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第28話 別離。

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 (んっ……)

 瞼越しに感じた光に、リーナは意識を取り戻す。

 (朝……?)

 軽く体を震わせ、目を開ける。
 窓から差し込む光が昨夜の余韻を打ち消し、部屋の空気を清浄なものへと変化させていく。

 (クラウドさま……)

 目の前にあったのは、いまだに眠るクラウドの顔。規則正しい寝息が、リーナの頬に触れる。
 光が彼の頬に作り出したまつ毛の影を眺めながら、夕べのことを思い出す。
 森に迷い込んだクラウドを見つけ、想いのままに口づけを交わした。求められるまま、求めるまま、身を委ね、存分に愛し愛された。今は閉じて見ることのできないクラウドの瞳。その青い瞳が情熱的にリーナだけを映してくれていた。リーナを愛していると何度も囁いてくれた唇。
 こうしてベッドのなか、お互いに裸のままで抱き合っている。クラウドの腕は宝物でも抱きしめるかのように、リーナの背中に回されている。

 (温かい……、気持ちいい)

 こうして抱きしめられているだけで、心がほぐされじんわりと愛しさが満ちてくる。大切にされることで得られる喜び。
 このまま、この心地よさのなかでまどろんでいられたら。
 愛される幸せを感じていられたら。
 そんな誘惑をグッとこらえ、そっとクラウドから身を離す。彼が目を覚まさないように、ゆっくりと慎重に体を起こし、ベッドから離れる。

 (あっ……)

 下腹部に鈍い痛みが走る。同時に空虚な違和感ももたらされる。
 そこは、クラウドに散々愛され、彼に純潔を捧げた場所。
 彼を受け止めた、大切な場所。
 その痛みが、これが現実であることをリーナに告げていた。

 (クラウドさま……)

 脱ぎ捨てられた自分の服を手早く着付ける。いつまでも情に流されていてはいけない。
 クラウドに乱された髪もまとめ上げ、いつものリーナに戻る。
 体に残る、クラウドの感触は現実。でも、これからはこのことを夢と思って生きていかねばならない。身寄りのないメイドの自分が公爵家の子息に愛されるなど、夢でしか起こりえないことなのだから。
 たとえクラウドさまが真剣に愛してくださったとしても、周囲がそれを良しとしない。
 リーナの役割は、その身の純潔と愛を持って、クラウドにかけられた呪いを解くこと。
 それが果たされた今、リーナがここにいる必要はない。いや、クラウドのこれからの人生を考えれば、ここにいてはいけない。
 クラウドの宝物は、リーナではない。クラウドとともに公爵家を支えることのできる、身分ある女性でなければ。

 (幸せになってください)

 その寝顔を脳裏に焼き付け、リーナは音もなく寝室を離れた。
 自分は、この一夜のことを一生の思い出として生きていく。それだけで十分。

 その日の朝、屋敷のすべての人が目を覚ますより前に、リーナは屋敷から姿を消した。

 *     *     *     *

 ピクリと動いた指先で、愛しい相手を探す。
 大切に抱きしめて眠ったはずなのに、その指に触れるものがない。

 「ん……、リーナ……?」

 愛しいその名を呼ぶが返事はない。  

 (どこだ……?)

 不安になって目を覚ます。
 乱れたリネンのなかには、自分ひとり。
 一緒に眠ったはずのリーナの姿はどこにもなかった。恥ずかしがって離れて眠っているのかと思ったが、クラウドが脱がせ、投げ捨てた彼女の服もなくなっている。

 (仕事に戻ったのか……?)

 リーナたちメイドの朝は早い。クラウドのような主が目を覚ますより前に、彼女たちは仕事を始める。 

 (今日ぐらいサボってもいいのに)

 重い体を起こし、クシャっとその銀灰色の髪を乱す。リーナのそういう真面目なところも愛しいと思うのだから、どうしようもない。クスリと笑みがこぼれる。
 昨夜は成り行きからとはいえ、リーナを抱くことが出来た。
 あの柔らかな唇を味わい、その体に自分を刻みつけた。
 手に触れたリーナの肌は、熱っぽく、吸いつくような弾力にあふれていた。

 (リーナ……)

 感触の残るギュッと手を握りしめる。
 もう一度味わいたい。もっと彼女を愛したい。
 あの声で、「クラウド」と、「愛してる」と言われたい。
 リーナといる幸せを知ってしまった今、自分に歯止めが効かなくなりそうだ。
 もっともっとと、彼女を壊してしまいそうなほど愛してみたい。
 呪いなど関係なく、純粋にリーナを愛したい。
 俺の愛撫で啼かせたい。乱れさせてみたい。
 俺ナシでいられないようにしてやりたい。
 サッサと仕事に戻ってしまった彼女。今ここにいなくてよかったと、ほんの少しだけ思う。
 もし目の前にいたら……。彼女を抱き潰してしまいかねない。
 
 コンコンッ……。

 硬質なドアを叩く音が聞こえた。
 同時に扉が開かれ、執事バトラーのアルフォードが新聞と紅茶を運んでくる。

 「リーナを妻に迎えるぞ」

 そのそつのない動きを眺めながら、自分の意志を伝える。

 「猫の呪いは解けた。あとは、彼女を妻にするだけだ」

 「クラウドさま」

 カチャリと音を立てて、アルフォードが茶器を置いた。

 「今朝から、リーナさまのお姿がどこにも見えません」

 「……は?」

 アルフォードの言葉が理解できない。
 リーナが? いない? どうして?

 「ミセス・アマリエに確認してもらいましたが、部屋にも何も残っていないそうです」

 *     *     *     *

 「うーん、紹介状もないんじゃあねえ……」

 向かい合うように座る職員が唸った。
 眉をひそめ、首をかしげる。

 「お嬢ちゃん、アンタ以前、公爵家を紹介してやったコだろ?」

 「え、あ、はい」

 そういえば、そんなこともあったな。
 たった数ヶ月前のことなのに、ものすごく遠い昔の話のような気がする。

 「紹介状もなしに追い出されるなんて、なんかやらかしたのかい?」

 例えば、盗みとか不貞とか。
 もしそういう経歴があるのなら、次を紹介するのは難しいぞ。
 斡旋所の職員の顔がそう告げていた。

 「なにも、やましいことはしてません。ただ、紹介状を頂けなかっただけで」

 屋敷を出奔してきたリーナに、紹介状など持ち合わせていない。あるのは、わずかな身の回り品だけ収めたカバン一つだけ。

 「どこか、雑役女中オールワークスでもいいんです。お仕事はないでしょうか」

 「うーん。身元もハッキリ保証もない女性を雇ってくれるようなところはなあ……。今はどこでも人手が余っているからなあ」

 ボリボリと職員が頭を掻く。

 「悪いが他をあたってくれ、お嬢ちゃん。ウチでは無理だわ」

 やや投げやりに追い払われた。
 失意のまま、騒がしい斡旋所を後にする。

 (ここがダメなら、次を探すまでよ)

 街中の斡旋所を回る覚悟を決める。とにかくどこでもいいから生きていく場所を確保しなくては。
 これからは、誰に頼ることなく生きていく。
 今までもそうだったし、これからも同じ。大丈夫。私一人ぐらいなら、なんとかなるわ。
 重く鉛のように感じるカバンを持つ手に、ギュッと力をこめた。
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