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「おかえり」と「ごちそうさま」のカンケイ。
第1話 揚げ出し豆腐。
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揚げ出し豆腐を作るのは、少しだけ怖い。
豆腐なんていう、水気の多いものを熱した油のなかに投じるのだから、かなり緊張する。
木綿豆腐を揚げやすいように、六等分に分けて、キッチンペーパーにつつむ。ここで、重しをして水分を飛ばし過ぎると、フワフワに仕上がらないので、あくまで置いておくだけ。
その間に、しょう油、みりんとだしの素を使ってツユを作っておく。カツオ節で出汁を取りたいけど、ちょっと時間がないので、そこは素に頼る。添える薬味も、ネギと大根おろしは自分でやるけど、ショウガだけはチューブで。
油を熱してる間に、切っておいた豆腐に小麦粉をまぶす。余った粉ははたいて。油は160~170の低温。最近のIHヒーターはそのあたりの設定をしておけば、ピピーッと知らせてくれるのでありがたい。
油がはねないか気にしながら、崩さないよう慎重に豆腐を投入する。一番、緊張する瞬間。入れた後も、はねないかドキドキする。
揚げる時間は、わずか1~2分。表面が色づいたらサッと取り出す。
軽く油をきったら、さっき作っておいたツユに入れて薬味を添えて出来上がり。
「ただいまー」
盛り付け完成!!
のところで、玄関からした声。軽く手を拭き、その声のもとへと駆けつける。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま。いい匂いがする。揚げ物? もしかして天ぷらとか?」
「うーん。ハズレ」
仕事から帰ってきた相手、奏さんといつもの会話を交わす。靴を脱ぎやすいように、相手のカバンをさり気なく受け取り、先導するようにもといたLDKへと促す。
まるで新婚の主婦と夫みたい。もしくは『サザエさん』のフネさん。
「うわ。揚げ出し豆腐じゃん。すごいね」
LDKから漂う、油とツユの香り。ツユのカツオだしの香りが軽くお腹を刺激する。
「ゴハンにするから、着替えてきてください」
「はいはーい」
出来上がった品をお盆に載せ、手早く配膳をすませる。
今日のメニューは、さっき出来上がったばかりの揚げ出し豆腐と、具だくさんの豚汁(大根多め)、ほうれん草のお浸し。豚汁は少し冷めていたので温め直してから食卓に出す。
「うわー、ナニコレ、すごーい。みんなミオが作ったの?」
「えと……。出汁は素を使ったし、ショウガはチューブだけど……」
「いや、それでもすごいって。料理の腕、また上がったねえ」
すごいすごい。
何度も「すごい」を連発して奏さんがいつもの席に着く。軽く「いただきます」をしてから、揚げ出し豆腐に箸を入れ、一口大にして頬張る。
豆腐を油に投入するよりも緊張する一瞬。
「すっごい美味しい!! 私、これ、好き!!」
その言葉に、緊張が肩から抜け落ちる。
「すごいねえ。カリッとした表面に、フワッとした中身……。うーん、美味しいっ!!」
箸を咥えたままギューッと幸せそうに目をつぶる。その姿に自分もちょっと心浮き立つ。こうやって喜んでくれる姿を見るだけで、自分も幸せだ。
頬を緩ませたくなるけど、そこはグッとガマンして向かい合った席に座る。
「う~ん。これ、ビールが欲しくなるなあ」
「出しましょうか?」
ビールなら、発泡酒だけど冷蔵庫に冷やしてある。以前、奏さんが買ってきたやつ。
「ううん。ガマンする。やらなきゃいけないことがあるから」
そうなんだ。
軽く手を合わせ、わたしも揚げ出し豆腐に箸を伸ばす。
うん。初めて作ったにしては美味しく出来てる。カリッとした豆腐の表面に沁みたツユが美味しい。
今度は、ちゃんとカツオから出汁を取ってみよう。
そうすれば、もっと美味しくなる気がする。
そうすれば、もっと「美味しい」って喜んでくれる気がする。「ミオ、上手になったねえ」ってほめてくれる気がする。
「お風呂、今、沸かしてますから、食べたら入っちゃってくださいね」
「うん、ありがとー」
彼女の箸がほうれん草をつまみ、彼女の手が汁椀を持ち上げる。そのたびに、味はどうなのか、美味しいと思ってもらえてるのか、少し気になる。
「それと、今日着てたスーツ、いい加減クリーニングに出すから、バッグに入れといてくださいね」
「うん」
「一応言っときますけど、ポケットの中身、確認してくださいよ? ボールペンとか印鑑とかヘアピンとか、入れっぱなしはダメですよ?」
「わかってるってば~」
どうだか。
クリーニングに持っていく前に、わたしが再確認しないと。この間なんて、クッシャクシャのレシートが入ったままだったし。スーツ自体だって、買ってきたらそのまま着ていこうとするズボラだし。伴布とか予備ボタンとかそういうの、ポケットに突っ込んだままだし。ウッカリそのまま持って行って、クリーニング屋で恥をかくのはわたしなんだから。
「ホント、ミオって料理上手だし働き者だし、いいお嫁さんになれそうだよねえ~」
お嫁さん。
その単語に、少しだけわたしの肩が揺れる。
「お嫁さんになるべきは、わたしじゃなくて、奏さんでしょ?」
「う゛。人の弱点を……」
「もう三十二にもなるんですから、いい加減そのあたりをハッキリしたほうがいいんじゃないですか?」
「まだ三十一!!」
「どっちでもいっしょです」
「ううう~。ミオがイジメるよぉ、お姉ちゃ~ん」
「人の母に勝手にすがらないでください」
そう。
目の前にいる相手。
それは、わたしの旦那さまでも恋人でもなく。
わたしの叔母。
この2LDKのマンションの持ち主。
十年前、事故で両親を亡くし身寄りのなくなったわたしを引き取って育ててくれた人。
凄腕の雑誌編集者(それも主婦雑誌の)らしいのだけど、家事がサッパリな人。当然、独身。
育ててくれた恩はあるけど、生活に関してはわたしがこうしてフォローするしかない状況。
――オフロガワキマシタ。
女性の合成音がお風呂が沸いたことを知らせる。
それをチャンスとばかりに、奏さんがそそくさと食べ終え、風呂に入りに行く。――ちゃんと「ごちそうさま」を言って、食器を流しに持って行ってから。そのあたりの女子力は持ち合わせているらしい。(小学生レベルだけど)
まあ、全部食べてくれたし。いっか。
話が中断されたこと。少し物足りない気がしたけど、それでも、全部食べてくれたことはうれしかった。
次も、作ってあげよう。
揚げ出し豆腐。
今日、初挑戦の料理だったけど、あんなに喜んでもらえるなら、頻度を上げて作ってもいいかもしれない。できることならお酒を飲んでもいい、休日前の夜とか。そうしたら、もっと喜んでもらえるかもしれない。
揚げ出し豆腐。
レパートリー上位に登録。
わたしも食べ終え、軽く手を合わせてから食器を片づける。この後、奏さんはここでパソコンに向き合うだろうから、キレイにテーブルを拭いておく。
残った油をオイルポットに入れ替え、食器、鍋の順で洗いあげる。
油が飛び散ったであろう壁もキレイに拭きあげる。こういう時、IHはとても助かる。フラットなので拭きやすい。
ああ、そうだ。奏さんの弁当箱。
「弁当箱は?」「出してくださいね」
こう言わないと、「あー、忘れてた」となる奏さん。翌日が休日だとそのまま気づかれずに、カバンのなかで汚れが熟成されることになる。
中学男子か。
ツッコみたくなるほど、そのあたりもズボラ。
風呂に入ってる相手に「弁当出せ」とは言えないので、ソファに置きっぱなしのカバンから勝手に取り出す。
あー、もうカバンも……。
大きいことはいいことだ理論の上に愛用されてる奏さんのカバン。こちらも中学男子よろしく、中身グチャグチャ。これでホントに敏腕編集者なんだろうか。少しはその腕を使ってカバンの中身も編集してほしい。
弁当を洗いあげると、キッチン側の照明をダウンライトだけに落とす。
今日の弁当。生姜焼きと卵焼きの焼き焼きペア、それときんぴらごぼうなんかの総菜をいくつか。
生姜焼きだなんて女性にどうかなってアイテムだけど、奏さんは「精がつく」と喜んでくれる。編集者っていうのは、肉体労働と頭脳労働、その両輪で出来上がっているらしく、卵焼きは甘めのものが好まれる。「脳が糖分を欲してる」んだとか。
「あ~、いいお湯だった~」
ガラッと洗面所につながる引き戸が開けられ、髪を拭きながら奏さんが戻ってくる。
「あー、またちゃんと髪の毛乾かしてない!!」
「え~、メンドクサイ~」
「メンドクサイじゃない。あー、もう、また床を濡らして!!」
ポタポタと髪から落ちた雫だろう。奏さんの歩いた後に点々と水滴の筋。髪を乾かすよりも仕事が大事なのか。その手には、いつの間にかノートパソコンが抱えられていた。
椅子に腰かけた彼女の頭からタオルを奪って、そのままワシャワシャと髪を拭く。
「ドライヤー、かけたんですか?」
「うん、やったよ~。これでも~」
嘘だ。かけたとしても、多分、ほんのちょっと。
めんどくさがりの奏さんは、適当にドライヤーを使っただけで、あとはタオルを巻いて終わりにすることが多い。
それでも髪、キレイなのよね。
スパッと切りそろえられた黒髪。
いつも肩の辺りまでしか伸ばさない髪。短くすると朝から寝グセを直すのが面倒だからとか、この長さだと邪魔な時にサッとゴムで結わえることができるからという理由があるらしい。
特に手入れに気を使ってる風でもないのに、柔らかくっていい匂いがする髪。シャンプーの銘柄にも頓着しない奏さん。わたしと同じモノを使ってるはずなのに、どうしてこうも違うのか。うつむいたせいで視界に入ってきた自分の硬い髪にため息をつきたくなる。
叔母と姪なのに。わたしの髪質は父親に似たらしい。髪がペタンコになってるのを見た記憶がない、ワックスいらずで自然に立ち上がるほど硬い髪質の父だった。
「あー、そうだ。今度の週末、取材だから」
「泊り?」
「うん。広島だって。一応、一泊二日」
「じゃあ、準備しておくね」
「ありがと」
ある程度髪を拭きあげてタオルを外す。湿ってはいるものの、雫が落ちる不安はない。ブラシで梳いてあげればもっときれいな髪になるんだろうけどな。
「お風呂、行ってくるね」
「んー」
奏さんの生返事。
自分の部屋から着替えを持ってくると、奏さんはわたしが離れた時の姿のまま、パソコンに向かって仕事を始めていた。
すぐそばを通りかかっても気づきやしない。
仕事に没入する……というより、仕事の世界に「潜る」、「沈む」奏さん。
おそらくだけど、この後、寝るのも忘れて仕事を続けるんだろう。仕事から浮上してくることはない。そして、朝、起きられなくなる。
毛布、用意しておこう。
そんなことを考えながら、洗面所で髪をほどく。
奏さんよりも長く伸ばした髪。邪魔だから結ぶのではなく、結んでおかないと爆発する髪。多いことはいいことかもしれないけれど、硬いことと相まって、持ち主の手を焼く髪。
トリートメントタップリ使ったら柔らかくなるんだろうか。それともマイナスイオンタップリのドライヤーを使ったら。
それこそ奏さんのように。柔らかくスルンッとした髪質に。
いやいや、ありえないっしょ。
軽く頭をふって気を取り直す。
けど。
ワンプッシュ分だけ、トリートメントを多めに手のひらで受け止める。
ムダなこととはわかっているけど。
* * * *
――かわいそうに。両親をいっぺんに亡くすなんてねえ。
――交通事故だって? あの子だけが生き残ったそうよ。
――まだ、五つでしょ? かわいそうに。
わたしの周りで囁かれた声。
ヒソヒソしているつもりなのかもしれないけど、全然ヒソヒソしていない。うつむき、拳を握りしめるわたしの耳にちゃんと届いてる。
――これから、誰が面倒をみるんだい?
――ウチは無理よ。子どもが三人もいるんだもの。
――ウチだって無理だよ。
牽制しあう声。
あっちが。いや、こっちが。
どっちだっていい。大声をあげて泣く場所さえあれば。
こらえきれなかった涙は、大粒の雫となって拳の上に落ちる。
――父親の親族はどうしたんだ?
――じゃあ、母親のほうは?
誰か引き取りてはいないのか。いなければこのまま施設送りだぞ。
――私が育てます。それなら文句はないですよね?
――行こう、ミオちゃん。
涙にぬれた拳をグッと引っ張り上げてくれた奏さん。その目は、わたしと同じだけの涙がみなぎり、怒りをこらえているかのようだった。
そんな奏さんの手は大きくて、温かくて、そしてとても優しかった。
――もう大丈夫だよ、ミオちゃん。お腹空いてない? 一緒に食べよう?
帰り道、立ち寄ったコンビニで買ってくれたおにぎり。
何の変哲もないコンビニのおにぎりのはずなのに、わたしの涙と感情は決壊する。
声をあげて、泣きながら食べるわたしの頭をなでてくれた奏さん。
わたしはこの時まで、母親に妹がいることを知らなかった。そして、誰かの手がこんなにも温かくて優しいものだってことも。
――就職も決まったばっかりだし、まだそれらしい稼ぎもないけど、まあ、なんとかやってけると思うから。よろしくね、ミオちゃん。
当時、大学四年生、卒業間近だった奏さん。
就職先は出版社で、不規則な生活だったけれど、それでも姪であるわたしを一生懸命に育ててくれた。
運動会や授業参観は必ず来てくれたし、わたしが熱を出した時もつきっきりで看病してくれた。
――親子? シングルマザー?
そんな勘違いを受けるぐらい、わたしを大事にしてくれた。
あれから十年。
わたしは中学三年になり、奏さんも安心して仕事に没頭できるようになった。
――私、それっぽく頑張ってきたけどさ、本当は家事とか苦手なんだよね。
アハハと笑ってカミングアウトしてくれた奏さん。
うん。知ってた。
奏さんの作る卵焼きは、砂糖多すぎでよく焦げてたし(甘いけど)、洗濯に出した靴下は、よく片方が行方不明になっていた。提出するはずのプリントが奏さんのもとで行方不明になることもしばしばだったし、シャンプーとか洗剤を切らすのは日常のことだったし。
だから、わたしが家事をかって出た。
ここまで育ててくれた感謝をこめて。奏さんが好きな仕事に打ち込めるように。
奏さんのそういう抜けてるところ、苦手なところをわたしがフォローしていく。
十年前のわたしは、守られるだけの小さな手だったけど、今のわたしはなんだってできる手を持っている。
奏さん。
今のわたしは、あの時のアナタに恩を返せていますか?
豆腐なんていう、水気の多いものを熱した油のなかに投じるのだから、かなり緊張する。
木綿豆腐を揚げやすいように、六等分に分けて、キッチンペーパーにつつむ。ここで、重しをして水分を飛ばし過ぎると、フワフワに仕上がらないので、あくまで置いておくだけ。
その間に、しょう油、みりんとだしの素を使ってツユを作っておく。カツオ節で出汁を取りたいけど、ちょっと時間がないので、そこは素に頼る。添える薬味も、ネギと大根おろしは自分でやるけど、ショウガだけはチューブで。
油を熱してる間に、切っておいた豆腐に小麦粉をまぶす。余った粉ははたいて。油は160~170の低温。最近のIHヒーターはそのあたりの設定をしておけば、ピピーッと知らせてくれるのでありがたい。
油がはねないか気にしながら、崩さないよう慎重に豆腐を投入する。一番、緊張する瞬間。入れた後も、はねないかドキドキする。
揚げる時間は、わずか1~2分。表面が色づいたらサッと取り出す。
軽く油をきったら、さっき作っておいたツユに入れて薬味を添えて出来上がり。
「ただいまー」
盛り付け完成!!
のところで、玄関からした声。軽く手を拭き、その声のもとへと駆けつける。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま。いい匂いがする。揚げ物? もしかして天ぷらとか?」
「うーん。ハズレ」
仕事から帰ってきた相手、奏さんといつもの会話を交わす。靴を脱ぎやすいように、相手のカバンをさり気なく受け取り、先導するようにもといたLDKへと促す。
まるで新婚の主婦と夫みたい。もしくは『サザエさん』のフネさん。
「うわ。揚げ出し豆腐じゃん。すごいね」
LDKから漂う、油とツユの香り。ツユのカツオだしの香りが軽くお腹を刺激する。
「ゴハンにするから、着替えてきてください」
「はいはーい」
出来上がった品をお盆に載せ、手早く配膳をすませる。
今日のメニューは、さっき出来上がったばかりの揚げ出し豆腐と、具だくさんの豚汁(大根多め)、ほうれん草のお浸し。豚汁は少し冷めていたので温め直してから食卓に出す。
「うわー、ナニコレ、すごーい。みんなミオが作ったの?」
「えと……。出汁は素を使ったし、ショウガはチューブだけど……」
「いや、それでもすごいって。料理の腕、また上がったねえ」
すごいすごい。
何度も「すごい」を連発して奏さんがいつもの席に着く。軽く「いただきます」をしてから、揚げ出し豆腐に箸を入れ、一口大にして頬張る。
豆腐を油に投入するよりも緊張する一瞬。
「すっごい美味しい!! 私、これ、好き!!」
その言葉に、緊張が肩から抜け落ちる。
「すごいねえ。カリッとした表面に、フワッとした中身……。うーん、美味しいっ!!」
箸を咥えたままギューッと幸せそうに目をつぶる。その姿に自分もちょっと心浮き立つ。こうやって喜んでくれる姿を見るだけで、自分も幸せだ。
頬を緩ませたくなるけど、そこはグッとガマンして向かい合った席に座る。
「う~ん。これ、ビールが欲しくなるなあ」
「出しましょうか?」
ビールなら、発泡酒だけど冷蔵庫に冷やしてある。以前、奏さんが買ってきたやつ。
「ううん。ガマンする。やらなきゃいけないことがあるから」
そうなんだ。
軽く手を合わせ、わたしも揚げ出し豆腐に箸を伸ばす。
うん。初めて作ったにしては美味しく出来てる。カリッとした豆腐の表面に沁みたツユが美味しい。
今度は、ちゃんとカツオから出汁を取ってみよう。
そうすれば、もっと美味しくなる気がする。
そうすれば、もっと「美味しい」って喜んでくれる気がする。「ミオ、上手になったねえ」ってほめてくれる気がする。
「お風呂、今、沸かしてますから、食べたら入っちゃってくださいね」
「うん、ありがとー」
彼女の箸がほうれん草をつまみ、彼女の手が汁椀を持ち上げる。そのたびに、味はどうなのか、美味しいと思ってもらえてるのか、少し気になる。
「それと、今日着てたスーツ、いい加減クリーニングに出すから、バッグに入れといてくださいね」
「うん」
「一応言っときますけど、ポケットの中身、確認してくださいよ? ボールペンとか印鑑とかヘアピンとか、入れっぱなしはダメですよ?」
「わかってるってば~」
どうだか。
クリーニングに持っていく前に、わたしが再確認しないと。この間なんて、クッシャクシャのレシートが入ったままだったし。スーツ自体だって、買ってきたらそのまま着ていこうとするズボラだし。伴布とか予備ボタンとかそういうの、ポケットに突っ込んだままだし。ウッカリそのまま持って行って、クリーニング屋で恥をかくのはわたしなんだから。
「ホント、ミオって料理上手だし働き者だし、いいお嫁さんになれそうだよねえ~」
お嫁さん。
その単語に、少しだけわたしの肩が揺れる。
「お嫁さんになるべきは、わたしじゃなくて、奏さんでしょ?」
「う゛。人の弱点を……」
「もう三十二にもなるんですから、いい加減そのあたりをハッキリしたほうがいいんじゃないですか?」
「まだ三十一!!」
「どっちでもいっしょです」
「ううう~。ミオがイジメるよぉ、お姉ちゃ~ん」
「人の母に勝手にすがらないでください」
そう。
目の前にいる相手。
それは、わたしの旦那さまでも恋人でもなく。
わたしの叔母。
この2LDKのマンションの持ち主。
十年前、事故で両親を亡くし身寄りのなくなったわたしを引き取って育ててくれた人。
凄腕の雑誌編集者(それも主婦雑誌の)らしいのだけど、家事がサッパリな人。当然、独身。
育ててくれた恩はあるけど、生活に関してはわたしがこうしてフォローするしかない状況。
――オフロガワキマシタ。
女性の合成音がお風呂が沸いたことを知らせる。
それをチャンスとばかりに、奏さんがそそくさと食べ終え、風呂に入りに行く。――ちゃんと「ごちそうさま」を言って、食器を流しに持って行ってから。そのあたりの女子力は持ち合わせているらしい。(小学生レベルだけど)
まあ、全部食べてくれたし。いっか。
話が中断されたこと。少し物足りない気がしたけど、それでも、全部食べてくれたことはうれしかった。
次も、作ってあげよう。
揚げ出し豆腐。
今日、初挑戦の料理だったけど、あんなに喜んでもらえるなら、頻度を上げて作ってもいいかもしれない。できることならお酒を飲んでもいい、休日前の夜とか。そうしたら、もっと喜んでもらえるかもしれない。
揚げ出し豆腐。
レパートリー上位に登録。
わたしも食べ終え、軽く手を合わせてから食器を片づける。この後、奏さんはここでパソコンに向き合うだろうから、キレイにテーブルを拭いておく。
残った油をオイルポットに入れ替え、食器、鍋の順で洗いあげる。
油が飛び散ったであろう壁もキレイに拭きあげる。こういう時、IHはとても助かる。フラットなので拭きやすい。
ああ、そうだ。奏さんの弁当箱。
「弁当箱は?」「出してくださいね」
こう言わないと、「あー、忘れてた」となる奏さん。翌日が休日だとそのまま気づかれずに、カバンのなかで汚れが熟成されることになる。
中学男子か。
ツッコみたくなるほど、そのあたりもズボラ。
風呂に入ってる相手に「弁当出せ」とは言えないので、ソファに置きっぱなしのカバンから勝手に取り出す。
あー、もうカバンも……。
大きいことはいいことだ理論の上に愛用されてる奏さんのカバン。こちらも中学男子よろしく、中身グチャグチャ。これでホントに敏腕編集者なんだろうか。少しはその腕を使ってカバンの中身も編集してほしい。
弁当を洗いあげると、キッチン側の照明をダウンライトだけに落とす。
今日の弁当。生姜焼きと卵焼きの焼き焼きペア、それときんぴらごぼうなんかの総菜をいくつか。
生姜焼きだなんて女性にどうかなってアイテムだけど、奏さんは「精がつく」と喜んでくれる。編集者っていうのは、肉体労働と頭脳労働、その両輪で出来上がっているらしく、卵焼きは甘めのものが好まれる。「脳が糖分を欲してる」んだとか。
「あ~、いいお湯だった~」
ガラッと洗面所につながる引き戸が開けられ、髪を拭きながら奏さんが戻ってくる。
「あー、またちゃんと髪の毛乾かしてない!!」
「え~、メンドクサイ~」
「メンドクサイじゃない。あー、もう、また床を濡らして!!」
ポタポタと髪から落ちた雫だろう。奏さんの歩いた後に点々と水滴の筋。髪を乾かすよりも仕事が大事なのか。その手には、いつの間にかノートパソコンが抱えられていた。
椅子に腰かけた彼女の頭からタオルを奪って、そのままワシャワシャと髪を拭く。
「ドライヤー、かけたんですか?」
「うん、やったよ~。これでも~」
嘘だ。かけたとしても、多分、ほんのちょっと。
めんどくさがりの奏さんは、適当にドライヤーを使っただけで、あとはタオルを巻いて終わりにすることが多い。
それでも髪、キレイなのよね。
スパッと切りそろえられた黒髪。
いつも肩の辺りまでしか伸ばさない髪。短くすると朝から寝グセを直すのが面倒だからとか、この長さだと邪魔な時にサッとゴムで結わえることができるからという理由があるらしい。
特に手入れに気を使ってる風でもないのに、柔らかくっていい匂いがする髪。シャンプーの銘柄にも頓着しない奏さん。わたしと同じモノを使ってるはずなのに、どうしてこうも違うのか。うつむいたせいで視界に入ってきた自分の硬い髪にため息をつきたくなる。
叔母と姪なのに。わたしの髪質は父親に似たらしい。髪がペタンコになってるのを見た記憶がない、ワックスいらずで自然に立ち上がるほど硬い髪質の父だった。
「あー、そうだ。今度の週末、取材だから」
「泊り?」
「うん。広島だって。一応、一泊二日」
「じゃあ、準備しておくね」
「ありがと」
ある程度髪を拭きあげてタオルを外す。湿ってはいるものの、雫が落ちる不安はない。ブラシで梳いてあげればもっときれいな髪になるんだろうけどな。
「お風呂、行ってくるね」
「んー」
奏さんの生返事。
自分の部屋から着替えを持ってくると、奏さんはわたしが離れた時の姿のまま、パソコンに向かって仕事を始めていた。
すぐそばを通りかかっても気づきやしない。
仕事に没入する……というより、仕事の世界に「潜る」、「沈む」奏さん。
おそらくだけど、この後、寝るのも忘れて仕事を続けるんだろう。仕事から浮上してくることはない。そして、朝、起きられなくなる。
毛布、用意しておこう。
そんなことを考えながら、洗面所で髪をほどく。
奏さんよりも長く伸ばした髪。邪魔だから結ぶのではなく、結んでおかないと爆発する髪。多いことはいいことかもしれないけれど、硬いことと相まって、持ち主の手を焼く髪。
トリートメントタップリ使ったら柔らかくなるんだろうか。それともマイナスイオンタップリのドライヤーを使ったら。
それこそ奏さんのように。柔らかくスルンッとした髪質に。
いやいや、ありえないっしょ。
軽く頭をふって気を取り直す。
けど。
ワンプッシュ分だけ、トリートメントを多めに手のひらで受け止める。
ムダなこととはわかっているけど。
* * * *
――かわいそうに。両親をいっぺんに亡くすなんてねえ。
――交通事故だって? あの子だけが生き残ったそうよ。
――まだ、五つでしょ? かわいそうに。
わたしの周りで囁かれた声。
ヒソヒソしているつもりなのかもしれないけど、全然ヒソヒソしていない。うつむき、拳を握りしめるわたしの耳にちゃんと届いてる。
――これから、誰が面倒をみるんだい?
――ウチは無理よ。子どもが三人もいるんだもの。
――ウチだって無理だよ。
牽制しあう声。
あっちが。いや、こっちが。
どっちだっていい。大声をあげて泣く場所さえあれば。
こらえきれなかった涙は、大粒の雫となって拳の上に落ちる。
――父親の親族はどうしたんだ?
――じゃあ、母親のほうは?
誰か引き取りてはいないのか。いなければこのまま施設送りだぞ。
――私が育てます。それなら文句はないですよね?
――行こう、ミオちゃん。
涙にぬれた拳をグッと引っ張り上げてくれた奏さん。その目は、わたしと同じだけの涙がみなぎり、怒りをこらえているかのようだった。
そんな奏さんの手は大きくて、温かくて、そしてとても優しかった。
――もう大丈夫だよ、ミオちゃん。お腹空いてない? 一緒に食べよう?
帰り道、立ち寄ったコンビニで買ってくれたおにぎり。
何の変哲もないコンビニのおにぎりのはずなのに、わたしの涙と感情は決壊する。
声をあげて、泣きながら食べるわたしの頭をなでてくれた奏さん。
わたしはこの時まで、母親に妹がいることを知らなかった。そして、誰かの手がこんなにも温かくて優しいものだってことも。
――就職も決まったばっかりだし、まだそれらしい稼ぎもないけど、まあ、なんとかやってけると思うから。よろしくね、ミオちゃん。
当時、大学四年生、卒業間近だった奏さん。
就職先は出版社で、不規則な生活だったけれど、それでも姪であるわたしを一生懸命に育ててくれた。
運動会や授業参観は必ず来てくれたし、わたしが熱を出した時もつきっきりで看病してくれた。
――親子? シングルマザー?
そんな勘違いを受けるぐらい、わたしを大事にしてくれた。
あれから十年。
わたしは中学三年になり、奏さんも安心して仕事に没頭できるようになった。
――私、それっぽく頑張ってきたけどさ、本当は家事とか苦手なんだよね。
アハハと笑ってカミングアウトしてくれた奏さん。
うん。知ってた。
奏さんの作る卵焼きは、砂糖多すぎでよく焦げてたし(甘いけど)、洗濯に出した靴下は、よく片方が行方不明になっていた。提出するはずのプリントが奏さんのもとで行方不明になることもしばしばだったし、シャンプーとか洗剤を切らすのは日常のことだったし。
だから、わたしが家事をかって出た。
ここまで育ててくれた感謝をこめて。奏さんが好きな仕事に打ち込めるように。
奏さんのそういう抜けてるところ、苦手なところをわたしがフォローしていく。
十年前のわたしは、守られるだけの小さな手だったけど、今のわたしはなんだってできる手を持っている。
奏さん。
今のわたしは、あの時のアナタに恩を返せていますか?
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『恋人はメリーさん』(主人公は京司朗の後輩・東雲結)
『繚乱ロンド』の元になった2作品
『花物語』に入っている『カサブランカ・ダディ(全五話)』『花冠はタンポポで(ショートショート)』
さとうと編集。
cancan
ライト文芸
主人公、天月さとうは高校三年生女子。ライトノベル作家を目指している。若いながらも世の中の歪みのようなものと闘いながら日々の生活を一生懸命に生きている。若手女性声優とお金が大好き
歌え!寮食堂 1・2・3(アイン・ツヴァイ・ドライ)!
皇海宮乃
ライト文芸
一年間の自宅浪人を経て、かろうじて補欠で大学入学の切符を掴んだ主人公、志信。
アパート住まいは経済的に無理だと親に言われ、付属の学生寮に入らなかったら往復三時間を超える電車通学をするしかない。
無事入寮が決まり、鞄一つで郷里から出てきたものの……。
そこは、旧制高校学生寮の気風残る、時代錯誤な場所だった。
寮食堂での昼食、食事の前には『寮食歌』なるものを歌うと聞かされ、あらわれたのは、学ラン、ハチマキ無精髭のバンカラ風男子大学生。
アイン、ツヴァイ、ドライ!
食堂には歌が響き、寮内暴走族? 女子寮へは不審者が?
学生寮を舞台に起こる物語。
タイムトラベル同好会
小松広和
ライト文芸
とある有名私立高校にあるタイムトラベル同好会。その名の通りタイムマシンを制作して過去に行くのが目的のクラブだ。だが、なぜか誰も俺のこの壮大なる夢を理解する者がいない。あえて言えば幼なじみの胡桃が付き合ってくれるくらいか。あっ、いやこれは彼女として付き合うという意味では決してない。胡桃はただの幼なじみだ。誤解をしないようにしてくれ。俺と胡桃の平凡な日常のはずが突然・・・・。
気になる方はぜひ読んでみてください。SFっぽい恋愛っぽいストーリーです。よろしくお願いします。
雪町フォトグラフ
涼雨 零音(すずさめ れいん)
ライト文芸
北海道上川郡東川町で暮らす高校生の深雪(みゆき)が写真甲子園の本戦出場を目指して奮闘する物語。
メンバーを集めるのに奔走し、写真の腕を磨くのに精進し、数々の問題に直面し、そのたびに沸き上がる名前のわからない感情に翻弄されながら成長していく姿を瑞々しく描いた青春小説。
※表紙の絵は画家の勅使河原 優さん(@M4Teshigawara)に描いていただきました。
三度目の庄司
西原衣都
ライト文芸
庄司有希の家族は複雑だ。
小学校に入学する前、両親が離婚した。
中学校に入学する前、両親が再婚した。
両親は別れたりくっついたりしている。同じ相手と再婚したのだ。
名字が大西から庄司に変わるのは二回目だ。
有希が高校三年生時、両親の関係が再びあやしくなってきた。もしかしたら、また大西になって、また庄司になるかもしれない。うんざりした有希はそんな両親に抗議すべく家出を決行した。
健全な家出だ。そこでよく知ってるのに、知らない男の子と一夏を過ごすことになった。有希はその子と話すうち、この境遇をどうでもよくなってしまった。彼も同じ境遇を引き受けた子供だったから。
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