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一章

02.テンプレクラッシャー

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 俺は静かに玄関を閉じた。
 扉の上を確認する。

 203号室。

 間違いなく俺の部屋だ。
 いや、違う部屋だったとしても、アラクネなんているわけがないんだけど。
 今日はすでに異常なことが起きている。
 そして部屋にいるアラクネ。

 あ、何だ。夢か。

 そうに違いない。むしろ、他に考えられない。
 それに、そうだ。彼女のあの聞き覚えのある声。

 ああ、何だ、夢かよ。ちょっと期待しちゃったじゃないか。

 だが、もう夢と分かれば恐れることは無い。
 折角の明晰夢だ。楽しめるだけ楽しもう。

 俺は再び扉を開け、中に入って行った。

「軍曹、ただいま」
「えっ! よく私だと分かりましたね! こんなに大きくなってしまったので、わかってもらえないんじゃないかと思いました。一度扉を閉められましたし。それと軍曹はやめてください。いい加減にちゃんと名前を考えてください」

 俺は笑って誤魔化しつつ、服を脱いでいく。

「ちょ、ちょっと、待ってください。何で服を脱いでいるのですか?」

 これは明晰夢で、目の前には裸の美人。やることなんて一つしかない。
 俺はパンツに手を掛けつつ、ル○ンダイブを敢行した。

「きゃあああああ!」

 刹那、激しい衝撃と共に俺は吹き飛び、壁に激突した。
 凄い音がしたが、この時間ならお隣、というかアパートのほとんどが留守だろう。
 良かったとは思うが、俺の体はそれどころではない。
 交通事故にでも遭ったかと思った。
 壁に激突した体が痛い。特に首が痛く、多分衝撃があったと思われる左頬に至っては、感覚がなかった。

「も、申し訳ありません、マスター! 出来る限り手加減したのですが……」
「あ、うん、これ夢じゃないわ」

 俺が無様な姿勢で転がっていると、慌てたようにアラクネ、もとい相棒がやってきて、俺をお姫様抱っこした。
 赤い瞳が心配そうに俺を見つめてくる。
 ちょっとこれはまずい。
 俺は全裸だし、彼女も全裸だ。
 柔らかい温もりと感触が直に伝わってくるのである。

「だ、大丈夫だから、下ろしてくれ。色々と限界だから」

 俺のムスコが「出番か?」と訊いてきている。
 出番じゃない。俺の勘違いだ。

「え? あ、はい……」

 相棒の視線が下半身に移ると、彼女は俯きながら俺を床に下してくれた。
 俺は情けなくなりつつ、脱いだ服を着ていく。
 そうして服を着てしまうと、暫く気まずい沈黙が辺りに流れた。

「「……」」

 先に沈黙を破ったのは相棒だった。

「そ、その、マスター、服を貸して頂けないでしょうか。常に全裸だったのであまり気にしていなかったのですが、マスターの裸を見た辺りから、何とも落ち着かなくなってしまいまして」
「あ、ああ、もちろんいいよ。俺のしかないけどな」

 俺はプラスチック製の箪笥から半袖のTシャツを取り出し、彼女に手渡した。
 これが夢じゃないと気付いてから、なるべく彼女の体は見ないようにしている。

「ありがとうございます。着替え終わりました」

 視線を上げると、そこには俺のTシャツを一枚着ただけの、この世のものとは思えないほど美しいアラクネがいた。俺が着てても下半身まで隠れるものを選んだため、彼女の下半身もちゃんと隠れている。

「そ、それで、マスター。私に何が起きたか説明してもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ、頼む」

 何ともぎこちない空気が流れるが、あんなことがあった後だ。仕方ない。
 俺が百パーセント悪いが、この事態に理解力が追い付く奴なんて、いるわけがないのだ。そう、俺は悪くない。

 相棒は一つ咳払いをすると、背筋を伸ばし、凛とした声で語り始めた。

「ベッドの中で就寝していた時のことです。突如頭の中に女性の声が鳴り響いてきました。初めは『何を馬鹿な』と聞き流していたのですが、『額に手を』と言われた時に、自分の体にマスターと同じ手があることに気が付いたのです。どうやら眠っている間に、私はこの姿になってしまったのでしょう。あ、それと、その時にこのようなものが出てきました」

 相棒はそう言って、自分の胸元に手を入れ、俺のと全く同じスマツを取り出した。
 それにしても、なんていうところにしまっているのだろう。

「それなら俺も持ってる」

 俺もスマツを取り出して彼女に見せた。

「つまり、マスターにも同じ現象が?」
「ああ、俺どころか、もしかしたら全世界かもな」
「なるほど、そうかもしれませんね」

 あの声は確か『地球の皆さん』とか言っていた気がする。
 もしかしたら、全世界に向けて、それぞれの言語で語りかけられた言葉だったのではなかろうか。

 それにしても、今の話では結局彼女がなぜ姿を変えたのかは、わからないままだった。
 考えられるのは、もちろん一つだ。地球が異世界に召喚され、異世界と融合しているという話しかない。

「ところで、私は気付いたことがあります」

 俺の思考をぶった切って、相棒が声を掛けてきた。顔が今までで一番真剣だ。

「な、何だ?」

 思わず唾を飲み込む。

「私には、……名前がありません!」

 そんな事かよ!

 声に出してしまいそうになるが、我慢する。
 俺がずっと軍曹と呼んでいたせいもあるだろうし。

「じゃあ、自分で考えたら?」

 言った途端、彼女の顔が赤くなる。
 何だろう、怒っているらしい。
 それだけではなく、目の端に涙まで溜ってきた。

「私なんて、……どうでもいいのですね。さっき襲ってきたのも、そういう事だったのですね」
「違う違う違う! 違うから! ほら、名前なんて大事なもの、自分で考えるのが一番だと思うんだよね! あ、あと、さっきのはあれ、夢だと思っててさ。現実だってわかってたら、あんな酷い事しなかったから!」
「本当ですか? じゃあ、私はマスターに名前を付けて欲しいのですが」
「あ、ああ。わかった」

 俺が承諾すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 こうしてみると、綺麗なだけじゃなく、こういった仕草も可愛らしく思える。
 だが、参った。名前なんてそうそう浮かんでこない。

「え~と、じゃあ、糸乃は?」

 咄嗟に浮かんだにしては我ながら悪くないと思う。
 蜘蛛だし、糸が掛かっていて。
 あ、だけど、こいつは軍曹だ。軍曹に糸のイメージはないな。

「うーん、悪くはないのですが、その名前は何と言うか、和服美人を連想させられます。もっと、騎士らしいイメージの名前がいいですね」
「和服美人って……。何でそんなこと知ってんの?」
「どうやら私の知識は、マスターの知識を共有しているようです」

 なるほど、それは便利、なのかどうかはわからないけど。
 ということは、名前も適当には決められないということか。

「じゃあ、紅姫」
「姫は嬉しいですが、騎士っぽさが皆無なのですが。それに、また和ですし……」

 ぐぬぬ、難しい。

「……蜘蛛子」
「却下です」
「レッド」
「却下」
「糸女」
「……溶かしますよ?」

 こわっ!

 下の蜘蛛が歯をキチキチと鳴らして威嚇してきている。
 そういえば軍曹、というか、蜘蛛って獲物の体内に消化液を注入して、溶かしながら食べるんだったか。
 だけど俺は悪くない。一生懸命考えている。それをことごとく却下する相棒が悪いんだ。

「だってさぁ、注文が多いんだもんよ。折角考えてもケチ付けて来るし」

 俺が居直って不貞腐れると、彼女は狼狽え始めた。

「え、え……、ちょ、ちょっと待ってください。その、レッドは惜しい線行っていると思うんです」

 要するに日本語が嫌ならしい。

「スパイダーガール?」
「……遠のきました」
「レッドリボンちゃん」
「ネタに走りましたね?
 でもそうですね、私のこの赤い髪は結構特徴がありますからね。そうだ、ルージュなんて良いんじゃないんですか?」
「いや、お前がそれでいいなら、俺は何も言わんけど……」
「では、今日から私はルージュです!」

 相棒、改めルージュは、キリっとした表情で微笑んでみせる。

 それにしても、テンプレをぶっ壊して結局自分で決めるのか。
 普通こういうのは、俺が決めるのがテンプレだろう。
 なんだったんだ、今までの時間は……?

「そ、それで、ですね、マスター」

 さっきまでのキリっとした表情は、あっという間に霧散して、何やら顔を赤くし、俯いてルージュがもじもじとしている。
 なんというか、感情表現の豊かな奴である。

「なに?」
「マ、マスターは、そ、その、私と、そ、そそ、そういうような関係を望んでいるのでしょうか?」

 そういうような関係って何だ、と一瞬考えるが、彼女の様子を見ていればすぐに得心が行く。
 男と女の関係ってことだろう。
 唐突にそんなことを言い出したのは、いきなり襲い掛かった俺のせいだとは思うが。

「も、もし、お望みなのでしたら、わ、わわ、私も吝かではありません。ただし、その……」

 ルージュの言いたいことに何となく察しがついてしまう。
 彼女は俺のことをよく知っているのだ。多分、誰よりも。

「ちゃんと奥さんと別れてからにしてくださいね」

 彼女ははにかんだような笑顔を浮かべてそう言ったのだった。

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