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第10話 アッシュ。

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 カリカリッ……。カリッ……。

 夜遅く、窓の外、何かを引っ掻くような音に、リーナはブラシを持つ手を止めた。
 不思議に思いながら窓に近づく。

 「まあ、お前、どこから来たの?」

 窓を持ち上げ、驚く。
 窓の外にいたのは、昨日再会した、灰色の猫。それが、リーナを呼ぶように、窓の外で待っていたのだ。
 リーナが窓を開けたのを、当然とばかりにスルリと部屋のなかに入る。

 「こんな遅くに。屋根伝いに来たの? お前」
 外はもう暗い。月明りしかないような暗さのなか、この猫はリーナの、メイド部屋までやって来たのだろうか。

 (猫が高いところが平気だって言っても……)

 リーナ達の部屋は、屋敷の最上階、屋根裏にある。

 「いくらなんでも、危険よ、お前。また落っこちたらどうするの?」

 勝手にベッドの上に居座った、猫の鼻を押してやる。

 「でも、無事でよかった。いなくなってたから、心配したのよ」

 仕事しながらも、ずっとこの猫の行方が気にかかっていた。エレンやジョージと他愛のない話をしながらも、ずっとどこかにこの猫が隠れていないか探していた。
 会えた、一緒に眠ったというのは夢ではなかったのか。それとも、勝手に部屋から出て行って、困った目に遭ってないか。
 そう思っていたからこそ、この夜の訪問は少しうれしかった。

 「でも、お前がこうして来てくれるってわかっていたら、台所キッチンでなにかもらっておくんだったわ」

 見回したところで、今、この部屋に食べ物は一つもない。明かりとりのランプと水差し、机、ベッド。それに、明日着るための黒のメイド用ドレス。前のお屋敷よりは広く自由になったけれど、それでも、部屋に置いてあるものは、とても少ない。
 この時間、台所キッチンには誰もいない。ハンスさんたちも自分の部屋に戻っているだろう。こっそり忍び込んで持ってくることも出来なくはないけれど、暗くなった屋敷のなかをうろつくのは、あまりよろしくない。万が一、誰かに見咎められでもしたら、上手い言い訳が思いつかない。

 「ゴメンね」

 せめてもの愛情をと、猫の喉を撫でてやる。すると、それだけでも満足したのか、猫はうれしそうに首を伸ばした。
 じゃれつくように、身をリーナにすり寄せてくる。
 食べ物が欲しくて来たわけじゃない。まるでそう言っているかのようだった。

 「ふふっ。じゃあ、今日のおわびに名前をあげるわ」

 いつまでも〈お前〉、〈猫〉ではかわいそうだ。ここまでなついてくれているのなら、名をつけ、かわいがってあげたい。

 「そうねえ。お前、とてもきれいな毛並みだから……。〈アッシュ〉はどうかしら」

 一瞬、アッシュと名付けられた猫が動きを止めた。

 「そう、お前はアッシュよ。よろしくね、アッシュ」

 猫――アッシュが抵抗しないのをいいことに、ギュッと抱きしめる。
 リーナの人生における、数少ない友だち。

 (私の名前より、ずっとステキだわ)

 その年の12番目に孤児院にもらわれてきたから、アルファベット順に〈L〉で、リーナLina。アシュトリーの苗字も、アシュトリー教会が、孤児院の経営母体だったからいただいただけ。そこに、意味も愛情も含まれてなどいない。

 「アッシュ……」

 リーナの頬ずりを、アッシュは嫌がらなかった。名前とともに与えられた愛情を、受け入れてくれているのかもしれない。

 「アッシュ、お前、いい匂いがするのね」

 ギュッと抱きしめたことで、その香りがリーナの鼻孔をくすぐった。
 草むらとか、野生に生きていたのではついてくるはずのないような匂い。どこかで嗅いだことのあるような気がしたが、どこだか思い出せない。
 いい香りだと、思ったことは覚えているのだけど。

 「毛並みもすごくいいし」

 まるで洗い立てのような、手触りのいい毛並み。色だって、灰色だけれど、決してくすんではいない。艶やかな光沢も秘めている。光の加減によっては、銀色にも見えるだろう。

 (飼い猫でないと思うのだけど……)

 誰かに飼われているのなら、わざわざこんなところにまで、リーナに会いに来てくれるはずがない。
 毛並みと香り、そして、人の言葉を理解しているような態度と人懐っこさ。エサも手からでないと食べない。
 その態度と容姿は、貴族に飼われていそうなのに、こんなところにまで来てくれる自由さを持ち合わせた存在。

 「不思議なコね、アナタは」

 この猫に会ってから、いいことが続いている。
 前の勤め先であったイルゼンド伯爵家を解雇されたのは辛かったが、それでもこうして新しいお屋敷に勤めることが出来た。それも、こちらのほうが、断然待遇がいい。
 まるで、この猫が幸運を運んできてくれたみたい。
 リーナに出会い、幸せを授けてくれた。昔話に出てくるような猫の妖精。
 もしかしたら、アッシュはそういう存在なのかもしれない。
 夢見るにもほどがある。そう思わないではないけれど、アッシュには、夢を見るだけの不思議さが備わっていた。

 「アッシュ……」

 頬をすり寄せ、目を閉じる。
 温かい、大切な友だち。

 「ねえ、アッシュ……」

 抱きしめたまま、ベッドにもぐり込む。

 「今度はご飯を用意しておくから、こうして来てくれるとうれしいな……」

 妖精みたいだからじゃない。こうして会いに来てくれる、大切な友だちだからこそ、大事にしたかった。
 人ではないけれど、それでも温かい。
 それだけのことが、とてもうれしい。
 今の生活が嫌なわけじゃない。ただ、少しだけ楽しみが欲しかった。
 ささやかな変化。ちょっとしたスリル。わずかな喜び。

 「おやすみ、アッシュ」

 軽く額に口づけて、幸せな気分で眠りに落ちる。
 きっと、明日の朝、目を覚ましたら、アッシュはこの部屋にいないのだろう。
 それでも、こうしてまた部屋に来てくれたらそれでいい。
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