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第二章
二千四百メートル
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皇国歴一九六一年 厳冬
フェンリルの胸が、ぼんやりと赤く発光している。至近距離にいたからか、誠だけがそれに気づいた。
肉弾戦の最中に霞む目でそれを認め、直感的に弱点だろうとおもった。
そこを狙ってやろうと、拳を突き出したが、いまいち効果がなかった。
拳が砕けている。指を握りこめていない。
「こっちはお前みたいに牙がねえんだ。非力な人間で、参るよなあ」
攻撃を回避し、黒子へと無線を繋いだ。
『心臓を撃ってください』
了解と返事はされたが、フェンリルとの戦闘は瞬間の繰り返しでありその機会は訪れない。当たっても肌をかすめたり肉をわずかに削ぐ程度の威力である。
『誠! 生きてっか!』
真実は続けて声を張った。銃声と砲火の中でも、誠にはそれが肉声として聞こえた気がした。
『五分、いや三分だ。合流する』
一方的に通話は終わった。
誠は安堵した。あのまま会話をしていたら、来なくていいと口からついて出る気がしていた。
(生きた心地がしねえ)
砕けた拳を叩きつける。感覚のない足で蹴り続ける。麻痺した心の残りカスのような危機感で避ける、躱す。
そういう作業をする自分を見せたくなかった。今までの天使討伐とは何もかも違う異様の状況と今の姿を、狸にだけは見られたくなかった。
それでも狸は近づいてくる。真実が逐一報告をしてくれた。それがたまらないほど嫌で、決着を急いだ。
動きは乱雑になり、フェンリルの腕が腹部にめりこんだ。傷ばかりの体だが出血はそれほどではない。流れていくほどの血液が残っていなかった。
「誠!」
真実はその瞬間を目撃していまった。前方を塞ぐ数名の猫と天使を即座に絶命させ、
「巡! 急げ」
と発狂したように金切り声をあげた。
『真実! やばい、朝日が』
黒子も緊急の声を飛ばすが、距離の問題は解決できない。
さらに真実は猫を殲滅すると決めている。最優先事項を入れ替えることは何があってもしない。巡はそれが痛いほどにわかっている。自分だけが真実の心底からの行動を代わりにするわけにもいかず、血風を巻き上げて進路を確保するしかなかった。
「今、今行く。待ってろ。今、すぐなんだ」
真実は呪詛のように呟く。その念が猫と天使を断ち、黒子の危惧する方へと進む。
フェンリルとの一対一でぶつかる誠から、黒子は六百メートルほど離れた位置にいる。つかず離れず当たればダメージとなる距離であり、いつも梟の陣地を背負うように動いた。
この付近は天使に突っ込んでいく軍人が通る道になっていて、彼女はそのものたちの終焉を見るような心地でいる。
すると銃の引き金にかかる指が、重くなった。あまりにも短時間に人間の死に触れたせいか、誠の戦いぶりに戦慄したのか、一度照準から顔を離した。
再び覗こうとすると、体がそれを拒否した。鼓動が乱れ、肉眼のまま指の震えが銃弾を発射し、幸運にも天使に当たった。
(撤退すべきだ)
そう思っても、その場に釘付けになって、彼女の頭に、初めて戦場を経験したころの思い出が走馬灯のよう駆け巡った。
生者は少なく、死んだ仲間ばかりが次々に現れた。
一秒にも満たない記憶の雑音の最後に、彼女の敬愛する鷹の長が、過去の姿で映しだされる。
撃て。と聴こえるような鮮明さで、黒子はそれによって体を縛る恐怖から解放された。
「やらねばならん。ここには鷹はいないのだから」
決意を新たにし、立て続けに装填されている弾丸を一気にぶちまけた。すべて天使に着弾し、数発はフェンリルをかすめた。
『もう少し粘ってくれ』
真実からの個人通信は、先程走馬灯よりもずっとおぼろげな声だった。
粘れといわれても、黒子には手立てがない。が、誠にそんな言葉をかけることはできなかった。彼はもうどうして立って戦闘を続けられているのか不思議なほどである。
「糞ッ! 犬神め、まだ殺したりないのか!」
悪態をつき、銃をかまえる。
個人が携行できる弾の量などはたかが知れているため、すぐにでも補充に戻らなくてはならなければならなかった。
誰もがそういう危機的状況にあって、狸もそうである。
武装は刀があるだけで、死体かから剥ぐこともできない慌ただしさの中で敵の壁をどうにか崩そうとしているが、誠のもとに辿り着くには時間が足りない。その時間とは彼の命そのものである。
「……巡」
「拝命できません。まだ、まだ間に合います。榊大尉だって間に合った。まだ……あの人は大丈夫ですから」
真実が言おうとしたことは、朝日誠救出は不可能であるから、我々は敵を排除することに専念しよういうもので、しかし巡はそれをすぐに否定した。彼女もまた真実と同じような考えがあったが、認めたくなかった。
「隊長、急ぐしかないのです。私たちは、それを、それだけをしないといけません」
「……だったら、急ごう」
すでに軍人たちは誠がいなくなったあとを想定して行動しているふしがある。次に誰がフェンリルの相手をするのかを問うような報告が梟には届いていた。
黒子の副官がその処理をしていると、にわかに無線が入った。副官は鮫島秋穂中尉で、忠義だけでつくられているというような人物で、御岳ですら「お前の副官は北楽で二番目に優秀だ」と軽口を叩く。一番は私のところにいるといって笑うのだが、黒子も鮫島もそれ誇りにしている。
その忠義者の鮫島は無線を取ると、無意識に起立し、天幕の外まできこえるような大声で返事をした。
黒子は残弾がわずか二回の装填をすれば空になるほどに切迫している。天使は数を減らし、軍人がその数をやや上回っているとはいえ、フェンリルをどうしかしなければ戦況は変わらない。
『隊長! 報告します』
鮫島は前線にいる黒子よりも情けない声を発している。どうしたと確認するよりはやく、なにかが戦場を切り裂き、フェンリルの土手っ腹に突き刺さった。血液が濁流のように地に落ち、誠も理解が追いつかないのか、おもわず間合いを広くとった。
『着弾確認。二千四百メートル、だね』
黒子がいた狙撃部隊「鷹」には、いくつもの噂があった。多くはその隊長の武勇伝であるが、彼女は三千メートル先の標的にも軽々と命中させると部隊内外から囁かれていた。
「今のは……!」
『た、狸の随行員である』
『大鳥ハネ、でーす』
また一発の弾丸がフェンリルの膝を撃ち抜いた。黒子は照準ではなく双眼鏡をとった。覗こうとして、そこにある鷹の隊章と目があった。
『トラックが、揺れるからだよ? ふともも狙ったのに、ごめんね』
真実たちもその恩恵に預かった。天使も猫も、例外なく弾丸によって頭を吹き飛ばされた。誰がやったのかすぐにはわからなかったが、直後の全体無線によって、彼女たちに笑みが戻った。
『狸である。微力ながら援軍に参った』
「ハネさんだ!」
少女たちはそのしわがれた声にきゃあきゃあとはしゃぎ、その喜びが刀にのり移る。爆ぜる頭部の血をかぶっても、それすら興奮の材料となるような心持ちでいる。
「ハネさんだ」
と叫んだのは誠もそうである。退役をした彼女が、自分たちへの労りからまた前線に出ようかと提案までした優しい狸のハネさんが助けに来てくれたのだと感涙し、
「オオ」
と犬神に似た言葉にならない雄叫びをあげた。
各部隊には鷹を耳にして発奮したものが多数いた。ほとんどが老年か、もしくは佐官である。そういった一緒に出撃した連中はもちろんだが、若手にも狂喜する者がいる。
『出やがった! 俺の守護精霊だ、五十五年の南征で小便垂らしてた飛蝗を救ったのは奴だ! 大鳥さんだ、見ろお前ら……!』
しばらく飛蝗の大友中尉の聞くに堪えない悪口と絶叫が無線を駆け抜けた。興奮のあまり無線を切ることをしていなかった。この不注意から、彼はすぐに佐野中佐から直接無線で叱られた。
「馬鹿だな大友。しかし、わからんでもないぞ」
烏の御岳は双眼鏡越しですら小さく見える鷹の射手を眺め、舌なめずりをしている。
「私がやつを撃ったら、どうなるかな。烏こそが最も優れているという証明になるだろうか」
里中副官は苦笑しつつ、毛先が逆立つような殺気を放つ上官の隣に並んだ。
「そんなことをしたら、あなたの巡軍曹に嫌われますよ」
「む、それはいかんな。助言に感謝する」
里中はまだ大鳥を追う御岳の前にでた。半歩ほどだが、この影に徹する副官の珍しい行動に、双眼鏡から顔を外した。これも珍しいことに、里中は軍刀を抜いている。
「……私の、私たちの烏は鷹よりも強く、賢く、そして気高い。私がそれを証明してきましょうか?」
御岳の興奮を宥めようとして放った忠言だが、御岳を熟知する彼女である、これがむしろ魂に火を付けるだろうことはわかっている。
「冗談を真に受けるな。論ずるまでもない」
総員構えー。と、集めていた黒い羽に檄を飛ばす。
「隠居した猛禽に手柄をやるな。我々は屍肉を啄むだけの盗人ではない。死体がなくばつくればいい。あはは、自給自足だ。諸君、派手に荒そう」
烏の猛烈な射撃が開始されたのを確認した榊真千は、まだ耳に残るしゃがれた鷹が、己に囁いているのを感じている。
「遠望していた私を詰るか。しかし、マジか。あの鳥はまだあんなことができるのか」
その弾道を目視していただけに、お前にできるかと挑発された気がした。狸の活発な活動にも刺激され、人間離れした動きで天使に突撃し、絶叫を持って亀の戦線復帰の狼煙とした。
月が真上にある。大きく、少し欠けている。
誠は破裂しそうなほどの鼓動の勢いそのままに、フェンリルへと攻撃している。身体は無事な部位を探す方が困難で、そこにくっつく四肢はズタズタである。
「遅えよ。何度も、何度も眠っちまいそうになった」
フェンリルがぱっと飛び退いた。片目の中に、害獣を収めるためである。
「待たせるよりいいだろ?」
「すまん。こっちも色々あってな」
月がそこにあるが如くに煌めく二振りの真剣。飛来する弾丸がフェンリルにぶち当たり、どこからともなく猛勢の雄叫びがきこえる。
「ようフェンリル。うちの子を随分と可愛がってくれたな。まったく、いい面にしてくれたもんだ」
誠はじくじくと傷が熱と痛みを持つの感じた。フェンリルとの戦闘でできたものではなく、彼に寄り添ってきた古傷が、狸の来訪によって疼くのだ。
(奴との傷も、そのうち馴染むんだろうな)
今までは闇夜と同じ存在だったフェンリル討伐の結末が、ようやくその全貌を見るに至った。
痛みは流血となる。その温もりに、彼は猛り、狂乱した。
「なあ、俺はなんだ?」
決まってらあ。真実は低く笑う。巡は笑みこそ浮かべないが、刀の血糊を袖で拭った。
「邪魔者は排除する。やれ、私の狸ども」
巡が飛んだ。誠の背を駆け上り、空中から三日月を描くよう、刀を振った。
フェンリルはそれを肩で受けた。両足にある弾丸が掘ったトンネルが、防御以外の選択権を与えなかった。
「誠さん!」
犬神の反撃より早く、懐に潜り込んだ誠は、フェンリルの瞳の奥にある感情を読み取った。
「なァに笑ってやがる」
誠とフェンリルは似たような顔で最後の衝突を終えた。振り抜いた拳は胸を貫き、背中側の皮膚一枚を残して身体に埋まっている。
巡は刀を食い込ませたまま残心をし、近づく足音に耳を傾けると、ひゅうと血を払う狸の牙の鋭さが目に浮かぶようだった。
「気の利いた文句もねえや」
フェンリルはオオと鳴き、身をよじった。奥歯の鋭さがあらわになるほど、口の端を千切らんばかりに吠えた。
その笑みのまま首が夜を飛ぶ。どすんと地に落ち一度跳ね、真実は、無線を握った。
『狸だ。フェンリルの』
その頭に弾丸が突き刺さる。鷹の念入りさに、気が和らいだ。
『たった今、討伐を確認した』
北楽にとって最も喜ばしい報告だが、了解という返事ばかりだった。誰もが残りの天使を同じようにしなければならなかったし、北楽を苦しませ続けたフェンリルの討伐報告に、その目で見ていた黒子ですら半信半疑だった。戦場のどこにも喜びはなく、銃声は鳴り響く。
「行くぞ。皆殺しの時間は、まだ終わってない」
真実もそうだったようで、静かに命令をくだす。
返事は重い。まだ天使は波のようにそこにあり続けている。
フェンリルの胸が、ぼんやりと赤く発光している。至近距離にいたからか、誠だけがそれに気づいた。
肉弾戦の最中に霞む目でそれを認め、直感的に弱点だろうとおもった。
そこを狙ってやろうと、拳を突き出したが、いまいち効果がなかった。
拳が砕けている。指を握りこめていない。
「こっちはお前みたいに牙がねえんだ。非力な人間で、参るよなあ」
攻撃を回避し、黒子へと無線を繋いだ。
『心臓を撃ってください』
了解と返事はされたが、フェンリルとの戦闘は瞬間の繰り返しでありその機会は訪れない。当たっても肌をかすめたり肉をわずかに削ぐ程度の威力である。
『誠! 生きてっか!』
真実は続けて声を張った。銃声と砲火の中でも、誠にはそれが肉声として聞こえた気がした。
『五分、いや三分だ。合流する』
一方的に通話は終わった。
誠は安堵した。あのまま会話をしていたら、来なくていいと口からついて出る気がしていた。
(生きた心地がしねえ)
砕けた拳を叩きつける。感覚のない足で蹴り続ける。麻痺した心の残りカスのような危機感で避ける、躱す。
そういう作業をする自分を見せたくなかった。今までの天使討伐とは何もかも違う異様の状況と今の姿を、狸にだけは見られたくなかった。
それでも狸は近づいてくる。真実が逐一報告をしてくれた。それがたまらないほど嫌で、決着を急いだ。
動きは乱雑になり、フェンリルの腕が腹部にめりこんだ。傷ばかりの体だが出血はそれほどではない。流れていくほどの血液が残っていなかった。
「誠!」
真実はその瞬間を目撃していまった。前方を塞ぐ数名の猫と天使を即座に絶命させ、
「巡! 急げ」
と発狂したように金切り声をあげた。
『真実! やばい、朝日が』
黒子も緊急の声を飛ばすが、距離の問題は解決できない。
さらに真実は猫を殲滅すると決めている。最優先事項を入れ替えることは何があってもしない。巡はそれが痛いほどにわかっている。自分だけが真実の心底からの行動を代わりにするわけにもいかず、血風を巻き上げて進路を確保するしかなかった。
「今、今行く。待ってろ。今、すぐなんだ」
真実は呪詛のように呟く。その念が猫と天使を断ち、黒子の危惧する方へと進む。
フェンリルとの一対一でぶつかる誠から、黒子は六百メートルほど離れた位置にいる。つかず離れず当たればダメージとなる距離であり、いつも梟の陣地を背負うように動いた。
この付近は天使に突っ込んでいく軍人が通る道になっていて、彼女はそのものたちの終焉を見るような心地でいる。
すると銃の引き金にかかる指が、重くなった。あまりにも短時間に人間の死に触れたせいか、誠の戦いぶりに戦慄したのか、一度照準から顔を離した。
再び覗こうとすると、体がそれを拒否した。鼓動が乱れ、肉眼のまま指の震えが銃弾を発射し、幸運にも天使に当たった。
(撤退すべきだ)
そう思っても、その場に釘付けになって、彼女の頭に、初めて戦場を経験したころの思い出が走馬灯のよう駆け巡った。
生者は少なく、死んだ仲間ばかりが次々に現れた。
一秒にも満たない記憶の雑音の最後に、彼女の敬愛する鷹の長が、過去の姿で映しだされる。
撃て。と聴こえるような鮮明さで、黒子はそれによって体を縛る恐怖から解放された。
「やらねばならん。ここには鷹はいないのだから」
決意を新たにし、立て続けに装填されている弾丸を一気にぶちまけた。すべて天使に着弾し、数発はフェンリルをかすめた。
『もう少し粘ってくれ』
真実からの個人通信は、先程走馬灯よりもずっとおぼろげな声だった。
粘れといわれても、黒子には手立てがない。が、誠にそんな言葉をかけることはできなかった。彼はもうどうして立って戦闘を続けられているのか不思議なほどである。
「糞ッ! 犬神め、まだ殺したりないのか!」
悪態をつき、銃をかまえる。
個人が携行できる弾の量などはたかが知れているため、すぐにでも補充に戻らなくてはならなければならなかった。
誰もがそういう危機的状況にあって、狸もそうである。
武装は刀があるだけで、死体かから剥ぐこともできない慌ただしさの中で敵の壁をどうにか崩そうとしているが、誠のもとに辿り着くには時間が足りない。その時間とは彼の命そのものである。
「……巡」
「拝命できません。まだ、まだ間に合います。榊大尉だって間に合った。まだ……あの人は大丈夫ですから」
真実が言おうとしたことは、朝日誠救出は不可能であるから、我々は敵を排除することに専念しよういうもので、しかし巡はそれをすぐに否定した。彼女もまた真実と同じような考えがあったが、認めたくなかった。
「隊長、急ぐしかないのです。私たちは、それを、それだけをしないといけません」
「……だったら、急ごう」
すでに軍人たちは誠がいなくなったあとを想定して行動しているふしがある。次に誰がフェンリルの相手をするのかを問うような報告が梟には届いていた。
黒子の副官がその処理をしていると、にわかに無線が入った。副官は鮫島秋穂中尉で、忠義だけでつくられているというような人物で、御岳ですら「お前の副官は北楽で二番目に優秀だ」と軽口を叩く。一番は私のところにいるといって笑うのだが、黒子も鮫島もそれ誇りにしている。
その忠義者の鮫島は無線を取ると、無意識に起立し、天幕の外まできこえるような大声で返事をした。
黒子は残弾がわずか二回の装填をすれば空になるほどに切迫している。天使は数を減らし、軍人がその数をやや上回っているとはいえ、フェンリルをどうしかしなければ戦況は変わらない。
『隊長! 報告します』
鮫島は前線にいる黒子よりも情けない声を発している。どうしたと確認するよりはやく、なにかが戦場を切り裂き、フェンリルの土手っ腹に突き刺さった。血液が濁流のように地に落ち、誠も理解が追いつかないのか、おもわず間合いを広くとった。
『着弾確認。二千四百メートル、だね』
黒子がいた狙撃部隊「鷹」には、いくつもの噂があった。多くはその隊長の武勇伝であるが、彼女は三千メートル先の標的にも軽々と命中させると部隊内外から囁かれていた。
「今のは……!」
『た、狸の随行員である』
『大鳥ハネ、でーす』
また一発の弾丸がフェンリルの膝を撃ち抜いた。黒子は照準ではなく双眼鏡をとった。覗こうとして、そこにある鷹の隊章と目があった。
『トラックが、揺れるからだよ? ふともも狙ったのに、ごめんね』
真実たちもその恩恵に預かった。天使も猫も、例外なく弾丸によって頭を吹き飛ばされた。誰がやったのかすぐにはわからなかったが、直後の全体無線によって、彼女たちに笑みが戻った。
『狸である。微力ながら援軍に参った』
「ハネさんだ!」
少女たちはそのしわがれた声にきゃあきゃあとはしゃぎ、その喜びが刀にのり移る。爆ぜる頭部の血をかぶっても、それすら興奮の材料となるような心持ちでいる。
「ハネさんだ」
と叫んだのは誠もそうである。退役をした彼女が、自分たちへの労りからまた前線に出ようかと提案までした優しい狸のハネさんが助けに来てくれたのだと感涙し、
「オオ」
と犬神に似た言葉にならない雄叫びをあげた。
各部隊には鷹を耳にして発奮したものが多数いた。ほとんどが老年か、もしくは佐官である。そういった一緒に出撃した連中はもちろんだが、若手にも狂喜する者がいる。
『出やがった! 俺の守護精霊だ、五十五年の南征で小便垂らしてた飛蝗を救ったのは奴だ! 大鳥さんだ、見ろお前ら……!』
しばらく飛蝗の大友中尉の聞くに堪えない悪口と絶叫が無線を駆け抜けた。興奮のあまり無線を切ることをしていなかった。この不注意から、彼はすぐに佐野中佐から直接無線で叱られた。
「馬鹿だな大友。しかし、わからんでもないぞ」
烏の御岳は双眼鏡越しですら小さく見える鷹の射手を眺め、舌なめずりをしている。
「私がやつを撃ったら、どうなるかな。烏こそが最も優れているという証明になるだろうか」
里中副官は苦笑しつつ、毛先が逆立つような殺気を放つ上官の隣に並んだ。
「そんなことをしたら、あなたの巡軍曹に嫌われますよ」
「む、それはいかんな。助言に感謝する」
里中はまだ大鳥を追う御岳の前にでた。半歩ほどだが、この影に徹する副官の珍しい行動に、双眼鏡から顔を外した。これも珍しいことに、里中は軍刀を抜いている。
「……私の、私たちの烏は鷹よりも強く、賢く、そして気高い。私がそれを証明してきましょうか?」
御岳の興奮を宥めようとして放った忠言だが、御岳を熟知する彼女である、これがむしろ魂に火を付けるだろうことはわかっている。
「冗談を真に受けるな。論ずるまでもない」
総員構えー。と、集めていた黒い羽に檄を飛ばす。
「隠居した猛禽に手柄をやるな。我々は屍肉を啄むだけの盗人ではない。死体がなくばつくればいい。あはは、自給自足だ。諸君、派手に荒そう」
烏の猛烈な射撃が開始されたのを確認した榊真千は、まだ耳に残るしゃがれた鷹が、己に囁いているのを感じている。
「遠望していた私を詰るか。しかし、マジか。あの鳥はまだあんなことができるのか」
その弾道を目視していただけに、お前にできるかと挑発された気がした。狸の活発な活動にも刺激され、人間離れした動きで天使に突撃し、絶叫を持って亀の戦線復帰の狼煙とした。
月が真上にある。大きく、少し欠けている。
誠は破裂しそうなほどの鼓動の勢いそのままに、フェンリルへと攻撃している。身体は無事な部位を探す方が困難で、そこにくっつく四肢はズタズタである。
「遅えよ。何度も、何度も眠っちまいそうになった」
フェンリルがぱっと飛び退いた。片目の中に、害獣を収めるためである。
「待たせるよりいいだろ?」
「すまん。こっちも色々あってな」
月がそこにあるが如くに煌めく二振りの真剣。飛来する弾丸がフェンリルにぶち当たり、どこからともなく猛勢の雄叫びがきこえる。
「ようフェンリル。うちの子を随分と可愛がってくれたな。まったく、いい面にしてくれたもんだ」
誠はじくじくと傷が熱と痛みを持つの感じた。フェンリルとの戦闘でできたものではなく、彼に寄り添ってきた古傷が、狸の来訪によって疼くのだ。
(奴との傷も、そのうち馴染むんだろうな)
今までは闇夜と同じ存在だったフェンリル討伐の結末が、ようやくその全貌を見るに至った。
痛みは流血となる。その温もりに、彼は猛り、狂乱した。
「なあ、俺はなんだ?」
決まってらあ。真実は低く笑う。巡は笑みこそ浮かべないが、刀の血糊を袖で拭った。
「邪魔者は排除する。やれ、私の狸ども」
巡が飛んだ。誠の背を駆け上り、空中から三日月を描くよう、刀を振った。
フェンリルはそれを肩で受けた。両足にある弾丸が掘ったトンネルが、防御以外の選択権を与えなかった。
「誠さん!」
犬神の反撃より早く、懐に潜り込んだ誠は、フェンリルの瞳の奥にある感情を読み取った。
「なァに笑ってやがる」
誠とフェンリルは似たような顔で最後の衝突を終えた。振り抜いた拳は胸を貫き、背中側の皮膚一枚を残して身体に埋まっている。
巡は刀を食い込ませたまま残心をし、近づく足音に耳を傾けると、ひゅうと血を払う狸の牙の鋭さが目に浮かぶようだった。
「気の利いた文句もねえや」
フェンリルはオオと鳴き、身をよじった。奥歯の鋭さがあらわになるほど、口の端を千切らんばかりに吠えた。
その笑みのまま首が夜を飛ぶ。どすんと地に落ち一度跳ね、真実は、無線を握った。
『狸だ。フェンリルの』
その頭に弾丸が突き刺さる。鷹の念入りさに、気が和らいだ。
『たった今、討伐を確認した』
北楽にとって最も喜ばしい報告だが、了解という返事ばかりだった。誰もが残りの天使を同じようにしなければならなかったし、北楽を苦しませ続けたフェンリルの討伐報告に、その目で見ていた黒子ですら半信半疑だった。戦場のどこにも喜びはなく、銃声は鳴り響く。
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