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本編
48.「だから教えて。貴女は誰なの?」
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バサリ、と陣の覆布が捲られる音がした。
その場に集った諸将達は一斉にそちらに視線を向けると、そこには立派な武者鎧を身に纏う一人の女武者が佇んでいた。
その様子たるや、まるで戦場にいるかのように凛としており、ただ立っているだけなのに隙など微塵も感じられない。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音だけが聞こえた。
「皆様方、お初に御目にかかります」
鈴のような美しい声だった。誰もがこの場に現れた人物に見惚れ言葉を失う。
「私は宗軍の指揮をしておりました"鈴"と申します」
そう言って彼女は膝を付き、深々と頭を下げる。するとそれに合わせるかのように背後から一人の人物が現れた。
忍装束を来た半化生の少年、白狐である。彼は何も言わず、ただ壮麗たる女武者……村長の後ろに控えるのみだ。
そんな頭を垂れる村長の姿を見て薄っすらと笑みを浮かべるのは織波軍の大将、織波信葉である。
彼女は側近である瀬良を横に従えながら鈴を見つめて呟いた。
「アンタね。私を楽しませてくれたのは」
信葉は小さく呟くと、心底楽しそうに笑う。
それはまるで獲物を見つけた猛獣のように、愉悦に浸っているかのような笑みであった。
「面を上げなさい」
信葉の言葉に鈴はゆっくりと顔を上げると信葉の瞳を見据えるように見つめ返す。
村長は面頬という顔の大部分を覆う防具により彼女の表情は窺い知ることはできないが、その眼光だけは鋭く信葉を見据えていた。
キラリと光る瞳を見て信葉は満足げに笑う。だが信葉が口を開く前に横に侍る瀬良が口を開いた。
「鈴、と言ったな。お前は何処の家の出だ?」
瀬良が言う"家"とは武家であるのは当然として、大名かそれに連なる血筋かどうかという意味である。
鈴は静かに首を振って否定の意を示した。
「私はただの百姓でございます。家名もございません」
「……なに?ならば何故ただの百姓が軍の指揮を執っていた?」
小規模な軍勢ではあるが、それでも300という人数を統率するのはある程度の家名が必要だ。
戦の経験もないただの農民が指揮官になるなど有り得ない。
「前任の指揮官殿が討ち死にしてしまいました故、彼女に代わり私が指揮を……」
「馬鹿を言うな!緊急時であっても只の百姓風情が兵を指揮するなどと聞いたことがないわ!」
瀬良は思わず大声で怒鳴りつける。だがそれも仕方がない事だろう。
武士階級でもなければ将としての教育を受けているわけでもない者が指揮を執るなど、普通では考えられないことだからだ。
大抵は統率者がいなくなればその銃弾集団は烏合の衆と化し、瓦解するだろう。だがそうはならなかった。
それもこの女がいたからこそ。目の前の武者が兵達を纏め上げ、迅速な撤退を可能にしたのだ。
「貴様の戦いぶりを知らぬ者はいない!あんな大立ち回りをした奴が家名すら持たぬ百姓である筈がない!」
村長の凄まじい戦働きは既に信葉達全員が知るところである。あれは常人の動きではない。明らかに高位の英傑の血が混ざった者が持つ強さだ。
そんな尋常ならざる力を持つ女がただの百姓などと誰も信じる筈が無かった。
「言え!貴様は何処の武家の出だ!」
瀬良の叫びが陣中に響き渡る。だが村長は頑なに口を閉ざすばかりであった。
そして代わりに静寂を破ったのは信葉である。
「私は蒼鷲地方の武家を全て暗記してるの。それこそ誰がどのくらいの力を持っているのかもね」
そう言って信葉はおもむろに立ち上がり、村長の前に歩み寄る。
「宗家の武家に貴女程の力を持つ武士はいないわ。そして、湾織波の方にもね」
信葉は村長の顎を掴み顔を上向かせる。村長は抵抗することなく信葉の瞳を見つめ返した。
「貴女の思惑は大体分かってる。でも、貴女の正体だけが分からない」
信葉は少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。それは信葉にとって村長が未知数過ぎる存在だったからである。
もし彼女が自分の敵となり得るならば信葉は全力を以って排除しなければならない。
しかし信葉は目の前の女武者の実力を認めざるを得なかった。だからこそ気になるのだ。
―――彼女は一体何者なのかと。
「だから教えて。貴女は誰なの?」
信葉はそう言って村長の唇に触れるか触れないかの距離まで自らの唇を近づけた。
その瞬間、今まで沈黙を保っていた村長が口を開いた。
「お人払いを」
鈴村長の声は先程までの凛としたものではなく、どこか弱々しいものだった。
信葉はそんな村長を見て、何かを悟ったように小さくため息をつくと側近達に目配せをする。
「の、信葉様……しかし……」
「瀬良だけは残すわ。貴女もそれでいいでしょ?」
その言葉に村長はこくりと頷くと渋々といった様子ではあったが諸将は天幕の外へと出て行った。
その場に残されたのは信葉と瀬良と村長と白狐の四人のみ。
沈黙が辺りを支配する中、最初に声を上げたのは村長であった。
「私は、咎人で御座います」
鈴は小さく呟くと、面頬に手をかけゆっくりと外していく。
するとそこには美しい女性の顔が現れた。瀬良と同じ歳の瀬だろうか、肌は張り、艶もあり若々しく見える。
しかしその顔には憂いを帯びており、その瞳は悲しげに揺れていた。
信葉は村長の素顔を見てほぅ、と感嘆の吐息を漏らした。なんと凛々しく、そして覚悟の決まった瞳をしているのだろうと。
そしてチラリと横に侍る瀬良を見る。彼女もきっと同じ思いを抱いたに違いない、と思ったからだ。
しかし、違った。
瀬良は眼を極限まで見開き、顔面を蒼白にして鈴村長を見つめている。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように。
信葉はその様子を見て首を傾げる。瀬良の反応は明らかに異常だ。まるで幽霊を見たかのような反応である。
「……嘘だ」
瀬良が村長の顔を見てそう呟いた。
「何故貴女がここにいる。貴女は、東城家は……滅んだ筈だ」
瀬良は震えながら言葉を紡ぐ。まるで現実を受け入れることができないという風に。
東城家という単語を聞いた瞬間に信葉の表情がピクリと動いた。
「お久しぶりです、義実どの」
村長は懐かしむような、それでいて悲しさを孕ませた声で瀬良に語りかけた。
東城家。
嘗て蒼鷲地方の東部の小領を支配していた織波家の重臣である。祖を織波と同じくし、代々重臣を務める名家であった。
東の城な名が指す通り、その領地は東の静玉地方からの侵略を食い止めるための要衝であり、同時に重要な貿易拠点でもあった。
そんな東城家は主家である織波家の覚えめでたく、東城家もまた織波に忠誠を尽くしていた。
だが、ある事件を境に東城家の状況が大きく変わることになる。
それは約15年前のことだ。当時、静玉地方を実質的に支配していた大名・空川家の侵攻により蒼鷲地方の一部が占領されてしまう。
この戦自体は織波家が勝利し、空川家の大軍勢を蒼鷲地方から撤退させることに成功したのだが、その際に蒼鷲を防衛した東城家は多大な犠牲を払うことになってしまった。
当主は勿論一族全てが砦を死守し、討ち死にしてしまったのだ。東城一族の犠牲により織波家は勝利することができたものの、有力な家臣を失った織波家もまた手痛い損害を被ったのだった。
「鈴華どの……?本当に、鈴華どのなのか?」
そして東城家に勝るとも劣らない織波家の重臣、瀬良家は同じ立場である東城家とは緊密な関係にあった。
だからこそ瀬良義実は東城家の人物をよく知っていた。東城家の嫡女であり、同じ境遇であった故に親交もそれなりにあった東城鈴華という女性のことを。
瀬良は呆然と村長……鈴華を見つめる。信じられないという気持ちが全身を支配していく。
瀬良の言葉を聞いて鈴村長は優しく微笑みかける。その笑みは瀬良がよく知る彼女の笑顔そのもので、それが一層瀬良の動揺を大きくさせた。
「ええ、瀬良様の言うとおり私はあの時の鈴華に御座います」
村長はそう言って胸元に手を当てた。
「瀬良。彼女は東城鈴華本人で間違いないの?」
信葉は15年前の事を知ってはいるが覚えてはいない。幼い時の記憶など朧気なものだろう。
だがそれでも鈴村長が只者ではないということは理解している。信葉は興味深そうに村長を見つめた。
「……はい、間違い御座いません。彼女は確かに東城鈴華殿です」
瀬良は村長を見つめたまま答える。その瞳には様々な感情が入り交じっていた。
そして白狐もまた、村長の正体を聞いて驚愕すると共にどこか納得した様子を見せていた。
ビー玉を通して見た村長の戦闘力は3000という常人離れしたものだった。只者ではないと思ったが、まさか高名な武家の出だったとは。
「鈴華殿……何故、貴女がここに……いや、それよりも何故生きていたというのに名乗りを上げなかったのです……?」
瀬良の戸惑いを含んだ疑問に、村長は目を伏せる。その瞳には悲しみの色が浮かんでいた。
「私にはもう東城を名乗る資格は御座いませぬ。今の私は碧波村の村長……どうかその意を汲んで下さいませ」
村長の口調は丁寧で礼儀正しいものであった。
しかし、そこには有無を言わせない迫力があった。瀬良は思わず息を飲む。
一体彼女に……東城鈴華の身に何があったのだ。昔会った彼女は自らの家名に誇りを持った若武者であった。だが、今は辺境の村の村長として振る舞っている
瀬良は鈴華の変貌ぶりに困惑しつつも、それ以上に彼女が生きていることに安堵の念を抱いていた。
「ふぅん」
信葉はそんな二人の様子を眺めながら小さく鼻を鳴らすと村長に言った。
「貴女の素性は分かったわ。滅んだ家の武士じゃ分からない筈だわ」
合点がいったとばかりに信葉はポンと手を叩く。
信葉にとって東城家といえば織波家に仕える重臣の名である。そして、幼い頃に滅んだ家でもある。
流石の信葉も討ち死にした一族がまだ生きていたなどとは思いもよらなかった。
だが、目の前の女は間違いなく東城鈴華だという。
「私は貴女の正体に興味があった。だけど、過去に何があったのかは興味は無い」
信葉は村長を見つめて口角を上げる。
「私が知りたいのは、貴女が私の敵になるか否かということだけ」
信葉の視線を受けて村長も真剣な表情を浮かべる。二人の間に流れる空気が張り詰める。
「あの時……空川大侵攻の折。織波がもっと早く兵を纏め、救援に行けば東城家は滅びずに済んだでしょう」
村長の瞳が僅かに揺れ動く。
「それが出来なかったのは宗家と分家のくだらない御家騒動でまともに兵を動かせなかったせい。東城家を滅ぼしたのは空川でもあるし、織波でもある」
孤立無援の中、戦った。
大原崇鷲率いる空川の精鋭2万5千を相手に、3千の兵で最後まで戦い抜いた。
それが如何に凄まじいことなのか、そして凄惨な結果を招いたのか信葉は理解していた。
だからこそ信葉は自分が鈴華の立場だった場合、織波を許せぬと思うだろう。
信葉は別に織波という家にそこまで帰属意識を抱いている訳では無い。だが、この身体に流れるのは確かに織波の血なのだ。
故に鈴華が織波家を恨んでいた場合、信葉もその対象に含まれる。
だが、村長……いや、鈴華はゆっくりと首を横に振った。
「私は誰も恨んでおりませぬ。戦国の世なればこそ、生き死には常に隣り合わせ。空川の兵すら私は恨んでいません。ましてやどうして主君である織波を恨むことがありましょうか」
鈴華は澄んだ……一点の曇もない瞳で信葉を見据えた。信葉はその瞳を見て、鈴華が本心から言っていることを察した。
信葉ですら底が見えぬ、だが澄み切った瞳の奥深くには確かに強い信念が宿っていた。
「そう」
信葉はそう呟くと興味を失ったように村長から視線を外す。
「ならいいわ。私だって別に織波なんてどうでもいいけど貴女が敵じゃないならばそれでいい」
信葉の僅かに残っていた殺気が四散したのを感じ、白狐は内心で安堵する。どうやらこの話し合いの山場を超えたようで互いに緊張が解けたようだ。
しかし白狐は鈴華の過去が気になっていた。武家の出……東城家に生まれた者が何故、このような辺境の村で村長をしていたのか。
そして何より、その空川家という大名家が攻めてきた時に彼女の身に何が起こったのか。
先程の鈴華の答えを聞く限り、生半可な出来事では無かったことは想像がつく。
だが、それでも白狐は彼女のことが気になって仕方がなかった。
だが……彼女が聞いてくれるな、と言っているのだから無理に聞ける訳がない。
白狐は鈴華の身体が微かに震えているのに気付いていた。それは怒りでも憎しみでもない。
彼女は怯えていたのだ。自分の身に起きた悲劇に。そしてその恐怖を忘れるために敢えて気丈に振る舞っているのだ。
「(村長さん……)」
白狐は彼女の背中にそっと触れる。少しでも彼女を支えたかった。自分にはこんな事しか出来ないが、それでも何か力になりたかった。
そうして、彼女の背と白狐の指が触れた時。
「―――!?」
声が聞こえた。
それは今ではなく、遠い過去か、遠い未来の。
朧げな、声が……
―――――――――
『おぉ……おぉ……!!なんという事だ……!』
『白斎さま?一体どうなさったのですか!?』
死体に埋め尽くされた砦の中。肉が腐敗し、腐臭を放つその中で。
凄惨な死体の群れに囲まれながら一人の半化生が涙を流していた。地獄のような光景の中で、その人物は死体の山に埋もれた一人の少女を抱きかかえる。
『まさか、貴女が今、ここにいるとは思わなんだ……!』
血塗れの少女を抱きしめ、半化生はその顔を覗き込む。
美しい少女だった。長い黒髪に整った顔立ちをした、まるで人形のように愛らしい容姿をしている。
だが、そんな外見とは裏腹に、その女性の肉体は見るも無残に傷ついており、そして彼女の親類もその横で無惨な死を遂げていた。
『私はただ空川家を救いたかった、だけ……貴女をこんな目に合わすつもりは……』
半化生の僧は弱々しく呟きながらその場に崩れ落ちる。
付き従う者達は困惑した表情を浮かべる。皆、この女性が誰なのか知らなかったからだ。
『……撤退する。全軍、静玉地方まで退却せよ』
その言葉に周囲の兵達は驚愕し、そして反論を口にする。
『お、お待ち下さい!兵を大動員し、砦一つ落としたばかりだというのに撤退など……!!』
『時間を掛け過ぎた。武陽も、北雲も、この隙を逃す筈が無い……』
半化生は少女をそっと地面に寝かせると彼女の寝顔を見て呟いた。
『貴女の罪は、私のせいだったのか……!あぁ、許しておくれ……!あの時に話を聞いていれば―――』
―――――――――
「白狐?」
「…ッ!?」
不意に名前を呼ばれて白狐はビクリと身体を震わせた。
ここは……どこだろうか。自分は確か砦に……
「なにボーっとしてんの?」
訝しげな信葉の顔が白狐の目の前に映る。どうやらいつの間にか意識を手放していたようだ。
白狐はブルブルと顔を横に振り、信葉に向き直った。大切な場面だというのに気を失うとは、と白狐は自分を叱咤する。
見ると随分と話が進んでいるようで、机を囲み信葉達と鈴華はこれから具体的な話をしようとしていた。
「鈴華。貴女は私に敵対する気はないのよね?」
「はい。私が今回この軍を率いているのはあくまで成り行き故のこと。湾織波の方々の敵になるつもりは御座いませぬ」
鈴華は淀みなく答える。元々東城家は湾織波の側近の武家だ。鈴華とて進んで宗家の軍に与していた訳ではなく、碧波村がある小領が宗家側の派閥だったので仕方なくである。
信葉はその答えを聞くと満足気に口角を上げ、鈴華に言った。
「よろしい。じゃあアンタと、砦に籠もっていた兵の命は助ける。その代わり今からアンタ達はこの織波信葉の軍門に下ること」
「はっ。信葉様の御慈悲に心から感謝致します」
鈴華は深々と頭を下げた。その様子を見て信葉はふぅと息をつくと、今度は瀬良に視線を向ける。
「瀬良、アンタもそれでいいわね?」
「えっ……あ、はい」
側近である瀬良は信葉の言葉に心ここに在らずといった様子で応えた。
普段の彼女ならば、信葉の独断で急に敵の投降を認め、更にそのまま軍勢に込みこむなど大反対するところだが、今の彼女にはそんな余裕は無かった。
それと言うのも目の前の女性……東城鈴華が生きていたという衝撃が大きすぎたのだ。
「あぁ、後アンタ……鈴華が東城家の生き残りってのは他言しないように」
「信葉様、それは何故でしょうか?」
「色々あるけど……まぁ、今話すことじゃないわ。とりあえず黙っとけ、それだけよ」
信葉の不可解な命に瀬良は不思議そうな顔をするが、それ以上は聞かなかった。
彼女には深い考えがあるんだろうし、何より鈴華本人が東城家を名乗るのを拒否しているのだ。自分がとやかく言える事ではない。
今、この場にいるのは……信葉、瀬良、鈴華、白狐の四人だ。これならば秘密は漏れる事はないだろう。
「さて、それじゃあ鈴華。アンタの策を聞かせなさい」
信葉の言葉に鈴華はコクリと頷き、机上に地図を広げる。この砦がある山と第6小領周辺が描かれた地図だ。
「私達のいる山がここで御座います。そして第6小領都がこの平原……。第6小領の軍勢は宗家本軍と合流し、南下しており今現在は小領都はがら空きの状態です」
「ふむ、となると小領都を落とすのは簡単そうだな……」
瀬良がそう言うと鈴華は首を横に振った。
「いえ、小領都は落としません。小領都を陥落させてしまうと僅かでも時間を食う上に、宗家に我等の存在が露呈する可能性が高くなります。だから敢えて小領都は放置するのです。そして――」
鈴華は小領都の南方……宗家の本軍と、分家の本軍が衝突する平原を指し示した。
「ここに背後から急襲し、分家本軍と連携し宗家の本隊を挟み打ちにします」
ここに来て白狐は鈴華の思惑を理解した。
彼女は早い段階で信葉の軍と合流し、宗家を挟み打ちにする策を練っていたのだ。恐らくは砦に籠もったあの時だ……
だから鈴華は白狐に敵兵を殺さず、それどころか仲良くして親睦を深めてくれという難題を言ったのだ。
いきなり投降します、と言ったところで怪しすぎるし、仮に信葉達が鈴華の言い分を信じても他の兵士達は違う。
だが、鈴華は力を示し、白狐もまた信葉軍の兵士達と多少の信頼関係を築いた。この状態で信葉軍と合流する事に意味があったのだ。
「既に第6小領には『信葉軍を撃退した。救援に行った先の小領も無事である』と偽報を送っております。後はこの軍が如何に早く、そして隠密に決戦の場に進軍出来るかが鍵となります」
なんという用意周到さであろうか。瀬良は知略に優れた東城家らしい戦略だと感心する。それと同時にやはり彼女は東城鈴華だと確信した。
一方で信葉は鈴華の策を聞いても特に驚いた様子も無く、ただ黙って耳を傾けていた。どうやら予想していたようだ。
「ま、及第点ね。これなら私の部下として合格よ」
湾織波軍に下るとは言ったが、信葉の部下になるとは言っていないのだが、彼女の中では鈴華は既に自分の部下になっているようだ。
信葉は何やら机で書状をしたためながら鈴華に指示を出す。
「よし、じゃあ鈴華。アンタはこれから砦の兵士たちを纏めてこっちの軍と合流する準備をなさい。すぐに出発するから」
「はっ」
「で、白狐。アンタにも重要な任務を与えるわ」
信葉はもぞもぞと机の上で何かを書き終える。そしておもむろに白狐に書状を渡す。
「えっと、これは?」
「それは湾織波軍の総大将、織波秀菜宛の書状よ。今の策を記している重要機密……もしそれが敵に露呈すれば全てが瓦解するかもしれない」
ごくり、と白狐は唾を飲んだ。つまりこの手紙を敵に奪われでもしたら鈴華や信葉達の命だって危ないかもしれないのだ。
これは責任重大である。白狐は震える手でその書簡を受け取ると、それを懐にしまった。
「あ、それを渡す時にちゃんと我が主、信葉さまからって言うのよ?」
「え?主って……?」
白狐がそう聞き返そうとすると、信葉が殺意の籠もった目でギロリと睨んできたので白狐は慌てて口を閉ざした。
「私、同じ事を二度言うのは大嫌いなの。"私"の忍者なら理解しておきなさい」
「う、うん」
なんだかよく分からないけど、まぁいい。兎に角、命令ならば従うだけだ。
絶対に任務を成功させてみせる―――白狐はそう固く誓ったのであった。
その場に集った諸将達は一斉にそちらに視線を向けると、そこには立派な武者鎧を身に纏う一人の女武者が佇んでいた。
その様子たるや、まるで戦場にいるかのように凛としており、ただ立っているだけなのに隙など微塵も感じられない。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音だけが聞こえた。
「皆様方、お初に御目にかかります」
鈴のような美しい声だった。誰もがこの場に現れた人物に見惚れ言葉を失う。
「私は宗軍の指揮をしておりました"鈴"と申します」
そう言って彼女は膝を付き、深々と頭を下げる。するとそれに合わせるかのように背後から一人の人物が現れた。
忍装束を来た半化生の少年、白狐である。彼は何も言わず、ただ壮麗たる女武者……村長の後ろに控えるのみだ。
そんな頭を垂れる村長の姿を見て薄っすらと笑みを浮かべるのは織波軍の大将、織波信葉である。
彼女は側近である瀬良を横に従えながら鈴を見つめて呟いた。
「アンタね。私を楽しませてくれたのは」
信葉は小さく呟くと、心底楽しそうに笑う。
それはまるで獲物を見つけた猛獣のように、愉悦に浸っているかのような笑みであった。
「面を上げなさい」
信葉の言葉に鈴はゆっくりと顔を上げると信葉の瞳を見据えるように見つめ返す。
村長は面頬という顔の大部分を覆う防具により彼女の表情は窺い知ることはできないが、その眼光だけは鋭く信葉を見据えていた。
キラリと光る瞳を見て信葉は満足げに笑う。だが信葉が口を開く前に横に侍る瀬良が口を開いた。
「鈴、と言ったな。お前は何処の家の出だ?」
瀬良が言う"家"とは武家であるのは当然として、大名かそれに連なる血筋かどうかという意味である。
鈴は静かに首を振って否定の意を示した。
「私はただの百姓でございます。家名もございません」
「……なに?ならば何故ただの百姓が軍の指揮を執っていた?」
小規模な軍勢ではあるが、それでも300という人数を統率するのはある程度の家名が必要だ。
戦の経験もないただの農民が指揮官になるなど有り得ない。
「前任の指揮官殿が討ち死にしてしまいました故、彼女に代わり私が指揮を……」
「馬鹿を言うな!緊急時であっても只の百姓風情が兵を指揮するなどと聞いたことがないわ!」
瀬良は思わず大声で怒鳴りつける。だがそれも仕方がない事だろう。
武士階級でもなければ将としての教育を受けているわけでもない者が指揮を執るなど、普通では考えられないことだからだ。
大抵は統率者がいなくなればその銃弾集団は烏合の衆と化し、瓦解するだろう。だがそうはならなかった。
それもこの女がいたからこそ。目の前の武者が兵達を纏め上げ、迅速な撤退を可能にしたのだ。
「貴様の戦いぶりを知らぬ者はいない!あんな大立ち回りをした奴が家名すら持たぬ百姓である筈がない!」
村長の凄まじい戦働きは既に信葉達全員が知るところである。あれは常人の動きではない。明らかに高位の英傑の血が混ざった者が持つ強さだ。
そんな尋常ならざる力を持つ女がただの百姓などと誰も信じる筈が無かった。
「言え!貴様は何処の武家の出だ!」
瀬良の叫びが陣中に響き渡る。だが村長は頑なに口を閉ざすばかりであった。
そして代わりに静寂を破ったのは信葉である。
「私は蒼鷲地方の武家を全て暗記してるの。それこそ誰がどのくらいの力を持っているのかもね」
そう言って信葉はおもむろに立ち上がり、村長の前に歩み寄る。
「宗家の武家に貴女程の力を持つ武士はいないわ。そして、湾織波の方にもね」
信葉は村長の顎を掴み顔を上向かせる。村長は抵抗することなく信葉の瞳を見つめ返した。
「貴女の思惑は大体分かってる。でも、貴女の正体だけが分からない」
信葉は少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。それは信葉にとって村長が未知数過ぎる存在だったからである。
もし彼女が自分の敵となり得るならば信葉は全力を以って排除しなければならない。
しかし信葉は目の前の女武者の実力を認めざるを得なかった。だからこそ気になるのだ。
―――彼女は一体何者なのかと。
「だから教えて。貴女は誰なの?」
信葉はそう言って村長の唇に触れるか触れないかの距離まで自らの唇を近づけた。
その瞬間、今まで沈黙を保っていた村長が口を開いた。
「お人払いを」
鈴村長の声は先程までの凛としたものではなく、どこか弱々しいものだった。
信葉はそんな村長を見て、何かを悟ったように小さくため息をつくと側近達に目配せをする。
「の、信葉様……しかし……」
「瀬良だけは残すわ。貴女もそれでいいでしょ?」
その言葉に村長はこくりと頷くと渋々といった様子ではあったが諸将は天幕の外へと出て行った。
その場に残されたのは信葉と瀬良と村長と白狐の四人のみ。
沈黙が辺りを支配する中、最初に声を上げたのは村長であった。
「私は、咎人で御座います」
鈴は小さく呟くと、面頬に手をかけゆっくりと外していく。
するとそこには美しい女性の顔が現れた。瀬良と同じ歳の瀬だろうか、肌は張り、艶もあり若々しく見える。
しかしその顔には憂いを帯びており、その瞳は悲しげに揺れていた。
信葉は村長の素顔を見てほぅ、と感嘆の吐息を漏らした。なんと凛々しく、そして覚悟の決まった瞳をしているのだろうと。
そしてチラリと横に侍る瀬良を見る。彼女もきっと同じ思いを抱いたに違いない、と思ったからだ。
しかし、違った。
瀬良は眼を極限まで見開き、顔面を蒼白にして鈴村長を見つめている。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように。
信葉はその様子を見て首を傾げる。瀬良の反応は明らかに異常だ。まるで幽霊を見たかのような反応である。
「……嘘だ」
瀬良が村長の顔を見てそう呟いた。
「何故貴女がここにいる。貴女は、東城家は……滅んだ筈だ」
瀬良は震えながら言葉を紡ぐ。まるで現実を受け入れることができないという風に。
東城家という単語を聞いた瞬間に信葉の表情がピクリと動いた。
「お久しぶりです、義実どの」
村長は懐かしむような、それでいて悲しさを孕ませた声で瀬良に語りかけた。
東城家。
嘗て蒼鷲地方の東部の小領を支配していた織波家の重臣である。祖を織波と同じくし、代々重臣を務める名家であった。
東の城な名が指す通り、その領地は東の静玉地方からの侵略を食い止めるための要衝であり、同時に重要な貿易拠点でもあった。
そんな東城家は主家である織波家の覚えめでたく、東城家もまた織波に忠誠を尽くしていた。
だが、ある事件を境に東城家の状況が大きく変わることになる。
それは約15年前のことだ。当時、静玉地方を実質的に支配していた大名・空川家の侵攻により蒼鷲地方の一部が占領されてしまう。
この戦自体は織波家が勝利し、空川家の大軍勢を蒼鷲地方から撤退させることに成功したのだが、その際に蒼鷲を防衛した東城家は多大な犠牲を払うことになってしまった。
当主は勿論一族全てが砦を死守し、討ち死にしてしまったのだ。東城一族の犠牲により織波家は勝利することができたものの、有力な家臣を失った織波家もまた手痛い損害を被ったのだった。
「鈴華どの……?本当に、鈴華どのなのか?」
そして東城家に勝るとも劣らない織波家の重臣、瀬良家は同じ立場である東城家とは緊密な関係にあった。
だからこそ瀬良義実は東城家の人物をよく知っていた。東城家の嫡女であり、同じ境遇であった故に親交もそれなりにあった東城鈴華という女性のことを。
瀬良は呆然と村長……鈴華を見つめる。信じられないという気持ちが全身を支配していく。
瀬良の言葉を聞いて鈴村長は優しく微笑みかける。その笑みは瀬良がよく知る彼女の笑顔そのもので、それが一層瀬良の動揺を大きくさせた。
「ええ、瀬良様の言うとおり私はあの時の鈴華に御座います」
村長はそう言って胸元に手を当てた。
「瀬良。彼女は東城鈴華本人で間違いないの?」
信葉は15年前の事を知ってはいるが覚えてはいない。幼い時の記憶など朧気なものだろう。
だがそれでも鈴村長が只者ではないということは理解している。信葉は興味深そうに村長を見つめた。
「……はい、間違い御座いません。彼女は確かに東城鈴華殿です」
瀬良は村長を見つめたまま答える。その瞳には様々な感情が入り交じっていた。
そして白狐もまた、村長の正体を聞いて驚愕すると共にどこか納得した様子を見せていた。
ビー玉を通して見た村長の戦闘力は3000という常人離れしたものだった。只者ではないと思ったが、まさか高名な武家の出だったとは。
「鈴華殿……何故、貴女がここに……いや、それよりも何故生きていたというのに名乗りを上げなかったのです……?」
瀬良の戸惑いを含んだ疑問に、村長は目を伏せる。その瞳には悲しみの色が浮かんでいた。
「私にはもう東城を名乗る資格は御座いませぬ。今の私は碧波村の村長……どうかその意を汲んで下さいませ」
村長の口調は丁寧で礼儀正しいものであった。
しかし、そこには有無を言わせない迫力があった。瀬良は思わず息を飲む。
一体彼女に……東城鈴華の身に何があったのだ。昔会った彼女は自らの家名に誇りを持った若武者であった。だが、今は辺境の村の村長として振る舞っている
瀬良は鈴華の変貌ぶりに困惑しつつも、それ以上に彼女が生きていることに安堵の念を抱いていた。
「ふぅん」
信葉はそんな二人の様子を眺めながら小さく鼻を鳴らすと村長に言った。
「貴女の素性は分かったわ。滅んだ家の武士じゃ分からない筈だわ」
合点がいったとばかりに信葉はポンと手を叩く。
信葉にとって東城家といえば織波家に仕える重臣の名である。そして、幼い頃に滅んだ家でもある。
流石の信葉も討ち死にした一族がまだ生きていたなどとは思いもよらなかった。
だが、目の前の女は間違いなく東城鈴華だという。
「私は貴女の正体に興味があった。だけど、過去に何があったのかは興味は無い」
信葉は村長を見つめて口角を上げる。
「私が知りたいのは、貴女が私の敵になるか否かということだけ」
信葉の視線を受けて村長も真剣な表情を浮かべる。二人の間に流れる空気が張り詰める。
「あの時……空川大侵攻の折。織波がもっと早く兵を纏め、救援に行けば東城家は滅びずに済んだでしょう」
村長の瞳が僅かに揺れ動く。
「それが出来なかったのは宗家と分家のくだらない御家騒動でまともに兵を動かせなかったせい。東城家を滅ぼしたのは空川でもあるし、織波でもある」
孤立無援の中、戦った。
大原崇鷲率いる空川の精鋭2万5千を相手に、3千の兵で最後まで戦い抜いた。
それが如何に凄まじいことなのか、そして凄惨な結果を招いたのか信葉は理解していた。
だからこそ信葉は自分が鈴華の立場だった場合、織波を許せぬと思うだろう。
信葉は別に織波という家にそこまで帰属意識を抱いている訳では無い。だが、この身体に流れるのは確かに織波の血なのだ。
故に鈴華が織波家を恨んでいた場合、信葉もその対象に含まれる。
だが、村長……いや、鈴華はゆっくりと首を横に振った。
「私は誰も恨んでおりませぬ。戦国の世なればこそ、生き死には常に隣り合わせ。空川の兵すら私は恨んでいません。ましてやどうして主君である織波を恨むことがありましょうか」
鈴華は澄んだ……一点の曇もない瞳で信葉を見据えた。信葉はその瞳を見て、鈴華が本心から言っていることを察した。
信葉ですら底が見えぬ、だが澄み切った瞳の奥深くには確かに強い信念が宿っていた。
「そう」
信葉はそう呟くと興味を失ったように村長から視線を外す。
「ならいいわ。私だって別に織波なんてどうでもいいけど貴女が敵じゃないならばそれでいい」
信葉の僅かに残っていた殺気が四散したのを感じ、白狐は内心で安堵する。どうやらこの話し合いの山場を超えたようで互いに緊張が解けたようだ。
しかし白狐は鈴華の過去が気になっていた。武家の出……東城家に生まれた者が何故、このような辺境の村で村長をしていたのか。
そして何より、その空川家という大名家が攻めてきた時に彼女の身に何が起こったのか。
先程の鈴華の答えを聞く限り、生半可な出来事では無かったことは想像がつく。
だが、それでも白狐は彼女のことが気になって仕方がなかった。
だが……彼女が聞いてくれるな、と言っているのだから無理に聞ける訳がない。
白狐は鈴華の身体が微かに震えているのに気付いていた。それは怒りでも憎しみでもない。
彼女は怯えていたのだ。自分の身に起きた悲劇に。そしてその恐怖を忘れるために敢えて気丈に振る舞っているのだ。
「(村長さん……)」
白狐は彼女の背中にそっと触れる。少しでも彼女を支えたかった。自分にはこんな事しか出来ないが、それでも何か力になりたかった。
そうして、彼女の背と白狐の指が触れた時。
「―――!?」
声が聞こえた。
それは今ではなく、遠い過去か、遠い未来の。
朧げな、声が……
―――――――――
『おぉ……おぉ……!!なんという事だ……!』
『白斎さま?一体どうなさったのですか!?』
死体に埋め尽くされた砦の中。肉が腐敗し、腐臭を放つその中で。
凄惨な死体の群れに囲まれながら一人の半化生が涙を流していた。地獄のような光景の中で、その人物は死体の山に埋もれた一人の少女を抱きかかえる。
『まさか、貴女が今、ここにいるとは思わなんだ……!』
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だが、そんな外見とは裏腹に、その女性の肉体は見るも無残に傷ついており、そして彼女の親類もその横で無惨な死を遂げていた。
『私はただ空川家を救いたかった、だけ……貴女をこんな目に合わすつもりは……』
半化生の僧は弱々しく呟きながらその場に崩れ落ちる。
付き従う者達は困惑した表情を浮かべる。皆、この女性が誰なのか知らなかったからだ。
『……撤退する。全軍、静玉地方まで退却せよ』
その言葉に周囲の兵達は驚愕し、そして反論を口にする。
『お、お待ち下さい!兵を大動員し、砦一つ落としたばかりだというのに撤退など……!!』
『時間を掛け過ぎた。武陽も、北雲も、この隙を逃す筈が無い……』
半化生は少女をそっと地面に寝かせると彼女の寝顔を見て呟いた。
『貴女の罪は、私のせいだったのか……!あぁ、許しておくれ……!あの時に話を聞いていれば―――』
―――――――――
「白狐?」
「…ッ!?」
不意に名前を呼ばれて白狐はビクリと身体を震わせた。
ここは……どこだろうか。自分は確か砦に……
「なにボーっとしてんの?」
訝しげな信葉の顔が白狐の目の前に映る。どうやらいつの間にか意識を手放していたようだ。
白狐はブルブルと顔を横に振り、信葉に向き直った。大切な場面だというのに気を失うとは、と白狐は自分を叱咤する。
見ると随分と話が進んでいるようで、机を囲み信葉達と鈴華はこれから具体的な話をしようとしていた。
「鈴華。貴女は私に敵対する気はないのよね?」
「はい。私が今回この軍を率いているのはあくまで成り行き故のこと。湾織波の方々の敵になるつもりは御座いませぬ」
鈴華は淀みなく答える。元々東城家は湾織波の側近の武家だ。鈴華とて進んで宗家の軍に与していた訳ではなく、碧波村がある小領が宗家側の派閥だったので仕方なくである。
信葉はその答えを聞くと満足気に口角を上げ、鈴華に言った。
「よろしい。じゃあアンタと、砦に籠もっていた兵の命は助ける。その代わり今からアンタ達はこの織波信葉の軍門に下ること」
「はっ。信葉様の御慈悲に心から感謝致します」
鈴華は深々と頭を下げた。その様子を見て信葉はふぅと息をつくと、今度は瀬良に視線を向ける。
「瀬良、アンタもそれでいいわね?」
「えっ……あ、はい」
側近である瀬良は信葉の言葉に心ここに在らずといった様子で応えた。
普段の彼女ならば、信葉の独断で急に敵の投降を認め、更にそのまま軍勢に込みこむなど大反対するところだが、今の彼女にはそんな余裕は無かった。
それと言うのも目の前の女性……東城鈴華が生きていたという衝撃が大きすぎたのだ。
「あぁ、後アンタ……鈴華が東城家の生き残りってのは他言しないように」
「信葉様、それは何故でしょうか?」
「色々あるけど……まぁ、今話すことじゃないわ。とりあえず黙っとけ、それだけよ」
信葉の不可解な命に瀬良は不思議そうな顔をするが、それ以上は聞かなかった。
彼女には深い考えがあるんだろうし、何より鈴華本人が東城家を名乗るのを拒否しているのだ。自分がとやかく言える事ではない。
今、この場にいるのは……信葉、瀬良、鈴華、白狐の四人だ。これならば秘密は漏れる事はないだろう。
「さて、それじゃあ鈴華。アンタの策を聞かせなさい」
信葉の言葉に鈴華はコクリと頷き、机上に地図を広げる。この砦がある山と第6小領周辺が描かれた地図だ。
「私達のいる山がここで御座います。そして第6小領都がこの平原……。第6小領の軍勢は宗家本軍と合流し、南下しており今現在は小領都はがら空きの状態です」
「ふむ、となると小領都を落とすのは簡単そうだな……」
瀬良がそう言うと鈴華は首を横に振った。
「いえ、小領都は落としません。小領都を陥落させてしまうと僅かでも時間を食う上に、宗家に我等の存在が露呈する可能性が高くなります。だから敢えて小領都は放置するのです。そして――」
鈴華は小領都の南方……宗家の本軍と、分家の本軍が衝突する平原を指し示した。
「ここに背後から急襲し、分家本軍と連携し宗家の本隊を挟み打ちにします」
ここに来て白狐は鈴華の思惑を理解した。
彼女は早い段階で信葉の軍と合流し、宗家を挟み打ちにする策を練っていたのだ。恐らくは砦に籠もったあの時だ……
だから鈴華は白狐に敵兵を殺さず、それどころか仲良くして親睦を深めてくれという難題を言ったのだ。
いきなり投降します、と言ったところで怪しすぎるし、仮に信葉達が鈴華の言い分を信じても他の兵士達は違う。
だが、鈴華は力を示し、白狐もまた信葉軍の兵士達と多少の信頼関係を築いた。この状態で信葉軍と合流する事に意味があったのだ。
「既に第6小領には『信葉軍を撃退した。救援に行った先の小領も無事である』と偽報を送っております。後はこの軍が如何に早く、そして隠密に決戦の場に進軍出来るかが鍵となります」
なんという用意周到さであろうか。瀬良は知略に優れた東城家らしい戦略だと感心する。それと同時にやはり彼女は東城鈴華だと確信した。
一方で信葉は鈴華の策を聞いても特に驚いた様子も無く、ただ黙って耳を傾けていた。どうやら予想していたようだ。
「ま、及第点ね。これなら私の部下として合格よ」
湾織波軍に下るとは言ったが、信葉の部下になるとは言っていないのだが、彼女の中では鈴華は既に自分の部下になっているようだ。
信葉は何やら机で書状をしたためながら鈴華に指示を出す。
「よし、じゃあ鈴華。アンタはこれから砦の兵士たちを纏めてこっちの軍と合流する準備をなさい。すぐに出発するから」
「はっ」
「で、白狐。アンタにも重要な任務を与えるわ」
信葉はもぞもぞと机の上で何かを書き終える。そしておもむろに白狐に書状を渡す。
「えっと、これは?」
「それは湾織波軍の総大将、織波秀菜宛の書状よ。今の策を記している重要機密……もしそれが敵に露呈すれば全てが瓦解するかもしれない」
ごくり、と白狐は唾を飲んだ。つまりこの手紙を敵に奪われでもしたら鈴華や信葉達の命だって危ないかもしれないのだ。
これは責任重大である。白狐は震える手でその書簡を受け取ると、それを懐にしまった。
「あ、それを渡す時にちゃんと我が主、信葉さまからって言うのよ?」
「え?主って……?」
白狐がそう聞き返そうとすると、信葉が殺意の籠もった目でギロリと睨んできたので白狐は慌てて口を閉ざした。
「私、同じ事を二度言うのは大嫌いなの。"私"の忍者なら理解しておきなさい」
「う、うん」
なんだかよく分からないけど、まぁいい。兎に角、命令ならば従うだけだ。
絶対に任務を成功させてみせる―――白狐はそう固く誓ったのであった。
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