に襲われていた。
「……何、してるんだ……」
誰に向けたものでもないが、和彦の呟きに応じたのは賢吾だった。
「うちの若衆の一人だ。ちょっとした揉め事で撃たれた」
「ちょっとしたって――」
ここで和彦は、自分がこの場に連れて来られた理由を理解した。賢吾にきつい眼差しを向けると、やっとわかったかと言いたげに賢吾が頷く。
「弾傷の人間のために救急車は呼べない。もちろん、そこいらの病院に運び込むこともできない。医者がすぐに通報して、警察が喜んでガサ入れにくる。そこで、口が堅い医者が必要になるというわけだ」
「ヤクザの内部がどうなっているか知らないが、診てくれる医者の心当たりぐらいあるんじゃないのか」
ヤクザ相手に敬語を使う気にもなれず、強気というわけではないが、和彦はあえてぞんざいな口調で応じる。これで殴られでもして追い出されたほうが、状況としては遥かに楽だ。賢吾が和彦に求めているのは単なる救護処置ではなく、犯罪に目をつぶれということだ。つまり、和彦は共犯者にされてしまう。
「確かに、心当たりはある」
「だったら――」
「運が悪いことに、少し前に脱税で挙げられて、そのときうちの組との関係を疑われた。今も警察が目を光らせているから、迂闊にその病院には近づけないし、警察の尾行が張り付いているせいで、医者を呼び出すこともできない。総和会の手は借りたくないしな。そこで思い当たったのが、うちのバカ息子がのぼせ上がっている医者というわけだ」
賢吾が薄い笑みを浮かべ、一瞥してくる。和彦は唇を引き結ぶと、一度は賢吾を睨みつけてから、ベッドの上で苦しんでいる男にも視線を向ける。気がつけば、リビングの前の廊下に三田村が出てきており、こちらを見ていた。
「……ぼくは美容外科医だ……。かすり傷程度なら喜んで治療するが、弾傷をどうにかしろなんて無理だ」
そう言って和彦は顔を背けたが、すかさず賢吾にあごを掴み上げられ、残酷な笑みを間近で見せられた。
「謙遜するな。お前はもともとは外科志望だったはずだ。研修医時代は、救急で治療にもあたっていた。今も美容外科医として骨を削って、血管も弄っているのに、何を心配することがある?」
「調べ、たのか……」
「現在のことを調べるなら、当然、過去のことも調べるだろう。何が使えるかわからないからな」
自分が医者だからあんな目に遭わされたのだと、嫌というほど和彦は思い知らされた。千尋の件もあっただろうが、いかに効果的に和彦を支配下におくか、それも念頭にあったはずだ。実際、この状況において和彦の答えなど、限られていた。
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