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4.この感情に名前があるなら

(三)

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 「先輩!」

 文学部棟を出たところで、いつものようにかかった、元気の良すぎる呼び声。

 「……氷鷹」

 呼び声だけじゃない。人混みのなかから、ヌッと現れ、こちらに駆け寄ってくる姿。その姿に、なぜかドキンと胸が跳ねる。
 胸だけじゃない。自分の表情が緩んだことを、なんとなく実感する。
 氷鷹だ。氷鷹がオレに近づいてくる。
 それが、どうしようもなくうれしくて、どうしようもなく感情が止められない。

 「今から昼飯っすか?」

 「そうだけど……」

 「じゃあ、いっしょに食べましょうよ!」

 ああ。変わらない。
 その笑顔も。その人懐っこさも。
 何もかも変わらない。以前と同じ氷鷹だ。
 けど。

 「あ、いたいた。陽翔く~ん」

 同じように文学部棟から出てきたなかから、ひときわ甲高い声が聞こえた。

 「……梅咲さん」

 そう言えば、彼女も文学部だったか。
 バイト中に本人から聴いた、彼女の情報。
 オレと同じ文学部、オレと違う英語文化学科の一年生。
 そうか。氷鷹がここにいたのは、彼女を迎えに来たからか。
 ボコボコと沸き立つような感情が、シンっと冷えた氷のように鎮まっていく。
 彼女を迎えに来て、たまたまオレを先に見つけたから声をかけてきた。そういうことか。

 「ああ、佐波さんも。いらしたんですね」

 氷鷹のように走ってきたわけじゃない。女の子らしく歩いてきた梅咲さんが、オレたちに近づいてきて、ようやくといった感じでオレもいっしょにいることに気づき、驚く。
 おそらくだけど、氷鷹の存在に気づいて、手を振ったけど、そばにいたオレは見えてなかったんだろう。――恋は盲目ってヤツか。

 「二人とも、これからお昼ですか?」

 え?
 一瞬、言葉が喉につかえた。
 「そうだ」と言ったらどうなる? 
 その場合のシュミレーションが、一気に脳を駆けていく。

 「悪い。オレは今日は〝帰り〟だ」

 「え? 先輩?」

 氷鷹が驚く。
 だって、今日は木曜日。以前なら、氷鷹といっしょに飯食って、午後の講義を受けてた。
 オレの時間割を、なんとなくだろうけど把握しているんだろう。だから「帰り」という言葉に驚いている。

 「悪いな。来週までに仕上げなきゃいけない課題があるんだよ」

 だから、今日は午後の講義を休んで課題をやるんだ。――嘘だけど。
 課題はあるけど、講義を休んでまでやらなきゃいけない量じゃない。期限も来週じゃない。
 けど。

 (そういうことにしておいてくれ)

 心のなかで念じる。

 「悪いな。飯は二人で食べてくれ」

 軽く手を上げ、二人に挨拶する。
 三人で食べる必要はないだろ? 三人でいて、氷鷹たちの恋人イチャイチャを邪魔する気もなければ、見せつけられる義理もない。
 そういうのは。そういうのは、オレのいないところでやってくれ。

 「じゃあな」

 急ぐ必要もないのに、走ってその場を去る。
 せっかくなんだし、いっしょに飯食って、カップル成立した祝いに、なにか奢ってやればいいのに。
 一瞬。ほんの一瞬、そんなお人好しな行動が思い浮かぶ。奢るだけじゃない。二人のノロケなんかも聴いてやって。「よかったな、コノヤロ」みたいな感じで、氷鷹をひやかして。
 きっと。
 きっと、本当の兄なら、そうするんだろう。「弟よ、こんないいカノジョができて、兄ちゃんはうれしいぞ」って。「こんな頼りない弟だけど、仲良くしてやってくれ」って。
 でも。
 でも、オレは兄じゃないから。
 まだ、そんなふうに祝福できる気分じゃないんだ。

 どうして?
 友達でも、「よかったな」「ラブラブじゃん」ぐらいは言えるだろ?

 渦巻く感情のなかで、もう一人のオレが問いかける。
 兄じゃなくても、友達なら、その幸せを祝福できるもんじゃないのか?

 (わからない。わからないんだ)

 自分の感情が。自分の行動が。
 なぜ、いっしょにいない? どうして、こんなに必死に走って逃げ出す?
 自分で、自分がよくわからない。

          *

 ピッ、ピッと、無機質な音を立てる機械。オレがサッカーとして、商品を機械に登録してる音。
 狭いレジのなか、隣に立つのは梅咲さん。
 土曜日の午前。
 お客の多いこの時間帯に、レジ研修なんてやってられない。氷鷹のときのように、オレは梅咲さんの隣に立つのではなく、商品のレジ登録を自分でやる。梅咲さんには、最後の会計部分だけ任せた。まだまだ仕事を教えきったわけじゃないけど、金銭授受ぐらいなら、彼女でもできるだろう。

 「以上7点で、千二百八十二円です」

 全部機械に通し終え、金額をお客様に伝える。が。

 (まだか)

 視線を左に動かす。
 そこには、ようやく、前の客からお金を受け取った梅咲さんがいた。お客様が、細かいお金をごゆっくり出されてるのは気づいてたけど、まさか、ようやく受け取る段階とは。

 「申し訳ございません。今しばらく、お待ち下さい」

 自分の向いに立つお客様に頭を下げる。
 わかってる。渋滞の原因は、梅咲さんでもオレでもなく、先のお客様があっちからこっちから財布を出して(銀行の封筒ってのもあった)、そこから小銭やらお札やら出してたから。
 なぜ、あんなふうに財布を分けるのだろう。端数を出したい気持ちはわかるけど、財布を分ける理由はわからない。

 「おまたせしました~。こちらが、2リットルのお水のケースになります」 

 目の前の客の、その次。カートを押してたお客様にお水ケースを持ってきた店員。氷鷹だ。
 今の時間帯、オレと梅咲さんはレジだけど、氷鷹は品出しとなっている。本当は氷鷹もレジに入って欲しいところだけど、あいにく、レジの数が足りない。現在、レジパートさんも入って、レジはフル稼働している。氷鷹は、こういう荷運びや商品案内も含まれる「品出し」が割り当てられていた。

 「下に置かせてもらっていいですか?」

 断りを入れてから、ドスンとその段ボールをお客様のカート下段に置いた。

 「ありがとうねぇ。アタシ、腰が痛くてねえ。助かったわ」

 「いえ……、では」

 軽くお客に挨拶をして立ち去る氷鷹。
 その氷鷹と一瞬だけ目が合う。
 ほんの一瞬。だけど、すごく長く、スローモーションのように感じられる時間。
 どうしてオレを見た? たまたまか? それとも何か言いたいことでもあるのか? 自分のカノジョといっしょに仕事してるなんてとか、嫉妬してるのか?
 わからない。
 わからないままはイヤだ。
 正解がほしい。
 でも、その正解は、オレの欲しい正解じゃないかもしれない。だとしたら、このままのほうがいいのか?

 「……佐波さん」

 梅咲さんから軽く呼びかけられ、薄く長く伸ばされていた思考から現実に戻る。

 「すみません。お待たせいたしました」

 軽く次のお客様に頭を下げる。
 そうだ。
 今は、そんなことを考えてる時じゃない。
 今は。今は仕事をこなさなくては。

 「ちょっとそちらのお水のバーコード、読ませてもらいますね。ああ、そのままで結構ですよ」

 段ボールを持ち上げようとするお客様を制止して、ハンドスキャナー片手に、レジ台越しにグッと体を伸ばす。カート下段に置かれた水の段ボール。オレがスキャンしやすいようにしたのか、それともたまたまか。バーコードは読みやすい位置にあった。

 (レジのしやすいように置いたのなら。後で褒めておいたほうがいいか――って、待て)

 後輩のそういう心配りを褒めるのはいいけど、それをいつ、どのタイミングで言うんだ、オレ。
 今日の就業時間。
 バイト一括りみたいな感じで、オレも氷鷹も梅咲さんも同じ時間帯。だから、今日も氷鷹は梅咲さんといっしょに帰るだろう。
 それを、「さっきの水ケース、助かったぞ」みたいなことを言うためだけに邪魔しに行くのか?

 (なんだよ、それ)

 そんなのただの意地悪じゃねえか。
 意地悪。やっかみ。嫉妬。妬み。
 カノジョができた氷鷹にムカついてるのか。それとも、オレを構わなくなった氷鷹に腹を立ててるのか。
 自分で自分がわらかない。
 ただ、このままだと、自分が自分の一番嫌いなヤツになる。そんな気がする。

 (オレも、カノジョとか作れば、変わるのかな)

 そしたら、氷鷹にも「カノジョできてよかったな」と笑えるのかな。
 梅咲さんにも「コイツをよろしくな」って笑えるのかな。
 でも。

 (人生初の恋人を、そんなもののために作っていいのか?)

 恋愛なんてしたことないからわかんねえけど、恋人ってのは、そんなことのために作るもんじゃないと思う。恋人ってのは、本当に相手が好きで好きでたまらなくなって、それで互いを想う合うようになって、それで初めて「恋人」って呼べる。そういうもんだろ。
 自分のこのモジャモジャに絡まった感情を解きほぐす、元の自分に戻りたくて作るものじゃない。

 (サイテーだ。オレ)

 「以上13点で、二千五百八十円です」

 なるべく気持ちを切り替えて、明るく金額をお客様に伝える。
 商品をレジに通したら、金額がわかるように。何をどうしたらいいのか、自分の気持をスキャンして、答えが目に見えてわかればいいのに。
 気持ちの正解が見えない。
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