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脱線②

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「あいつはまだ寝てるから。何もしなければきっと朝まで起きないと思うよ」

男の部屋の扉を開けると、やはりあの異臭が立ち込める。

そこには昨日見たあの男が昨日と同じように寝ていた。

無造作に伸びきった髪と髭、毛玉のついたグレーのスウェット。

近づいてわかるその体の大きさと威圧感。

自分でもこの男に威圧感を覚えるのだから、自分より小さい少女はもっと威圧感が大きいだろう。

「ねえこれ」

後ろから少女の声。

振り返ると、その手には手袋と包丁が握られている。

「つけて」

「あ、ああ」

手袋をはめ、包丁を握る。

それだけの作業が、これからのことを生生しく想像させる。

僕の準備が整ったのを確認すると、彼女は言った。

「殺そうか」

頭の中で、何かが壊れる音が聞こえた。


鉛を吸うような呼吸を繰り返し、男を一瞥する。

額を脂汗が走り、恐怖が体にまとわりつく。

これはやってはいけないことだと頭ではなく体が知っている。

遺伝子に刻まれている本能の警告。

「やっぱり、無理だよ」

がくがくと震える手がまるで悪魔に乗っ取られたみたいに自分では制御できない。

それはもはや単なる恐怖ではなく、拒絶だった。

こんなことをしなくても警察に連絡すれば何とかしてくれる。

他の大人を頼ればどうにかなる。

そうやって今になっていくつもの言い訳が浮かんでくる。

何とか彼女を説得しようと思考巡らしている間に、数秒の沈黙が辺りを支配した。

先に口を開いたのは彼女だった。

「そっか。無理だよね」

諦めてくれる。

ほっとした耳に届いたのは、

「じゃあ、もういいよ」

見捨てるような冷たい言葉だった。


「え?」

何も期待しないような冷酷な目をこちらに向け、僕から包丁を取り上げる。

「君はもういいから」

突き放す言葉が、心臓を直接握ったみたいにひどく胸を締め付ける。

彼女のその顔はどこか見たことある顔―――親の顔に似ていた。

頭に冷や水をかけられたみたいに、思考が真っ白になる。

その言葉は怖い。

「まって、ちゃんと……」

やめてくれ。

その言葉を、その表情を。

「ちゃんと殺すから」

こぼれる様に出した言葉が、体に後悔を染み込ませていく。




男を見るが起きる様子はない。

一度目をつむり、再び呼吸をした。

初めて水に入る時のような深い呼吸。

これは殺すんじゃない。

制裁。

きっと神様も許してくれる。

僕のせいじゃない。

自分を納得させる言い訳を繰り替えして、ゆっくり目を開いた。

息を止め、手に持った刃物を男に向かって力任せに振り上げる。

「うあああああ゛あ゛っ!」

ゴッ。

硬い感触。

「――ぐごっ!」

弾けるように漏れ出た男の絶叫が、耳を劈く。

包丁の刺さったその体がビクン、と揺れて、男は大きく目を見開いた。

「あ¨っ!ぐあっ!」

人が死にそうになっている。

目の前の出来事に恐怖し、包丁を首に刺したまま後ずさった。

「あっあああ!」

肉を切った生々しい感触が、飛び散った血で鮮明に記憶に刻まれていく。

無意識に顎を揺らしながら、自分の手に残った感覚を払う。

だが何度拭ってもその感覚は消えない。

「ごぽっ!ごぽぽぽっ!」

男が声を出そうとしているのか、喉の切れ目から血の泡が炭酸のように溢れ出してくる。

その顔が見る見る内に真っ赤に染まっていく。

その光景を前にして、

「早く殺して!」

聞こえてきた彼女の怒号。

刺さったままの包丁をもう一度手に取り、引き抜く。

くちゃあ、と音が鳴って、剥がした包丁に粘度の高い液体が伝った。

「早く!」

彼女の声に反応して、無意識に体が動いた。

包丁を強く握りしめ、震えていた腕が静止する。

そして、男の首に目掛けて思い切り包丁を振り上げた。


――ガン。

腕に伝わる硬い振動が、骨を切ったことを伝える。

同時に真っ赤な鮮血が辺りに飛び散り、鉄の匂いを纏ったぬるい空気が顔を覆う。

「は……っ!」

脳みそに突き刺すような鋭い頭痛がした。

視界が揺らぎ、地面が斜めになる。

次の瞬間、右腕に激しい痛みがあり、倒れたのだと分かった。

目の前に、男の体があった。

それは熱を帯びていて、小さな振動が流れている。

首の先は……外れていた。

「はっはっ……」

さっきまで叫んでいた男の表情は目と口を開いたまま硬直し、切れた首の断面から開いた蛇口みたいに真っ赤な液体を出している。

「ははは……」

男の心臓に手を触れると微かな鼓動を数回感じて、ピタリとも動かなくなってしまった。

人が物に変わる瞬間を目にした。

それが死んだと、自分が殺したと。

「あっ」

それを理解してしまって、抑えていた慟哭が零れ出した。

「ああああああああ――――っっっ!」

体が震え、あたりに散った鮮血が思考に恐怖を纏わしていく。

「あああ……あああっ!」

やってしまった。

頭痛が鳴り響き、目から涙があふれ出る。

僕は、もう犯罪者だ。

これからどうすればいい。

親に連絡?

警察に捕まってしまうのか?

俺の人生はどうなる?

考えたいことが沢山あるはずなのに、思考がまとまらない。


――ふいに、体の前面を覆うような熱を感じた。


ゆっくり首を動かすと、彼女が抱き着いていることに気が付いた。

「ありがとう」

その声が聞こえて、さっきまで宙に浮いていた意識が現実へと帰る。


「私の名前、美羽みうっていうんだ」

美羽。

頭の中でその名前を何度も反芻する。

「君は?」

嗚咽の混じった声で呟く。

「……優太」

「優太、ね」

さっきまでの冷たい声や怒号は嘘のような、優しい声。

「優太、好きだよ」

瞬間、さっきまであった金属の匂いが花のような甘い香りに移り、散っていた焦点が彼女に定まっていく。

周りの景色なんかどうでもいいぐらいに、さっきまでの後悔なんて忘れてしまうほどに、目の前の彼女が愛おしい。

その小さなやわらかい体に縋り付き、啜り声を紡いた。

「僕も……」
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