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巻の一、落ちてきたのは皇帝陛下?

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 「――面をあげよ」

 その声に、ビクッと体を震わせた。
 けれど、その命に従いたくても、体がうまく動かない。

 ――はようせい!

 隣に控える宦官が命じられたとおりにせよと、小声でせっつく。早く、早く顔を上げて、相手と視線を交わして。

 「ふむ。緊張しておるのか」

 シュルッと流れるような、衣擦れの音。
 床に膝をつき、うやうやしく袖の中で手を合わせて頭を下げ続ける、作揖の礼のまま動かない[[rb:里珠 > リジュ]]の代わりに、壇上の男が動いた。

 「そう、怯えずともよい」

 里珠リジュの前に男がしゃがむと、里珠リジュの顔を持ち上げ、石畳しか見ていなかった視線を自分に向けさせる。

 「やはり、ソナタだったな」

 目線が合った途端、破顔した男。

 「ル……如飛ルーフェイ

 胸の奥、心臓が不自然に大きく跳ねた。

 「そうだ。久しぶりだな、里珠リジュ。あまりに美しく着飾っておるので、誰だかわらかなんだが……」

 男が、スッと里珠リジュの手を取る。

 「この手は誤魔化せぬ。機織りに馴染んだこの手の匂いは。里珠リジュ、紛うことなき、余の陰陽の乙女の手だ」

 取った手の甲に、チュッと口づけ、男がいたずらっぽい笑みを浮かべた。

*     *     *     *

 男、如飛ルーフェイと出会ったのは、半年前。
 
 ガラガラ、ドガッ、バサッ。

 いつもと同じように家の中で機織りをしていたところに、腰が浮かび上がりそうなほど驚かせる、大きな物音が庭に響いた。

 「なに? いったいなんなのっ!?」

 驚きすぎてどうにかなりそうな胸を押さえ、外に向かう。庭は、周囲の建物に囲まれ、洗濯した衣を干すには不適だけど、染めた糸を干しておくにはちょうどいい。今朝は暖かく、いい風も吹いている。昨日から染めておいた糸を干し、後は乾くのを待つだけだったのだけれど。

 (猫でも落ちてきたのかしら)

 建物に囲まれていると、まれにそういう事が起きる。ケンカに負けた猫が隣家の屋根から転げ落ちてきた。今の音もそういうことなのかしら。それにしては大きな、派手な物音だったけれど。
 キイッときしんだ音を立てて、戸を開く。猫が落ちてきたのなら、糸に絡まってなければいいのだけれど――って。

 「きゃああぁっ! ちょっ、えっ!? ちょっとっ!」

 朝から庭で干し続けていた色とりどりの糸。それに絡まるようにして転がっていたのは猫じゃなかった。

 「や、やあ。申し訳ない……」

 糸に絡まり地面に転がるもの。――年若い男。
 男が、軽く手を上げ挨拶をする。糸に絡まったまま。その姿は、猫なら愛らしいが、人間だとかなり滑稽。糸に操られる傀儡人形みたい。
 それに。

 「糸がっ! 糸がぁっ!」

 せっかくキレイに染めて干しておいた糸がっ!
 落ちてきた男を受け止めた糸。そのまま男に絡みつき、地面に押しつぶされている。染めたばかりの糸。大事な大事な糸。それが男と一緒に土まみれ。

 「ちょっと! 早くどいて!」

 これ以上汚してほしくない。汚れてほしくない。

 「そう、したいのは、やまやまなんだが……」

 男だって、そんな間抜けな格好でいたくないのだろう。糸から脱出しようとするが、動けば動くほど糸は男の体に絡みつき、動いただけ糸が土に塗れる。

 「あ」

 短く男が声を上げる。動いた勢いで、何本か糸を切ってしまったらしい。

 「わたしのっ、わたしの糸がぁっ……」

 信じられない。
 わたしの大切な、大切なキレイに染め上がった糸が。機織りで使うのを楽しみにしていた糸がっ!

 「お、おいっ!」

 グランと目の前が回る。
 昨夜遅くまで行っていた染色作業で疲れていた体は、驚きと衝撃に耐えられず、意識をふっ飛ばした。

          *

 「――気がついたか?」

 その声に、戻ってきた意識が一気に覚醒する。
 ボンヤリとあたりを映すだけだった目に、力が戻って来る。
 ここは? 自分の家。そして自分の床の上。どうやら、自分は床に寝転んでいるらしい。
 そして、さっきの声は? 家に他に住人はいない。家にはわたししか住んでいないし、訪ねてくるような友達もいない。――じゃあ、誰?
 ガバっと、勢いよく体を起こすけど。

 「――――っ!」

 「ほら、そんな無理をしちゃいけない」

 グラッと揺れた体。それを受け止める大きな手。そして、いたわるような声。

 「キミは、さっきまで気を失ってたんだ」

 「……アナタ、誰?」

 まだグラグラする頭を自分で押さえ、問いかける。
 誰かわかんないヤツがそばにいて、はいそうですかと、もう一度横になるなんてできない。

 「オレか。オレは、そうだな……、[[rb:如飛 > ルーフェイ]]とでも呼んでくれ」

 いや、そういう意味で訊いたんじゃない。
 アンタの名前を聴きたくて、尋ねたんじゃない! 名前を知ったからって、「[[rb:如飛 > ルーフェイ]]さんね」で安心するわけない。
 名前を知ったとしても、コイツは見ず知らずの男。
 人ン家の庭に落ちてきた――って。

 「あ――っ!」

 「ななっ、なんだ、いったいっ!」

 わたしの上げた声に、如飛ルーフェイと名乗った男が顔をしかめる。けど。

 「あ、ああっ、アンタっ! わた、わたしの糸っ、糸っ!」

 「糸ぉっ!?」

 「そうよ! アンタが絡んでた、あの糸っ!」

 体はまだグラグラする。けど、そんなことどうでもいい。
 気になるのは、コイツが引っかかってた、わたしの大切な糸!
 あの糸は、どうなったのっ!

 「ああ、あれなら……」

 わたしに掴みかかられ、困惑してた男が、視線を背後にやる。追いかけて、わたしの視線もそっちに向く。

 「あ、ああっ……」

 キレイに。キレイに干してあったはずなのに。
 絡まり、汚れ、ゴチャッと山積みされた糸。

 「すまん。なるべく切らないように外したんだが……」

 男を突き飛ばし、糸の山に駆け寄る。泥は少し払ってあるし、ある程度絡まりは直されてるみたいだけど。だけど……。

 「こんなの、使い物にならない……」

 泥を落とそうにも、水で洗ったりしたら、染めも落ちてしまう。もう一度染めたとしても、染めムラができて、使い物にならない。それに、ここまで絡んでいると、ほぐして直そうにも、糸は切れてしまう。(実際、すでに何ヶ所か切れてるし) 切れた糸では布は織れない。

 「せっかく。せっかく手に入れた、いい絹糸だったのに……」

 これほどの上物、めったに手に入らない。
 糸を手に入れて以来、ずっとこの糸で織ることを楽しみにしてたのに。
 こんなことなら、先染めで織る〝織り物〟じゃなくて、反物にしてから染める〝染め物〟にしておけばよかった。後悔、先に立たず。
 
 「すまない」

 わたしの後ろで男がうなだれ、謝罪する。
 けど。

 「すまないで済むなら、刑吏なんていらないわよっ!」

 叫ぶ声が震える。
 顔が熱くなって、泣きそうになってることがわかる。けど、絶対泣くもんか。なにがあっても、コイツの前では絶対泣かない。
 泣いたら負け――みたいな気分。
 泣くよりは。キッと睨みつけるように、男を見る。
 町のゴロツキよりは、いい格好をしている男。隣かどこかの屋根から転がり落ちてくるような、野蛮な印象はない――といいたいけど、コイツ、屋根から、ウチの庭に落ちてきたのよね。それも。わたしの大事な糸めがけて。
 気を失ったわたしを介抱するだけの優しさ――はいいけど、それにかこつけて、勝手に家に侵入してるし。
 背は高いし、いい顔立ちだとは思うけど、やってることは、ケンカして落ちてきた猫より質悪い。

 ――コンコン。

 不意に、家の戸が叩かれる。
 誰? と思いながらも、戸を開ける。そこに立っていたのは、刑吏の男たち。

 「すまないな。とある男を探してるんだが、この辺で見失ってな」

 それで、一軒一軒回って探してるのだろう。目の前にいる刑吏の後ろ、ウチの前の家にも、他の刑吏が尋ねてる様子が見られた。

 「えっと……」

 本当のことを言ってしまおうか。
 「その探してる〝とある男〟ってコイツですか?」って。「うちの糸に絡まり落ちてきたんですけど」って、つき出してしまおうか。一瞬、そんな考えを持つ。けど。

 「リージュっ」

 わたしの後ろから、腕を回してきた〝とある男〟そのものの[[rb:如飛 > ルーフェイ]]。

 「そんな男、いませんよ、刑吏さん」

 ねっ、とばかりに、後ろから、わたしに頬を寄せてくる。
 いや、ここにいる! ここにいるんだってば!
 言いたいのに、顎を持ち上げられ――。

 (ンッ、ンーッ!)

 言葉も息も、何もかも飲み込まれるような口づけをされた。

 「それより。せっかくのお楽しみの最中なんだから、空気読んでくださいよ」

 わたしを抱きしめたまま、いけしゃあしゃあと言ってのける如飛ルーフェイ

 「ようやく、彼女のお許しが出たとこなんです。俺と結婚してくれるって。だ、か、ら――」

 (ンッ、ンンッ、ンー、ンーッ!)

 適当な嘘を告げ終えると、また重ねられた唇。
 口を開け、息を吸おうとしてたのがアダになった。刑吏の前だっていうのに、男の舌がズルリとわたしの中に入ってくる。入ってくるだけじゃない。舌の先が、歯列をなぞり、わたしの舌に絡みつく。

 「ああ、わかったわかった。――邪魔したな」

 そんな男の態度に、呆れた刑吏が犬を追い払うように手で払う。
 男の目論見どおりの反応。
 その上。

 「怪しい男は知りませんが、さっき、ここに来る途中、知らねえ奴が走ってくのは見ましたよ」

 わたしの口腔を堪能した後、ペロッと舌なめずりして、如飛ルーフェイが言う。
 ウソつけ。

 「どっちに走っていった?」

 「あっちでしたかね。すごい速さだったので、チラッと見ただけですけど」

 「あっちだな。ヨシッ!」

 如飛ルーフェイのデタラメをアッサリ信じた刑吏さんたち。その指さしたアサッテの方めがけて走り去っていく。
 その間の、わたしは?

 「フッ、ア、フッ……」

 息を吸い、息を吐く。それだけで必死だった。
 口づけ(という名の口封じ)は終わってる。けど。なんか、息が……。

 「なんだ、そんなによかったのか?」

 膝から崩れ落ちそうな、わたしの体を抱きしめ直した如飛ルーフェイ
 ダメ。
 そんな耳元で話さないで。でないと……。

 「アッ……」

 ドクンと、心臓が大きく跳ねたのがわかる。体の末端にまで、ビリビリと細かいなにかが走っていく。

 「口づけだけでその反応。もっと試してみたいところだが――時間だな」

 言って、わたしの体を手放した如飛ルーフェイ。手放されたことで、力の抜けたままの体は、ズルズルと床に座り込んでしまう。

 「これを。糸の詫びに」

 全身に力が入らない。それは手も同じで、力を無くした手のひらに、押し付けるように載せられたもの。淡い緑の――玉環?

 「では、な」

 わたしの髪をひと掬いして、香りだけ味わうと、そのまま開けっ放しの戸から出ていった如飛ルーフェイ。家の前には、刑吏ではなく、この男の仲間が来ていたらしい。外に出た如飛ルーフェイと仲間の声だけが耳に届いた。

 なんなの。
 アイツは、何者なの?

 この玉環、おそらく翡翠。
 腹立ってたし、次の糸を手に入れたくて、サッサと売っ払っちゃおうって考えたんだんだけど、すぐにヤメた。
 だって。

 (わたしみたいな、ただの機織り女がこんな玉環を売りに出したら、怪しまれるじゃない)

 身分違い、持ち主違いな感じの玉環。
 これがもし、盗まれたものだったら? あの如飛ルーフェイってヤツが盗人で、あのとき家を訪れた刑吏は、盗人を追いかけてる――とかだったら?
 売りに出したことから怪しまれて、わたしまで捕まるハメになったら?
 わたしはただ平凡に平穏に、機織りをしていたいだけ。
 だから。
 だから、あの玉環も売らず、なけなしのお金で新しい生糸を買って、日々織り物に精進してたっていうのに。

 なんでここで、あの如飛ルーフェイに再会するのよぉぉぉっ!

 突然家に現れた、皇宮の使いだとかいう、中年のやたら柔らかい肉付きのオッサン。――宦官。
 わたしに会いたがってる方がいる。
 とかなんとかで、無理やり連れてこられたここ、皇宮。その豪華すぎる一室で。

 なんで、あの如飛ルーフェイが、ふんぞり返って座ってたのよぉっ!

 二度と会わない。会いたくないと思ってたのに! 
 夢でだって、会いたくない相手。忘れて、記憶から消し去りたい相手。
 その相手と、ここっ、こんな所で、こんなふうに再会するなんてっ!
 泣きたい。
 泣いて、「じゃ!」と回れ右して帰りたい。
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