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四、翅鳥

(五)

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 「このようなところで、何をしているのです、ジェス」

 「は、母上……」

 突然現れた、ここに似つかわしくない、きらびやかな女性。その付き従う人の多さ、豪華すぎる衣装、そしてなにより、厳しすぎる声色に、独楽を持ったままのジェスが、ビクンと体を震わせた。
 ジェスだけじゃない。膳夫たちは硬い土の床に額をこすりつけるように頭を下げて恐縮しきり。もちろん、オレだって――ジェスの母上って言ったら皇后様じゃねえか! ってことで膳夫たちほどじゃねえけど、女性らしく腰をかがめて頭を下げる。

 「何をしているのか、訊いているのです、ジェス」

 答えない息子に、皇后が一層低い声で訊ねた。

 「ご、ごめんなさ……」
 「謝罪は結構」

 ジェスの言葉を皇后がピシャリと遮った。うわ、容赦ねえ。

 「アナタはこの国の将来を担う大切な皇子なのですよ。このような場所に通い詰めるよりほかに、もっとやるべきことがあるでしょう」

 正論。
 正論かもしれねえけど、うつむいて唇を噛んだジェスを見てると、切なくなってくる。

 「このような卑しい所。さあ、帰りますよ、ジェス」

 息子の答えなど聞かない。一方的に叱り続ける皇后。ってか、この母親も厨房を「卑しい」って言うのかよ。
 おそらくだけど、ジェスの周りの連中は、膳夫司を汚い場所、膳夫を卑しい身分の者と普段からバカにしているだろう。身分の高い人は、料理はおろか、自分が飲む茶すら淹れたりしないから。ルーシュンは、自分のことは自分でするけど、基本、身分ある人は衣に袖を通すことすら誰かにやってもらう。だから、膳夫だけが卑しいんじゃなく、働かねばならぬ者はすべて卑しいって認識なんだろう。ムカつくけど。

 「――ジェス」

 そして、自分の息子にまで居丈高。すっげえムカつくけど――我慢、がまん。オレの立場からは、皇后に向かってどうこう言うことは出来ない。ずっと頭を下げてるしかない。
 ジェスは、叱られて萎縮しちまったのか、一歩も動かない。独楽を抱えてジッとうつむいたままだ。
 すると、皇后が軽く鼻で息を吐いて、近くにいた年配の侍女に目で指示を出す。一つ頭を下げて厨房に入ってきた侍女たち。ジェスを取り囲み、ここから出ていくことを促すと――え?

 ポイッと投げ捨てられた独楽。それが弧を描き、火のついた竈のなかに……。

 「――――――ッ!」

 とっさに伸ばした手。でも間に合わず火のなかにボトッと落ちた独楽。

 「クソッ! って、ゥアチッ!」

 「リュカ!」

 ジェスが叫ぶ。
 
 「だ、大丈夫。独楽は無事」

 竈のなかに手を突っ込んで取り戻した独楽。まだ調理前の熾火だったのと、すぐに取り出したから、独楽に火はついてない。熱かったけど。手の中の独楽ごと、フーフーと息で冷ます。真っ赤になったオレの手。火傷しちまったかな。手、痛いし。
 それでも、強引に連れ去られてくジェスに「大丈夫だ」と笑いかける。本当はすぐにでも冷たい水に手を浸したいところだけど、そうするとアイツが心配するから、笑って平気なふりをしてジェスを見送る。

 「だ、大丈夫ですかい」

 嵐のような皇后たちが去ってからしばらくして、膳夫が声をかけてきた。

 「大丈夫じゃねえ。イテテテ……」

 「こ、これをっ!」

 火傷に慣れているのか。膳夫の一人が盥に水を汲んできてくれた。独楽ごとその盥に手を突っ込む。あ~、水が冷たくて気持ちい~。
 しばらくこのまま冷やして、痛みが治まったら、軟膏を塗って。確か、行李のなかに入れてあったよな。
 あ、それより独楽だ、独楽。よし。どこも焦げてない。ついた煤を指でこすると、元の木地が見えた。火にそこまで勢いがなかったことが幸いしたな。すぐ取り出したし。
 オレの手も火傷はしたけど、問題なく動くし。あー、でも衣の袖焦がしちまったな。煤がついちゃったし。オッサン、怒るかなあ。面倒だなあ。

 「――リュカ!」

 へ?

 「皇子? どうしてここに」

 厨房に飛び込んできたのは、ルーシュン皇子。その後ろにはオレの行李を持ったオッサンと膳夫。あ、オレが大変だってことで呼びに行ったのか。

 「大丈夫だって。こうして冷やしておけば問題ないし。独楽だって無事だぜ?」

 「バカッ!」

 叩きつけるような皇子の声。
 おい、バカってなんだよ。バカって。

 「そんな火傷を負ってまで独楽だと? バカだバカだと思っていたが、そこまでバカだと思わなかったぞ」
 
 「うるせえな。この独楽だって大事だろうが」

 バカバカ言われて、口がゆがむ。

 「この独楽はなあ、ジェスが楽しそうに練習していた独楽なんだぞ? お前と勝負をするんだって、負けないぞって。それに何より、兄ちゃんであるお前が贈った大切な独楽じゃねえか」

 言葉をかわすことも、一緒にいることもない兄弟。その兄弟をつないだのがこの独楽だ。

 「それを燃やされてたまるかってんだ」

 「――リュカ」

 皇后のあの勢いじゃ、二度とジェスはここに遊びにこれないかもしれない。それでも、この独楽は失くしたくない。

 「だからって、竈に手を突っ込むのはいかがなものかと思いますよ、リュカ」

 ドスンと行李を机の上におろしたオッサン。あ、結構怒ってる感じか?

 「熾火だったし、いけるかなって……」

 アハハハハ。
 あの時は無我夢中で、火勢なんて気にしてなかったけど。思えばかなり危ないことをしたんじゃねえか、オレ。

 「『いけるかな』じゃありませんよ、まったく」

 言いながら、オッサンが行李を開けた。

 「薬を貸せ。僕がやる」

 へ? 皇子が?

 驚いたけど、中から火傷用の軟膏を出してもらうと、素直に手当も頼んだ。
 とっさに独楽を掴んだのは利き手である右。自分で軟膏を塗るのは難しい。盥から手を出して、痛みが引いたことを確認すると、皇子に軟膏を塗ってもらった。
 オレの右手全体に、黙々とベッタリ軟膏を塗り込んでいく皇子。

 ――どうしてここまで。

 かすかに聞こえた声。
 その声に息を吐き出すと、目の前にあった皇子の頭を撫でるように軽く叩いた。
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