特派の狸

こま

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第二章

ストレッチャー

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皇国歴一九六〇年 厳冬

「接近後、腹をさばく。腕も落とす」
 真実はいたって冷静だった。
「でも朝日さんはどうするんですか。あのままじゃ」
 俺は胸の下から蛇に呑まれ、滑稽なまま空にいる。おまけに腹には細い牙が貫通していた。
 猪も雀も武勲などは頭にない様子で、撤退を考えようともせず、消えかかる命の炎を守ろうとしていた。
 蛇の右腕が首にかかった。万力のような力で、それは俺の命よりも助けを呼ぶ声を奪おうとしていた。
 遠ざかる意識をどうやって引き戻す。簡単だ、この冷たくて気色の悪い腕が離れればいい。
「でかいからって調子にのるなよ」
 手首を掴んで強引に外した。だが反撃しようにも刀も銃も腰に収めてあるために、武器がない。片腕だけでしか、チャンスがあるとすればだが、その好機を掴めない。
「……俺はこれしかできねえのかよ」
 蛇の弱点なんてどこにあるかわからない。しかし、こいつは天使なのだから、これしかないし、これでいい。
 固めた拳を鼻先に、槌をおろすようにしてぶつけた。衝撃が腹に伝わり、牙が余計に食い込む。
「痛い、けど、お前はどうだよ」
 もう一発。鱗はへこみ、ぱらぱらと剥がれた。生身の赤い肉が露出する。
「牙が、いけねえな」
 口内を探り、上下の牙のつけ根をへし折った。蛇が暴れ狂い目が回る。それなのに、こいつは口を開けない。
 痛いのか、こっちだって傷がえぐれているのだから、おあいこだ。
 銃声はなく、目も霞む。いつの間にか蛇の手首を握りつぶしていた。
 例の不思議な、古傷からの出血がおびただしい。
 上顎を横から殴り付けると隙間ができた。渾身の力で這い出て、落下、なんだか地面の感触もないほどに、体がほてっている。
 あんな体勢からはろくに殴れないし、武器も取れない。地上だったら、ちょっとはやれるぞ。
「あれ」
 装備は一式置いてきたようで、丸腰だった。だがそんなことは関係ないのだ。あそこに蛇の腹があって、俺は動ける。犬や虫へとするように、いつもと同じくすればいい。俺にはそれしかできないのだから。
「……!」
 なんだ、うるさいな。また誰かが喚いてる。真実か、巡か、どっちでもいいか。
 自然と足が前に出て加速する。歩幅を調節しながら、懐に入った。
 血が足に垂れている。そうでなくても滑るのに、これは唾液かなにかのせいだが、とにかく全身の気を抜けば倒れてしまう。
 蛇の腕が俺を阻もうと伸びたが、それは眼前で爆ぜた。任せたと言うかの如く、うまい具合のこの援護は、多分真実だ。
 ああ、これだ。流れ落ちる血と痺れが、犬に噛まれた穴が、蛇に貫かれた穴が、俺にやれと叫んでいる。拳を振り切れと叫んでいる。
 拳一閃、鱗がひしゃげた。押し込み、肉の手応え。ずぶずぶと沈み、温泉でも湧いたような飛沫、柔らかな物質を握って引っこ抜くと何かの管だったのか、一メートルほどでそれは千切れた。
 感嘆するほど蛇は粘り強い。すでに数えきれない弾丸をぶつけられ、十字の大きな傷を受けても、尾を振って抵抗する。
 もう一度、やってみよう。血の雨は雲ではなく生き物から降り注ぐが、ではこれは俺かこいつか、どちらのものだ。
 真実たちが与えた十字の中心、腕を突っ込み、肩までいれた。ムカデ腕が爪を立てても、この握った何かを離すまい。
 触れる肉、そして滝のごとき水流がある。掴んだそれは弛緩して、倒れた。
「死んだかよ」
 蛇腹を蹴ると、破けた。つま先が無意味に濡れた。それをやめることができないのは、あれほど手こずったこいつが簡単に死ぬとは思えなかったからだ。
 音もなく、目も利かない。鼻はつまっている。足だけが機械的に動いていた。
 殺気、しかし発信源は蛇ではない。背後からだ。それも、すぐ後ろにいる。
 振り向きと同時の裏打ち、乾いた音は、記憶にまだ新しい。
「笠置さん……?」
 目を見ろと教わって、彼女の瞳に恐怖し暴発した拳を受け止められたあの音だ。兵学校の教官がどうしてここにいる。
「違いま……違う。巡だ、朝日上等兵」
 「巡? 蛇はどうなった。天使はどうした」
 彼女は無言で指を指した。
「はの一号はすでに息絶えている。他部隊は撤収作業に移る、私たちも帰投準備だ」
 集りだす轍を引く音。死体の回収やどこかへ連絡をする軍服。
 巡は涙と嗚咽に負けそうになる心を懸命に殺している。彼女の瞳がそれを教えてくれた。
「はい、軍曹」
 慣れないな、こうやって呼ぶのは。
「すぐに医者が来る。応急処置だけでも」
「いらないよ」
「そんなはずがないだろう!」
 こんな傷はすぐに治る。怪我の経験だけはあるのだから、それくらいわかる。
 蛇の死体は未だ生気を残したまま横たわる。生首が転がり、おそらく体内で浴びた滝はその出血が落ちてきたのだろう。
「腕を見せろ」
 袖を切り、巡は水筒の水をかけ包帯を巻いた。
「腕は無事なんだよ」
「こんなに血が出ているじゃないか」
 それよりもいるべき狸がいない。
「あいつ、どこだ」
「自分の心配をしろ!」
 猛スピードのトラックが雪を削りながら現れた。ハンドルを握るのは、小さな、しかし狂暴な狸だ。
「巡ぃ、早くそいつを積め」
「は、はい!」
 後部座席に押し込まれ、血が座席を濡らす。触って確認すると、穴が二つある。
「噛み合わせだからなぁ。上と下で牙は二本って、そりゃあそうだ」
 巡は騒いだ。本当に心配性なやつだ。真実をみてみろ、どうせぼろ切れみたいな俺を笑っているに違いない。
「あと五分だけ待ってろよ。今、今、治療ができる。すぐ、すぐそこに医者が、そこにいるからよ」
 予想は外れた。巡は身を乗り出して止血をする。真実は歯をガチガチと鳴らしてアクセルを踏む。
「なんだよ、落ち着けって。そんで笑ってくれ。いつもみたいに」
 思うところがある。今度こそ目を開けたまま家に帰るのだ。
 いつもこのまま寝てしまうから、心配をかけるのだ。今回は天使も手強かったし、だからこそ意識のあるままで帰れば、きっと飯は上手いし、ハネさんも喜ぶはずだ。
「ざまあねえなって笑えよ。訓練が足りませんって叱ってくれよ」
「真実さん、もっと飛ばして! うなされてますよ!」
 違うよ、本心だ。
「金が入るだろ? 黒子さんに世話にならなくてすむな。でも包帯代がかさむかな、先に謝っておくよ」
「馬鹿! そんなこと問題じゃありません!」
 車体は激しく揺れた。傷に響いて、それで意識を保っていられた。服の上から巡はずっと腹の出血を押さえていてくれた。彼女の手は彼女自身の怪我のように、ずぶ濡れになっている。
 林を抜け、雪の壁を抜けるため車を移した。軍服どもがそれを手伝ってくれたが、礼も言えなかった。ありがとうさえ言えないくらい気だるかった。
「さっきまでの元気がねえじゃねえか」
 返事は出来ない。このまま眠ってしまえばどれだけ楽だろうか。
「寝ちゃだめです。目を開けていてください」
 巡は泣きながらそう言って、
「寝るな。命令だ」
 と絶叫した。
「なあに、死にはしない。死ぬふりだ。狸だからな」
 巡の涙の滴が腕に落ちた。年下の前なのだから、格好つけさせてくれ。くだらなさが、俺にとっては格好いいのだ。
「蛇って食えるのかな。あれだけ大きいんだ、しばらくは飢えないよ。心配事が一つ減って、腹もふくれる」
「よたにしておくのが勿体ないほど良い提案だが、私は味にはうるさいんだ。あんなもん、まずいに決まってる。それに」
 真実の言葉を巡が継いだ。
「食べられたのは誠さんの方ですよ」
「……ははは、そうだった」
 彼女は俺を名を口にした。そうでもしないと、俺がどこかへいってしまうとでも思っているのだろうか。引き留めるためにそうしたのだろうか。
 急ブレーキ。ドアが開いてタンカに乗せられ、病院だろうか、ひどく明るい。
「目を開けたままでもいいですか」
 眩しいからといって目をつぶればそのまま夢の世界へ直行だ。治療するのに麻酔があるだろうけどそれもやめてほしい。
「意味不明な言動! 急げ、緊急患者が通るぞ!」
「いや、大袈裟ですよ」
 真実と巡は足を休めのかたちにして見送ってくれた。この車輪のついたタンカ、なにか名前があるのか、あとで医者に聞いてみよう。

 麻酔というものの効果は覿面である。どんなに固く決意しようとも、あっという間に術後である。節々の痛みはあるものの、俺はしっかりと生きていた。
「臓器は無事だったけど、肉がひどく傷ついている。治るまで時間がかかる」
 軍医はそう言った。どうやら二つの穴の距離が近すぎてうまく縫合できないらしい。そのため、なにか医療用のシールを貼られた。軍医は包帯をぐるぐると腹に巻き直しながら、
「見舞いをな」
 と言う。真面目さだけが信条であるという風なかたい顔つきだ。
「追い返した。しばらくは目が覚めないと思ったんだが、驚いたよ」
「中央でも似たようなことを言われました」
 手当ては終わった。ここは町の病院で、軍までは車がいるらしい。
「入院してもらう。傷の経過もみたい」
「電話はありますか」
 彼は頷いた。軍への直通番号のメモが受話器の側にある。ここは軍御用達の病院なのだろう。
「あの、特別派遣部隊の朝日です。榊曹長をお願いします」
 対応してくれた彼女は大慌てで電話をおいた。軽快なクラシックがその間をつなぎ、
「死にはしないと思ったが、こんなに早いのか」
 と、不敵に笑う狸の頭領。
「あのお医者の先生がよ、まだお前の目が覚めないとかいって追い返したんだ。まったく狸をなめてるから困る」
 真実は少しだけ息が切れている。急いで電話口まで来たのだろう、巡の心配性がうつったな。
「ああ。俺は元気だ」
「私もさ。もちろん巡も。まああいつは泣き疲れて寝てるけど」
「ここにいるじゃないですか!」
 奥で聞こえた声の主、受話器を奪い合っているのだろう、勝者がそっと声を聞かせてくれた。
「あの、朝日さん? いますか?」
「いる。心配かけてごめんな」
 彼女は「いいえ」と、噛み締めるように呟いた。
「早く戻って来てくださいね。飼育員は多い方がいいので」
 誰が動物だ、と真実が騒いだ。
「ははは、いいな、それ。……退院にはもうちっと少しかかるだろうけど、それまで頼むよ」
「はい。任せて……うわ!」
「なーにが任せてだ。おい誠」
 真実は、電話越しだったが、ウインクをした気がした。
「ハネさんも心配してた、早く戻れ」
 がちゃりと受話器は置かれた。
「若いなあ」
 軍医は真面目を崩してはにかんだ。
「若いってより、まだ子どもですよ。俺も隊長も」
「うん。若いなあ」
 聞こえていないわけではない。彼は頷きながら、俺にもあったかなあと感慨深そうにしていた。
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