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第20話 臨界。

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 「リーナ、最近疲れてない?」

 仕事の合間、エレンに訊ねられた。

 「そう……かな?」

 「うん。顔にハリがないというのか。元気ないよ? 疲れてる?」

 言われ、頬に手を当てたリーナの顔を、心配そうにエレンが覗き込む。

 「悩み事? アタシでよければ聞くけど?」

 ……言ってしまいたい。そんな衝動がリーナを襲う。だが。

 「大丈夫。平気だよ?」

 本当は大丈夫じゃない。助けてほしいと思っている。
 けれど、そんなこと口にして、エレンを困らせてもどうしようもない。心配してくれるのはありがたけれど、迷惑はかけられない。それに、話したとしても信じてもらえるかどうか。
 リーナだって、もしエレンが同じ話を持ちかけてきたら、きっと信じないだろう。「人が猫になる呪いだなんてありえない」と笑うに決まってる。それか「主をそんなふうに見るなんて不謹慎だ」と怒るか。
 リーナだって信じられないのだ。けれど、あの朝に見たクラウドは本物。猫だと思って招き入れた相手が、朝になって人に戻っていたのは、まごうことなき真実。
 疲れて見えるのは、ここのところずっと満足に眠れていないせいだ。日中は仕事と、クラウドとの文字の勉強。夜は、猫となったクラウドと同じベッドで休まなくてはいけない日々。眠りたくても眠れない。
 
 (この生活、いつまで続くのかしら)

 クラウドがリーナをあきらめるまで? それとも、リーナがクラウドに純潔を捧げ、呪いを解くまで?
 どちらにせよ、そう簡単に終わりそうにない。
 リーナが折れて、純潔を捧げればいいのかもしれないけど、そう簡単に捧げられるものじゃない。できることなら、呪いを解く相手を変えて欲しい。興味の対象から自分を外して欲しい。

 「このあとの仕事は縫い物だけだし。座ってやれるから大丈夫よ」

 裁縫ならなんとかなる。眠いけど、身体がどうしようもなく重いけど、裁縫なら。裁縫ぐらいなら。
 掃除道具を持って立ち上がる。

 ――――が。

 (あ……れ……⁉)

 目が回る。世界がグルングルンと定まらない。

 「リーナッ!!」

 エレンの叫び声が響く。けれど、リーナにはどうしようもない。
 意識が遠のく。ドンッと何かにぶつけたような衝撃が身体に響くが、自分がどうなってしまったのか、確認することが難しい。

 「リーナッ!!」

 エレンとは別の誰かの声もした。

 (誰……⁉)

 考えることすら出来ない。
 闇に引きずり込まれるように、溶けるように。リーナは、かすかに残っていた意識を手放した。

 *     *     *      *

 疲労による発熱。
 屋敷に呼ばれた医師は、リーナをそう判断した。
 しっかり養生させれば元気になる。このまま寝かせておいて、起きたら滋養のあるものを食べさせればいい。
 医師はそう言って笑うが、クラウドは気が気でなかった。
 リーナの同僚の叫び声。崩れるように倒れていたリーナの身体。
 とっさに抱き上げ、屋根裏の彼女の部屋まで運んだが、その身体の軽さと、熱さ、それとくり返される浅い呼吸に戸惑いを覚えた。

 (俺が、追い詰めてしまったのか……?)

 倒れるまでに。リーナを。

 「純潔を捧げてほしい」とは言ったが、「待つ」とも言った。
 彼女がその決意をするまで、待つつもりだった。無理強いなどしたくない。
 ただ、その決意にいたるまで、何もしないでいる気もなかった。
 リーナに触れたいという、単純な欲求もある。それと同時に、「自分を知ってほしい」という思いもあった。
 自分を知って、好きになってほしい。
 自分が近づくことで、リーナが落ち着かなくなっていることは知っていた。夜もベッドに入れてくれるものの、へんに緊張して眠れないでいるのも知っていた。
 だが、そうして意識してもらっていれば、いつかは自分を愛してくれるのではないか。そう勘違いしていた。

 ――勘違い。

 自分で自分を笑い飛ばす。
 彼女をここまで追い詰めて、何が「好きになってほしい」だ。
 自分の勝手な思いは、彼女を苦しめただけではないか。

 (リーナ……)

 本当に彼女を想うなら、彼女を手放すべきではないのか。
 クラウドのなかで、暗くどうしようもない感情が渦巻く。

 *     *     *     *
 
 (う……ん……)

 重く沈んだ世界から、意識が浮かびあがる。

 (ここ……は……)

 微かに瞼を持ち上げて、辺りを見回す。
 ぼんやりとした視界。飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の景色と……。

 (あ……、アッシュ)

 自分を心配そうに見つめる、アッシュの姿。
 その青い眼差しは、何かを言いたげにこちらをジッと見つめている。

 「アッシュ……」

 かすれた声で、その名を呼ぶ。
 わずかに動いた手で、その背中を撫でてやる。

 (心配しないで……)

 そんな気持ちが伝わればいい。
 私は大丈夫だから。そんなに思いつめないで。

 「アッシュ……。アナタがただの猫だったらよかった……の、に……」

 毛を撫でる手から力が抜ける。意識が再び深く沈んでいく。
 アッシュが普通の猫だったら。ただのお友達だったら。

 「ア……シュ……」

 再び眠りについたリーナを、灰色の猫が見下ろす。
 リーナが規則正しい寝息をくり返すと、猫はその場を離れた。
 部屋に残ったのは、窓から差し込む青い月の光だけ。

 次の日から。
 灰色の猫が、リーナのもとを訪れることはなかった。
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