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巻の一、落ちてきたのは皇帝陛下?
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「――面をあげよ」
その声に、ビクッと体を震わせた。
けれど、その命に従いたくても、体がうまく動かない。
――はようせい!
隣に控える宦官が命じられたとおりにせよと、小声でせっつく。早く、早く顔を上げて、相手と視線を交わして。
「ふむ。緊張しておるのか」
シュルッと流れるような、衣擦れの音。
床に膝をつき、うやうやしく袖の中で手を合わせて頭を下げ続ける、作揖の礼のまま動かない[[rb:里珠 > リジュ]]の代わりに、壇上の男が動いた。
「そう、怯えずともよい」
里珠の前に男がしゃがむと、里珠の顔を持ち上げ、石畳しか見ていなかった視線を自分に向けさせる。
「やはり、ソナタだったな」
目線が合った途端、破顔した男。
「ル……如飛」
胸の奥、心臓が不自然に大きく跳ねた。
「そうだ。久しぶりだな、里珠。あまりに美しく着飾っておるので、誰だかわらかなんだが……」
男が、スッと里珠の手を取る。
「この手は誤魔化せぬ。機織りに馴染んだこの手の匂いは。里珠、紛うことなき、余の陰陽の乙女の手だ」
取った手の甲に、チュッと口づけ、男がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
* * * *
男、如飛と出会ったのは、半年前。
ガラガラ、ドガッ、バサッ。
いつもと同じように家の中で機織りをしていたところに、腰が浮かび上がりそうなほど驚かせる、大きな物音が庭に響いた。
「なに? いったいなんなのっ!?」
驚きすぎてどうにかなりそうな胸を押さえ、外に向かう。庭は、周囲の建物に囲まれ、洗濯した衣を干すには不適だけど、染めた糸を干しておくにはちょうどいい。今朝は暖かく、いい風も吹いている。昨日から染めておいた糸を干し、後は乾くのを待つだけだったのだけれど。
(猫でも落ちてきたのかしら)
建物に囲まれていると、まれにそういう事が起きる。ケンカに負けた猫が隣家の屋根から転げ落ちてきた。今の音もそういうことなのかしら。それにしては大きな、派手な物音だったけれど。
キイッときしんだ音を立てて、戸を開く。猫が落ちてきたのなら、糸に絡まってなければいいのだけれど――って。
「きゃああぁっ! ちょっ、えっ!? ちょっとっ!」
朝から庭で干し続けていた色とりどりの糸。それに絡まるようにして転がっていたのは猫じゃなかった。
「や、やあ。申し訳ない……」
糸に絡まり地面に転がるもの。――年若い男。
男が、軽く手を上げ挨拶をする。糸に絡まったまま。その姿は、猫なら愛らしいが、人間だとかなり滑稽。糸に操られる傀儡人形みたい。
それに。
「糸がっ! 糸がぁっ!」
せっかくキレイに染めて干しておいた糸がっ!
落ちてきた男を受け止めた糸。そのまま男に絡みつき、地面に押しつぶされている。染めたばかりの糸。大事な大事な糸。それが男と一緒に土まみれ。
「ちょっと! 早くどいて!」
これ以上汚してほしくない。汚れてほしくない。
「そう、したいのは、やまやまなんだが……」
男だって、そんな間抜けな格好でいたくないのだろう。糸から脱出しようとするが、動けば動くほど糸は男の体に絡みつき、動いただけ糸が土に塗れる。
「あ」
短く男が声を上げる。動いた勢いで、何本か糸を切ってしまったらしい。
「わたしのっ、わたしの糸がぁっ……」
信じられない。
わたしの大切な、大切なキレイに染め上がった糸が。機織りで使うのを楽しみにしていた糸がっ!
「お、おいっ!」
グランと目の前が回る。
昨夜遅くまで行っていた染色作業で疲れていた体は、驚きと衝撃に耐えられず、意識をふっ飛ばした。
*
「――気がついたか?」
その声に、戻ってきた意識が一気に覚醒する。
ボンヤリとあたりを映すだけだった目に、力が戻って来る。
ここは? 自分の家。そして自分の床の上。どうやら、自分は床に寝転んでいるらしい。
そして、さっきの声は? 家に他に住人はいない。家にはわたししか住んでいないし、訪ねてくるような友達もいない。――じゃあ、誰?
ガバっと、勢いよく体を起こすけど。
「――――っ!」
「ほら、そんな無理をしちゃいけない」
グラッと揺れた体。それを受け止める大きな手。そして、いたわるような声。
「キミは、さっきまで気を失ってたんだ」
「……アナタ、誰?」
まだグラグラする頭を自分で押さえ、問いかける。
誰かわかんないヤツがそばにいて、はいそうですかと、もう一度横になるなんてできない。
「オレか。オレは、そうだな……、[[rb:如飛 > ルーフェイ]]とでも呼んでくれ」
いや、そういう意味で訊いたんじゃない。
アンタの名前を聴きたくて、尋ねたんじゃない! 名前を知ったからって、「[[rb:如飛 > ルーフェイ]]さんね」で安心するわけない。
名前を知ったとしても、コイツは見ず知らずの男。
人ン家の庭に落ちてきた――って。
「あ――っ!」
「ななっ、なんだ、いったいっ!」
わたしの上げた声に、如飛と名乗った男が顔をしかめる。けど。
「あ、ああっ、アンタっ! わた、わたしの糸っ、糸っ!」
「糸ぉっ!?」
「そうよ! アンタが絡んでた、あの糸っ!」
体はまだグラグラする。けど、そんなことどうでもいい。
気になるのは、コイツが引っかかってた、わたしの大切な糸!
あの糸は、どうなったのっ!
「ああ、あれなら……」
わたしに掴みかかられ、困惑してた男が、視線を背後にやる。追いかけて、わたしの視線もそっちに向く。
「あ、ああっ……」
キレイに。キレイに干してあったはずなのに。
絡まり、汚れ、ゴチャッと山積みされた糸。
「すまん。なるべく切らないように外したんだが……」
男を突き飛ばし、糸の山に駆け寄る。泥は少し払ってあるし、ある程度絡まりは直されてるみたいだけど。だけど……。
「こんなの、使い物にならない……」
泥を落とそうにも、水で洗ったりしたら、染めも落ちてしまう。もう一度染めたとしても、染めムラができて、使い物にならない。それに、ここまで絡んでいると、ほぐして直そうにも、糸は切れてしまう。(実際、すでに何ヶ所か切れてるし) 切れた糸では布は織れない。
「せっかく。せっかく手に入れた、いい絹糸だったのに……」
これほどの上物、めったに手に入らない。
糸を手に入れて以来、ずっとこの糸で織ることを楽しみにしてたのに。
こんなことなら、先染めで織る〝織り物〟じゃなくて、反物にしてから染める〝染め物〟にしておけばよかった。後悔、先に立たず。
「すまない」
わたしの後ろで男がうなだれ、謝罪する。
けど。
「すまないで済むなら、刑吏なんていらないわよっ!」
叫ぶ声が震える。
顔が熱くなって、泣きそうになってることがわかる。けど、絶対泣くもんか。なにがあっても、コイツの前では絶対泣かない。
泣いたら負け――みたいな気分。
泣くよりは。キッと睨みつけるように、男を見る。
町のゴロツキよりは、いい格好をしている男。隣かどこかの屋根から転がり落ちてくるような、野蛮な印象はない――といいたいけど、コイツ、屋根から、ウチの庭に落ちてきたのよね。それも。わたしの大事な糸めがけて。
気を失ったわたしを介抱するだけの優しさ――はいいけど、それにかこつけて、勝手に家に侵入してるし。
背は高いし、いい顔立ちだとは思うけど、やってることは、ケンカして落ちてきた猫より質悪い。
――コンコン。
不意に、家の戸が叩かれる。
誰? と思いながらも、戸を開ける。そこに立っていたのは、刑吏の男たち。
「すまないな。とある男を探してるんだが、この辺で見失ってな」
それで、一軒一軒回って探してるのだろう。目の前にいる刑吏の後ろ、ウチの前の家にも、他の刑吏が尋ねてる様子が見られた。
「えっと……」
本当のことを言ってしまおうか。
「その探してる〝とある男〟ってコイツですか?」って。「うちの糸に絡まり落ちてきたんですけど」って、つき出してしまおうか。一瞬、そんな考えを持つ。けど。
「リージュっ」
わたしの後ろから、腕を回してきた〝とある男〟そのものの[[rb:如飛 > ルーフェイ]]。
「そんな男、いませんよ、刑吏さん」
ねっ、とばかりに、後ろから、わたしに頬を寄せてくる。
いや、ここにいる! ここにいるんだってば!
言いたいのに、顎を持ち上げられ――。
(ンッ、ンーッ!)
言葉も息も、何もかも飲み込まれるような口づけをされた。
「それより。せっかくのお楽しみの最中なんだから、空気読んでくださいよ」
わたしを抱きしめたまま、いけしゃあしゃあと言ってのける如飛。
「ようやく、彼女のお許しが出たとこなんです。俺と結婚してくれるって。だ、か、ら――」
(ンッ、ンンッ、ンー、ンーッ!)
適当な嘘を告げ終えると、また重ねられた唇。
口を開け、息を吸おうとしてたのがアダになった。刑吏の前だっていうのに、男の舌がズルリとわたしの中に入ってくる。入ってくるだけじゃない。舌の先が、歯列をなぞり、わたしの舌に絡みつく。
「ああ、わかったわかった。――邪魔したな」
そんな男の態度に、呆れた刑吏が犬を追い払うように手で払う。
男の目論見どおりの反応。
その上。
「怪しい男は知りませんが、さっき、ここに来る途中、知らねえ奴が走ってくのは見ましたよ」
わたしの口腔を堪能した後、ペロッと舌なめずりして、如飛が言う。
ウソつけ。
「どっちに走っていった?」
「あっちでしたかね。すごい速さだったので、チラッと見ただけですけど」
「あっちだな。ヨシッ!」
如飛のデタラメをアッサリ信じた刑吏さんたち。その指さしたアサッテの方めがけて走り去っていく。
その間の、わたしは?
「フッ、ア、フッ……」
息を吸い、息を吐く。それだけで必死だった。
口づけ(という名の口封じ)は終わってる。けど。なんか、息が……。
「なんだ、そんなによかったのか?」
膝から崩れ落ちそうな、わたしの体を抱きしめ直した如飛。
ダメ。
そんな耳元で話さないで。でないと……。
「アッ……」
ドクンと、心臓が大きく跳ねたのがわかる。体の末端にまで、ビリビリと細かいなにかが走っていく。
「口づけだけでその反応。もっと試してみたいところだが――時間だな」
言って、わたしの体を手放した如飛。手放されたことで、力の抜けたままの体は、ズルズルと床に座り込んでしまう。
「これを。糸の詫びに」
全身に力が入らない。それは手も同じで、力を無くした手のひらに、押し付けるように載せられたもの。淡い緑の――玉環?
「では、な」
わたしの髪をひと掬いして、香りだけ味わうと、そのまま開けっ放しの戸から出ていった如飛。家の前には、刑吏ではなく、この男の仲間が来ていたらしい。外に出た如飛と仲間の声だけが耳に届いた。
なんなの。
アイツは、何者なの?
この玉環、おそらく翡翠。
腹立ってたし、次の糸を手に入れたくて、サッサと売っ払っちゃおうって考えたんだんだけど、すぐにヤメた。
だって。
(わたしみたいな、ただの機織り女がこんな玉環を売りに出したら、怪しまれるじゃない)
身分違い、持ち主違いな感じの玉環。
これがもし、盗まれたものだったら? あの如飛ってヤツが盗人で、あのとき家を訪れた刑吏は、盗人を追いかけてる――とかだったら?
売りに出したことから怪しまれて、わたしまで捕まるハメになったら?
わたしはただ平凡に平穏に、機織りをしていたいだけ。
だから。
だから、あの玉環も売らず、なけなしのお金で新しい生糸を買って、日々織り物に精進してたっていうのに。
なんでここで、あの如飛に再会するのよぉぉぉっ!
突然家に現れた、皇宮の使いだとかいう、中年のやたら柔らかい肉付きのオッサン。――宦官。
わたしに会いたがってる方がいる。
とかなんとかで、無理やり連れてこられたここ、皇宮。その豪華すぎる一室で。
なんで、あの如飛が、ふんぞり返って座ってたのよぉっ!
二度と会わない。会いたくないと思ってたのに!
夢でだって、会いたくない相手。忘れて、記憶から消し去りたい相手。
その相手と、ここっ、こんな所で、こんなふうに再会するなんてっ!
泣きたい。
泣いて、「じゃ!」と回れ右して帰りたい。
その声に、ビクッと体を震わせた。
けれど、その命に従いたくても、体がうまく動かない。
――はようせい!
隣に控える宦官が命じられたとおりにせよと、小声でせっつく。早く、早く顔を上げて、相手と視線を交わして。
「ふむ。緊張しておるのか」
シュルッと流れるような、衣擦れの音。
床に膝をつき、うやうやしく袖の中で手を合わせて頭を下げ続ける、作揖の礼のまま動かない[[rb:里珠 > リジュ]]の代わりに、壇上の男が動いた。
「そう、怯えずともよい」
里珠の前に男がしゃがむと、里珠の顔を持ち上げ、石畳しか見ていなかった視線を自分に向けさせる。
「やはり、ソナタだったな」
目線が合った途端、破顔した男。
「ル……如飛」
胸の奥、心臓が不自然に大きく跳ねた。
「そうだ。久しぶりだな、里珠。あまりに美しく着飾っておるので、誰だかわらかなんだが……」
男が、スッと里珠の手を取る。
「この手は誤魔化せぬ。機織りに馴染んだこの手の匂いは。里珠、紛うことなき、余の陰陽の乙女の手だ」
取った手の甲に、チュッと口づけ、男がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
* * * *
男、如飛と出会ったのは、半年前。
ガラガラ、ドガッ、バサッ。
いつもと同じように家の中で機織りをしていたところに、腰が浮かび上がりそうなほど驚かせる、大きな物音が庭に響いた。
「なに? いったいなんなのっ!?」
驚きすぎてどうにかなりそうな胸を押さえ、外に向かう。庭は、周囲の建物に囲まれ、洗濯した衣を干すには不適だけど、染めた糸を干しておくにはちょうどいい。今朝は暖かく、いい風も吹いている。昨日から染めておいた糸を干し、後は乾くのを待つだけだったのだけれど。
(猫でも落ちてきたのかしら)
建物に囲まれていると、まれにそういう事が起きる。ケンカに負けた猫が隣家の屋根から転げ落ちてきた。今の音もそういうことなのかしら。それにしては大きな、派手な物音だったけれど。
キイッときしんだ音を立てて、戸を開く。猫が落ちてきたのなら、糸に絡まってなければいいのだけれど――って。
「きゃああぁっ! ちょっ、えっ!? ちょっとっ!」
朝から庭で干し続けていた色とりどりの糸。それに絡まるようにして転がっていたのは猫じゃなかった。
「や、やあ。申し訳ない……」
糸に絡まり地面に転がるもの。――年若い男。
男が、軽く手を上げ挨拶をする。糸に絡まったまま。その姿は、猫なら愛らしいが、人間だとかなり滑稽。糸に操られる傀儡人形みたい。
それに。
「糸がっ! 糸がぁっ!」
せっかくキレイに染めて干しておいた糸がっ!
落ちてきた男を受け止めた糸。そのまま男に絡みつき、地面に押しつぶされている。染めたばかりの糸。大事な大事な糸。それが男と一緒に土まみれ。
「ちょっと! 早くどいて!」
これ以上汚してほしくない。汚れてほしくない。
「そう、したいのは、やまやまなんだが……」
男だって、そんな間抜けな格好でいたくないのだろう。糸から脱出しようとするが、動けば動くほど糸は男の体に絡みつき、動いただけ糸が土に塗れる。
「あ」
短く男が声を上げる。動いた勢いで、何本か糸を切ってしまったらしい。
「わたしのっ、わたしの糸がぁっ……」
信じられない。
わたしの大切な、大切なキレイに染め上がった糸が。機織りで使うのを楽しみにしていた糸がっ!
「お、おいっ!」
グランと目の前が回る。
昨夜遅くまで行っていた染色作業で疲れていた体は、驚きと衝撃に耐えられず、意識をふっ飛ばした。
*
「――気がついたか?」
その声に、戻ってきた意識が一気に覚醒する。
ボンヤリとあたりを映すだけだった目に、力が戻って来る。
ここは? 自分の家。そして自分の床の上。どうやら、自分は床に寝転んでいるらしい。
そして、さっきの声は? 家に他に住人はいない。家にはわたししか住んでいないし、訪ねてくるような友達もいない。――じゃあ、誰?
ガバっと、勢いよく体を起こすけど。
「――――っ!」
「ほら、そんな無理をしちゃいけない」
グラッと揺れた体。それを受け止める大きな手。そして、いたわるような声。
「キミは、さっきまで気を失ってたんだ」
「……アナタ、誰?」
まだグラグラする頭を自分で押さえ、問いかける。
誰かわかんないヤツがそばにいて、はいそうですかと、もう一度横になるなんてできない。
「オレか。オレは、そうだな……、[[rb:如飛 > ルーフェイ]]とでも呼んでくれ」
いや、そういう意味で訊いたんじゃない。
アンタの名前を聴きたくて、尋ねたんじゃない! 名前を知ったからって、「[[rb:如飛 > ルーフェイ]]さんね」で安心するわけない。
名前を知ったとしても、コイツは見ず知らずの男。
人ン家の庭に落ちてきた――って。
「あ――っ!」
「ななっ、なんだ、いったいっ!」
わたしの上げた声に、如飛と名乗った男が顔をしかめる。けど。
「あ、ああっ、アンタっ! わた、わたしの糸っ、糸っ!」
「糸ぉっ!?」
「そうよ! アンタが絡んでた、あの糸っ!」
体はまだグラグラする。けど、そんなことどうでもいい。
気になるのは、コイツが引っかかってた、わたしの大切な糸!
あの糸は、どうなったのっ!
「ああ、あれなら……」
わたしに掴みかかられ、困惑してた男が、視線を背後にやる。追いかけて、わたしの視線もそっちに向く。
「あ、ああっ……」
キレイに。キレイに干してあったはずなのに。
絡まり、汚れ、ゴチャッと山積みされた糸。
「すまん。なるべく切らないように外したんだが……」
男を突き飛ばし、糸の山に駆け寄る。泥は少し払ってあるし、ある程度絡まりは直されてるみたいだけど。だけど……。
「こんなの、使い物にならない……」
泥を落とそうにも、水で洗ったりしたら、染めも落ちてしまう。もう一度染めたとしても、染めムラができて、使い物にならない。それに、ここまで絡んでいると、ほぐして直そうにも、糸は切れてしまう。(実際、すでに何ヶ所か切れてるし) 切れた糸では布は織れない。
「せっかく。せっかく手に入れた、いい絹糸だったのに……」
これほどの上物、めったに手に入らない。
糸を手に入れて以来、ずっとこの糸で織ることを楽しみにしてたのに。
こんなことなら、先染めで織る〝織り物〟じゃなくて、反物にしてから染める〝染め物〟にしておけばよかった。後悔、先に立たず。
「すまない」
わたしの後ろで男がうなだれ、謝罪する。
けど。
「すまないで済むなら、刑吏なんていらないわよっ!」
叫ぶ声が震える。
顔が熱くなって、泣きそうになってることがわかる。けど、絶対泣くもんか。なにがあっても、コイツの前では絶対泣かない。
泣いたら負け――みたいな気分。
泣くよりは。キッと睨みつけるように、男を見る。
町のゴロツキよりは、いい格好をしている男。隣かどこかの屋根から転がり落ちてくるような、野蛮な印象はない――といいたいけど、コイツ、屋根から、ウチの庭に落ちてきたのよね。それも。わたしの大事な糸めがけて。
気を失ったわたしを介抱するだけの優しさ――はいいけど、それにかこつけて、勝手に家に侵入してるし。
背は高いし、いい顔立ちだとは思うけど、やってることは、ケンカして落ちてきた猫より質悪い。
――コンコン。
不意に、家の戸が叩かれる。
誰? と思いながらも、戸を開ける。そこに立っていたのは、刑吏の男たち。
「すまないな。とある男を探してるんだが、この辺で見失ってな」
それで、一軒一軒回って探してるのだろう。目の前にいる刑吏の後ろ、ウチの前の家にも、他の刑吏が尋ねてる様子が見られた。
「えっと……」
本当のことを言ってしまおうか。
「その探してる〝とある男〟ってコイツですか?」って。「うちの糸に絡まり落ちてきたんですけど」って、つき出してしまおうか。一瞬、そんな考えを持つ。けど。
「リージュっ」
わたしの後ろから、腕を回してきた〝とある男〟そのものの[[rb:如飛 > ルーフェイ]]。
「そんな男、いませんよ、刑吏さん」
ねっ、とばかりに、後ろから、わたしに頬を寄せてくる。
いや、ここにいる! ここにいるんだってば!
言いたいのに、顎を持ち上げられ――。
(ンッ、ンーッ!)
言葉も息も、何もかも飲み込まれるような口づけをされた。
「それより。せっかくのお楽しみの最中なんだから、空気読んでくださいよ」
わたしを抱きしめたまま、いけしゃあしゃあと言ってのける如飛。
「ようやく、彼女のお許しが出たとこなんです。俺と結婚してくれるって。だ、か、ら――」
(ンッ、ンンッ、ンー、ンーッ!)
適当な嘘を告げ終えると、また重ねられた唇。
口を開け、息を吸おうとしてたのがアダになった。刑吏の前だっていうのに、男の舌がズルリとわたしの中に入ってくる。入ってくるだけじゃない。舌の先が、歯列をなぞり、わたしの舌に絡みつく。
「ああ、わかったわかった。――邪魔したな」
そんな男の態度に、呆れた刑吏が犬を追い払うように手で払う。
男の目論見どおりの反応。
その上。
「怪しい男は知りませんが、さっき、ここに来る途中、知らねえ奴が走ってくのは見ましたよ」
わたしの口腔を堪能した後、ペロッと舌なめずりして、如飛が言う。
ウソつけ。
「どっちに走っていった?」
「あっちでしたかね。すごい速さだったので、チラッと見ただけですけど」
「あっちだな。ヨシッ!」
如飛のデタラメをアッサリ信じた刑吏さんたち。その指さしたアサッテの方めがけて走り去っていく。
その間の、わたしは?
「フッ、ア、フッ……」
息を吸い、息を吐く。それだけで必死だった。
口づけ(という名の口封じ)は終わってる。けど。なんか、息が……。
「なんだ、そんなによかったのか?」
膝から崩れ落ちそうな、わたしの体を抱きしめ直した如飛。
ダメ。
そんな耳元で話さないで。でないと……。
「アッ……」
ドクンと、心臓が大きく跳ねたのがわかる。体の末端にまで、ビリビリと細かいなにかが走っていく。
「口づけだけでその反応。もっと試してみたいところだが――時間だな」
言って、わたしの体を手放した如飛。手放されたことで、力の抜けたままの体は、ズルズルと床に座り込んでしまう。
「これを。糸の詫びに」
全身に力が入らない。それは手も同じで、力を無くした手のひらに、押し付けるように載せられたもの。淡い緑の――玉環?
「では、な」
わたしの髪をひと掬いして、香りだけ味わうと、そのまま開けっ放しの戸から出ていった如飛。家の前には、刑吏ではなく、この男の仲間が来ていたらしい。外に出た如飛と仲間の声だけが耳に届いた。
なんなの。
アイツは、何者なの?
この玉環、おそらく翡翠。
腹立ってたし、次の糸を手に入れたくて、サッサと売っ払っちゃおうって考えたんだんだけど、すぐにヤメた。
だって。
(わたしみたいな、ただの機織り女がこんな玉環を売りに出したら、怪しまれるじゃない)
身分違い、持ち主違いな感じの玉環。
これがもし、盗まれたものだったら? あの如飛ってヤツが盗人で、あのとき家を訪れた刑吏は、盗人を追いかけてる――とかだったら?
売りに出したことから怪しまれて、わたしまで捕まるハメになったら?
わたしはただ平凡に平穏に、機織りをしていたいだけ。
だから。
だから、あの玉環も売らず、なけなしのお金で新しい生糸を買って、日々織り物に精進してたっていうのに。
なんでここで、あの如飛に再会するのよぉぉぉっ!
突然家に現れた、皇宮の使いだとかいう、中年のやたら柔らかい肉付きのオッサン。――宦官。
わたしに会いたがってる方がいる。
とかなんとかで、無理やり連れてこられたここ、皇宮。その豪華すぎる一室で。
なんで、あの如飛が、ふんぞり返って座ってたのよぉっ!
二度と会わない。会いたくないと思ってたのに!
夢でだって、会いたくない相手。忘れて、記憶から消し去りたい相手。
その相手と、ここっ、こんな所で、こんなふうに再会するなんてっ!
泣きたい。
泣いて、「じゃ!」と回れ右して帰りたい。
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