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5.あの夜のこと

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 どうしてそこまで入れ込むんだ。

 それは、自分でもわからない。
 ただの一回、それもわずかな時間一緒に過ごしただけの女性だ。そんな相手をいちいち追いかけていたら、社交界でなどやっていけない。
 晩餐会に舞踏会。サロンにクラブ。人と出会う場所はいくらでもあり、人と交わる機会は日常に溢れている。
 特に自分のような郷紳ジェントリの場合、仕事の必要性からいろいろな人間と関わり合いを持つ。当然、女性を紹介されたり会話を交わすことも当たり前のことになっている。
 だから、あの夜会で出会ったのだって、いつもと同じことで、誰の連れであろうと表面上の挨拶を交わし、必要とあれば一曲踊って仲良くなっておく。それぐらいでよかったはずだ。

 それをまさか、こんなところまで追いかけてくるなんて。

 自分でもあきれている。
 大伯母上と一緒に夜会に訪れた時、その時はさほどどうという印象は持たなかった。どちらかというと、あの大伯母上が夜会を訪れるなど珍しいな、と別のことに気をとられていたかんじだ。
 大伯母上と挨拶を交わした時も、静かな控え目な女性だなと思っただけだった。
 場慣れしていないというか、終始うつむき加減で、誰とも話そうとしない。妙齢の女性なら、もっと明るく振る舞うものではないのか。結婚は親が決めるものだとしても、ある程度、恋を求めて参加するのが普通だ。
 実際、自分の周りにいる令嬢たちはそうだったし、大伯母がわざわざ連れてくるぐらいなのだから、そういう相手を捜してのことだと思っていたのだ。
 しかし、彼女はその存在を隠すかのようにカーテン近くに佇み、それどころか、逃げるようにバルコニーへと姿を隠した。
 僕と視線が交わったその直後に。
 いつもとは違う、彼女の反応に単純に興味を持った。
 大伯母と一緒に来るぐらいだから、僕と知り合いになりたいんじゃないのか?
 別に自分にうぬぼれているわけじゃないが、今まで散々そういった事例に出くわしてきた。
 爵位こそないが、裕福な郷紳ジェントリの息子。貿易商として名をはせる、ラムゼイ家の嫡男。遊ぶにしても結婚するにしても、それなりの金と立場を持っている。これからの時代、財産のない名誉だけの貴族より、遊んで暮らせるだけの金のある豪商のほうが望む生活を与えてくれる。そう判断する女性も少なくないのに。

 だからこそ気になった。
 だからこそ追いかけた。

 知り合いになって、そういう未来を求めて来たんじゃないのか?
 それとも、恥ずかしがってこちらを惹きつける作戦か?
 そのあたりを見極めてやろうとバルコニーへ出たのだが、彼女の思惑はそのどちらでもなかった。
 声をかけられ、大いに戸惑っている。
 少しでも隙を見つけて逃げ出そうと必死だ。
 彼女をダンスに誘ったのは、その反応がどう変化するか見てみたかったから。
 必死に扇で顔を隠す彼女の素顔を見てみたかったから。
 ダンスの間は、体を密着させ、顔を拝むこともできる。
 そんな魂胆も含めて誘ったんだが。

 ―― してやられた。

 わずか一曲だけだったが、最高のひとときだった。
 音楽に合わせて軽やかにステップを踏む彼女は、まるで妖精のようだった。ドレスが広がって、彼女を華やかに彩る。
 少し強引なリードをすると、ちょっとだけ驚いたような顔をするものの、それでもちゃんとついてきて、かすかにほほ笑む。
 ダンスが苦手……なんて謙遜していたが、彼女は大広間の真ん中で踊っても恥ずかしくないほど、とても上手だった。
 彼女が動くたびに、フワリと漂う花の香り。うつむいたままだった視線は、いつの間にか上を向き、僕を捕らえることも多くなっていく。
 そのどこにでもあるような茶色の、いや、チョコレート色の瞳は、どうしようもなく魅力的で、艶やかな黒髪は美しいとさえ思えた。
 曲が終わるのが惜しい。そう思った相手は、彼女が初めてだった。

 もっと話をしてみたい。
 もっと彼女を眺めてみたい。
 もっとその声を聞いてみたい。
 もっと彼女を知りたい。
 そして、もっと僕のことを知って欲しい。

 自分でも、どうしてそこまで入れ込んでしまったのかはわからない。
 ただもう一度だけ会って、この気持ちが本物なのか確かめたい。
 そして出来るなら。
 彼女のその瞳に僕を映して、彼女のその柔らかな声で僕を呼んで欲しい。
 それだけで、天にも昇るような心地になれるだろう。

*     *     *     *

 困った。
 まさか、そこまで彼があの夜の私に入れ込んでいるなんて。

 ―― 狼王ロボの妻、ブランカのように。
 ―― 彼女なしでは、生きていけない。

 どうしてそこまで言えるの?
 夜会で、わずか一曲踊っただけの相手よ?

 名も名乗らず、逃げるように立ち去った女なんて。
 久しぶりのダンス。それも誰もが憧れるであろう人、キース・ラムゼイに誘われて、断り切れなかった私のせいだわ。
 奥さまを訪ねて、時折ここへ来ていた彼。その彼に憧れていなかったといえば、ウソになる。
 柔らかな少しウェーブのかかった金の髪。不思議な感じのする灰紫色の瞳。
 気取ったところもなく、どちらかというと誰にでも優しく接してくださる人柄は、社交界だけでなく、他の場所でも人気が高かった。
 だから、あの夜会でダンスに誘われた時、本当は舞い上がりそうなほどうれしかった。
 これが以前の私、子爵家令嬢としての私だったら、どれだけ幸せだったか。
 髪を染めて、誰かに見つからないか気にしながら参加したのではなく、従僕フットマンに名を読み上げられて、あの会場に入っていたら。
 ハルトフォード子爵令嬢、レイティア・アシュリーとして。堂々と。彼につり合うだけの存在として。
 って、ダメね。そんな夢物語、もしもの話を思っていても仕方ないわ。
 今の私は、奥さまの恩情にすがって生きる、ただのメイド。
 事業に失敗して破産した挙句、父さまは亡くなり、頼るべき親戚もいなかった。

 ―― ステキな人と恋をして、幸せな人生を歩んで欲しい。

 奥さまはそうおっしゃってくださったけれど。
 なんの資産も後ろ盾もない、零落した私が彼に相応しいとは思えない。
 髪を染めるのをやめ、服装を改めただけで、彼は私に気づかない。それほどまでに、今の私は彼に相応しくないのだ。だから、気づかれない。
 子爵令嬢ではない。ただのメイドだから。
 だから、もうこの世のどこにもいない、子爵令嬢を捜すようなことはやめて、もとの世界に戻って行って欲しい。
 でないと、何度だってありえない夢物語を思い描いてしまうから。
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