特派の狸

こま

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来たれ、若人

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皇国歴一九六〇年 盛夏

「じい、俺にもこれが来た」
 薄い封筒を祖父に見せた。送り主は皇国軍だった。テレビはタイミングよく軍に属せよと声高に叫んでいる。一日大佐を任されたアイドルの眩しさは、今夏一番の輝きだった。
「そうか」
  それ以上はなにも言わない。仲が悪いのではなく、彼は何事にもこうなのだ。
「俺、行ってもいいかな」
 自由意思は尊重されず、これが来れば行かなくてはならない。それはわかっている。ただ物静かな唯一の家族と、もう少し繋がっていたかった。
「ああ」
 蝉すら鳴くのを止めた蒸し暑い午後三時、夏休みは半分過ぎていた。
「郵便局には明日行ってくる」
 開封もしていない封筒を居間の机に放った。ここで祖父と一緒になって、来たれ若人と叫ぶテレビを見続けていたい。
「今から行け。俺は荷物をまとめておく」
 それはあまりにも無慈悲だったし、悲しい宣告だった。すぐに彼は押し入れを開けて小さなリュックサックを取り出した。ひどく埃を被った茶色の革が無性に憎かった。
「その封筒を島田に見せてこい。そうするだけでいい。軍のやつらは俺たちのこと全部知っている。なにも面倒なことはない」
 それだけ言うと、荷造りをしだした。小さな背中だが、俺は十六の今になっても逆らえずにいる。ここまで育ててくれた愛すべき小さな背中だった。
「わかった」
 サンダル、シャツ、ジーンズ。こんな格好で外を出歩けるのはやはり田舎だからだろう。戦地が近い場所ではどんな天気でもしっかりと着込んでいないと危ないと聞く。そこら中に爆弾が落ちているそうだ。
 首都である皇都から三百キロほど北上したこの赤間藩は喧騒も、ましてや争いも少ない、緑の多い町だ。コンビにまで二十分はかかる俺の生家もあれば、ビルが集中する商業エリアもある。半端に一部だけが開発された結果、町外れは過疎化が進んだという。
「こんちは」
 エアコンの風が汗ばむ肌をこすった。郵便局は人もまばらで、涼みに来た近所の爺さんが数人と、絵はがきを選ぶ婆さんだけだった。
 受付で封筒を見せると、顔見知りの局員は眉をひそめ、お預かりしますとだけ言った。
「見せるだけでいいと言われたんですけど」
 島田浩二という三十過ぎのまだ若い男は、昔からこの辺りに住んでいる、俺たちの世代の兄貴分だった。その彼はこうした仕事についているからこそ封筒の届く恐怖から解放されている。
「朝日くんもですか」
「うん。爺さんなんかもう張り切って荷造りしてますよ」
 冗談の通じる相手だが、彼は本気になって、場所が場所だけに声だけは静かだったが、
「張り切ってなんかいませよ」
 と、今にも胸ぐらを掴んできそうなほど、激しく怒った。
 素っ気ない態度の祖父と島田の激情が重なり涙が出そうになった。
「そうですよね。だって俺、寂しいっすよ。爺さんもそうに決まってますよね」
 島田はいつの間にか赤くなった目を擦り、座って待っていてと手続きを始めた。
「おう、まこちゃんよ。今日はどうしたんだ」
「じいちゃんと一緒じゃねえのか」
 涼んでいたのは奥田と上野の二人だ。彼らの孫はまだ幼く、だからこそ談笑できている。
「いや、俺さ」
「朝日くん、準備できたよ」
 島田に呼ばれると、二人に適当に挨拶をして、また受付のカウンターに戻った。涼しいはずなのに新しい汗が次々と滲む。
「この書類を持って皇都に行きなさい。軍の本部まで行って、これを見せれば……」
 彼はその先を言わなかった。葉書くらいの紙切れに判子が押された粗末な書類が二枚。何が書いてあるかできるだけ見ないようにした。それを黙って受けとると、
「あと、これ」
 デフォルメされた猫がプリントされたポチ袋だった。
「なんですか、これ」
 島田は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「俺からの、まあちょっとしたお守りだよ。ほら、あっちに行ったら色々困るだろう?」
 それだけで察したし、その好意もありがたかったが、受けとれば本当の別れのようでもある。断ろうとすると、昔のように俺の肩を軽く小突いた。
「馬鹿、遠慮なんかするなよ。この前だって、アイス買ってやっただろう。それと一緒だよ」
「それって小学生のころの話だろ? 全然違うよ。そんな昔のこと」
 彼の優しさによって俺たちは一瞬だけ過去へと戻った。虫かご一杯にカブト虫を捕まえて、その帰りにアイスを買ってもらった。俺と友達含め四五人はいたが、島田は全員にアイスを買った。高くはなかっただろうが、俺はこの人をより好きになった。それからも何度かねだったが、甘えすぎだとたしなめる彼の顔はいつもはにかんでいた。
「使わないならそれでいいんだ。ぜひ返しに来てくれ」
 ここの給料って実は安いんだから。そんなことまで言って、無理やり俺にポチ袋を握らせた。
「ありがと」
「いつ出発なんだ」
「わからないけど、じいは急いでた」
「そうか。見送りには行かないぞ」
 淡白なのではなく、これが彼なりのさようならなのだ。この町の人間はみんなこういう気質なのだと思う。
「いらないよ。じゃあね」
 書類とポチ袋を持って、俺はなんとなく駆け足で家まで戻った。玄関にはさっきの茶色の鞄があった。中身は数日分の着替えと乾パンの袋がいくつか入っているだけで、他にはなにもなかった。
「帰ったか」
「じい、これだけでいいの?」
「衣食があるじゃないか。住むところは探せ」
 本気なのだろうか。これでは気軽な旅行だ。早くも島田の好意に頼るしかないのではと先が思いやられる。
「これから出発しろ」
「いや、じい。俺だってこれで文句ないけど、もう少しなにかあってもいいだろ」
 金の無心などしたことはないが、そんなことをいっていられる状況ではない。
「小遣いか?」
 すぐにその答えが出るということは予想はしていたのだろう、新しい財布を持ってきた。黒い革財布だった。
「電車代と今日の晩飯くらいはある」
 さっさと出せよ。目で訴えても仕方がないので一度部屋に戻り着替えた。数ヶ月だけしか着ていない、丈の余る学ランだ。これを買うとき祖父はかなり大きなものを選んだ。
「いいんだ。それくらいで。どうせ育つ」
 彼はそう言って俺の反対を押しきった。
「早くしろ。もたもたするな」
 着替えと飯は早くしろというのも祖父の教育だった。改めて部屋を見渡しても感慨はなく、八畳間の片付いた、いつもの俺の城だった。
「これでいけ」
 用意されていたものは古いが頑丈そうな革靴で、祖父が昔使っていたものらしい。
「サイズは?」
「一緒だ」
 履いてみると少し大きいことを伝えても、
「そのうち慣れるよ」
 と、相手にもされない。
 全ての準備が整った。書類はファイルにはさんでしまい、ポチ袋は学ランの内ポケットにいれた。
 いざ離れるとなると名残惜しい。木造平屋のこの家が、庭にある松の木が、放置されたままの壊れた自転車が、どれも俺を掴んで離さない。
「なにしてんだ。行ってこい」
 突き放す言い方はまさに祖父そのもので、別れ際まで変わらないそれが心地よかった。
「手紙も書かないし電話もしない。それじゃ」
 俺もここの人間なのだ。後ろ髪を断ち切り、鞄を引っ提げ、絶対に振り向くものかと決意した。
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