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第4話 台所事情。
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メイドとして、ヴィッセルハルト公爵家で働くことになったリーナに用意されたのは、屋根裏の小さな部屋だった。人手不足という言葉通りに使用人全体が少ないのか、あてがわれた部屋は、なんと個室である。
小さな机と、簡素なベッドだけの部屋に、窓から夕暮れ近い陽射しが差し込む。
(とりあえず、今日の宿が出来ただけでも感謝しなくては)
朝、イルゼンド伯爵家を追い出されたばかりなのに、こうして新しい勤め先を見つけられた。
それを幸運としてとらえずに、なんとすればいいのか。
それも、部屋はこんな個室。
人生で初めての一人部屋に軽く興奮を覚える。
部屋だけで単純に決められないが、少なくとも今はここを出ていきたいとは思ってもいない。それどころか、こんな素敵な部屋をいただけるのなら、ずっと働いていたい。そう思っている。
(さて……)
少しだけベッドに腰かけただけで、リーナはカバンから黒い服を取り出した。
続いて白の大きめエプロン、まとめた髪につける帽子キャップ。
今の時間なら、おそらく台所は、猫の手も借りたいぐらい忙しいだろう。主がたった一人であったとしても、その夕食を作るのは、かなり大変だからだ。
今日来たばかりだからって、働かずにいるわけにもいかない。
「使えるやつだ」と思ってもらうためにも、グズグズなんてしていられない。
手早く身なりを整えると、なんとなくのあてをつけて台所を目指す。ミセス・バートンに軽く案内されただけの身では、どこに何があるのかよくわからなかったが、たち上る香りを頼りに、台所にたどり着く。
「あの……」
おそるおそる台所を覗く。
怖い料理長とか、意地悪な台所女中頭がいたら嫌だな。そんなことを思いながら、顔を出す。
「ああ、なんだいお嬢ちゃん」
返ってきたのは、ややノンビリした声だった。大鍋の中身をゆっくりをかき混ぜている、デップリとしたお腹の男性。料理長だろうか。
「なんだ、お腹でも空いてるのかい?」
「あ、いえ、そういうのでは……」
見たところ、台所にいたのは彼一人だった。仕事を手伝うつもりだった。そう言葉をかけようとしたのだけど。
「アンタ、新入りでしょ? ミセス・アマリエが連れてたのを見たよ」
背後からの声に、ドキンと胸が高鳴る。
「あっ、はい、リーナ・アシュトリーといいます」
「リーナね。アタシは、エレン。よろしくね」
背後に立っていた、自分とたいして変わらない年頃の少女が手を差し出す。彼女も台所女中なのだろうか。少しそばかすの跡の残る顔に、親しみを感じた。
けれど、こんな忙しい時間に台所にいなかったなんて。料理長に叱られないの?
「でも、入って早々に仕事でもするつもりだったの? 今日ぐらい、ゆっくりしていればよかったのに」
ねえ、とエレンが相づちを背後に求めた。見れば、彼女の後ろに背の高い青年が立っている。エレンに従って石炭を運んできたのだろうか。重そうなバケツを下ろし、薄黒くなった手をズボンでこすったあと、握手を求められた。
「オレの名前は、ジョージ。本当に、ゆっくりしていてよかったんだぜ?」
やや強引に手を握られ、上下に振られる。
「え、でも、皆さんお忙しいでしょうから、手伝わないわけには」
まだここのルールもわかっていないリーナでは、大した役には立たないかもしれないけれど、それでもノンビリ構えているわけにもいかない。
「鍋の一つも洗えますし、野菜の皮むきぐらいは出来ますから」
働く屋敷が違っても、料理の下ごしらえ程度なら、それほどの差はないはずだ。けれど……。
リーナの答えに、エレンとジョージが顔を見合わせた。
そして、なぜか笑いあう。
(………⁉ 何かおかしなことを言ったかしら?)
首をかしげるリーナに、エレンが「あれ、あれ」と料理人を指さした。
見れば、先程から大鍋をかき混ぜていた料理長が、気難しそうに顔を捻じ曲げている。
「オレに、手伝いなどいらん」
見るからに不機嫌そうだった。
「あのね、あの人、ハンスさんって言うんだけど。自分の仕事場を人に手伝われるのが嫌な人なのよ」
エレンがコッソリ教えてくれた。
「オヤジのモットーは『素人、厨房に入るべからず』だもんなあ。オレが入るだけでも、怒ってくるんだ。職人気質っていうのかさ。とにかく頑固で」
半ば呆れたように、ジョージが言った。
「オレもエレンも、ここでの調理を手伝ったことはねえから。だからリーナも気にしなくていいんだぜ?」
「うるさい、バカ息子」
ハンスの叱責が飛ぶ。
「悪口を言うなら、飯をやらんぞ?」
あー、悪いと、反省の色のみえない謝罪をジョージがくり返す。
「……え? あの、ジョージさんのお父さん、お母さんって……」
一緒に働いてるの?
驚きのままに、目を丸くする。
「ああ、えっと。オレのオヤジは、あの料理長。んでもってお袋が……」
「私よ。家政婦頭のアマリエ」
「えええっ!!」
その答えに、リーナは素っ頓狂な声を上げた。ちょうどジョージの後ろに、ミセス・アマリエが立っていたのだ。アマリエとジョージの瞳の色は同じ鳶色。親子と言われれば納得する。
「まあ、普通は驚くよね」
ウンウンと、エレンが頷いた。
アマリエは上品な身のこなしで、ジョージ、エレン、リーナの間を抜け、一人台所に立つ夫に声をかける。
「そろそろ、出来るかしらハンス」
「待ってろ。もうあと少しだ」
腰に手を当て、リズミカルに鍋をかき回す。
立ち上る香りから、出来上がりが近いことはリーナにも理解できた。
その言葉を合図に、手慣れた様子でアマリエが台所に入る。
厨房に誰も入れないのが信条ではなかったか?
一瞬、そう思ったが、妻の行動に夫であるハンスはさほど、気にも留めなかった。
アマリエの方も、テキパキと出来上がった料理を運ぶ手はずを整える。料理を作るのに手出しはしてほしくないが、運ぶことにまで文句をつける気はない、といったところだろうか。
唖然とするリーナの前で、主人用に用意された食事が準備された。
「エレン、手伝ってちょうだい」
アマリエが、エレンに声をかける。
「ああ、リーナ、アナタもよければ運んでくれないかしら?」
ここまで来て、さすがに嫌だとは言えない。
リーナの運ぶ用とばかりに準備されたトレーをあわてて持つ。
アマリエ、エレンの後ろ、最後尾となって台所から食堂に食事を運ぶ。
それにしても。
夫婦、親子で働いているなんて……。
人手不足とは聞いていたが、まさか、そんな雇用形態があるとは思わず、リーナはただひたすらに目を丸くするしかなかった。
小さな机と、簡素なベッドだけの部屋に、窓から夕暮れ近い陽射しが差し込む。
(とりあえず、今日の宿が出来ただけでも感謝しなくては)
朝、イルゼンド伯爵家を追い出されたばかりなのに、こうして新しい勤め先を見つけられた。
それを幸運としてとらえずに、なんとすればいいのか。
それも、部屋はこんな個室。
人生で初めての一人部屋に軽く興奮を覚える。
部屋だけで単純に決められないが、少なくとも今はここを出ていきたいとは思ってもいない。それどころか、こんな素敵な部屋をいただけるのなら、ずっと働いていたい。そう思っている。
(さて……)
少しだけベッドに腰かけただけで、リーナはカバンから黒い服を取り出した。
続いて白の大きめエプロン、まとめた髪につける帽子キャップ。
今の時間なら、おそらく台所は、猫の手も借りたいぐらい忙しいだろう。主がたった一人であったとしても、その夕食を作るのは、かなり大変だからだ。
今日来たばかりだからって、働かずにいるわけにもいかない。
「使えるやつだ」と思ってもらうためにも、グズグズなんてしていられない。
手早く身なりを整えると、なんとなくのあてをつけて台所を目指す。ミセス・バートンに軽く案内されただけの身では、どこに何があるのかよくわからなかったが、たち上る香りを頼りに、台所にたどり着く。
「あの……」
おそるおそる台所を覗く。
怖い料理長とか、意地悪な台所女中頭がいたら嫌だな。そんなことを思いながら、顔を出す。
「ああ、なんだいお嬢ちゃん」
返ってきたのは、ややノンビリした声だった。大鍋の中身をゆっくりをかき混ぜている、デップリとしたお腹の男性。料理長だろうか。
「なんだ、お腹でも空いてるのかい?」
「あ、いえ、そういうのでは……」
見たところ、台所にいたのは彼一人だった。仕事を手伝うつもりだった。そう言葉をかけようとしたのだけど。
「アンタ、新入りでしょ? ミセス・アマリエが連れてたのを見たよ」
背後からの声に、ドキンと胸が高鳴る。
「あっ、はい、リーナ・アシュトリーといいます」
「リーナね。アタシは、エレン。よろしくね」
背後に立っていた、自分とたいして変わらない年頃の少女が手を差し出す。彼女も台所女中なのだろうか。少しそばかすの跡の残る顔に、親しみを感じた。
けれど、こんな忙しい時間に台所にいなかったなんて。料理長に叱られないの?
「でも、入って早々に仕事でもするつもりだったの? 今日ぐらい、ゆっくりしていればよかったのに」
ねえ、とエレンが相づちを背後に求めた。見れば、彼女の後ろに背の高い青年が立っている。エレンに従って石炭を運んできたのだろうか。重そうなバケツを下ろし、薄黒くなった手をズボンでこすったあと、握手を求められた。
「オレの名前は、ジョージ。本当に、ゆっくりしていてよかったんだぜ?」
やや強引に手を握られ、上下に振られる。
「え、でも、皆さんお忙しいでしょうから、手伝わないわけには」
まだここのルールもわかっていないリーナでは、大した役には立たないかもしれないけれど、それでもノンビリ構えているわけにもいかない。
「鍋の一つも洗えますし、野菜の皮むきぐらいは出来ますから」
働く屋敷が違っても、料理の下ごしらえ程度なら、それほどの差はないはずだ。けれど……。
リーナの答えに、エレンとジョージが顔を見合わせた。
そして、なぜか笑いあう。
(………⁉ 何かおかしなことを言ったかしら?)
首をかしげるリーナに、エレンが「あれ、あれ」と料理人を指さした。
見れば、先程から大鍋をかき混ぜていた料理長が、気難しそうに顔を捻じ曲げている。
「オレに、手伝いなどいらん」
見るからに不機嫌そうだった。
「あのね、あの人、ハンスさんって言うんだけど。自分の仕事場を人に手伝われるのが嫌な人なのよ」
エレンがコッソリ教えてくれた。
「オヤジのモットーは『素人、厨房に入るべからず』だもんなあ。オレが入るだけでも、怒ってくるんだ。職人気質っていうのかさ。とにかく頑固で」
半ば呆れたように、ジョージが言った。
「オレもエレンも、ここでの調理を手伝ったことはねえから。だからリーナも気にしなくていいんだぜ?」
「うるさい、バカ息子」
ハンスの叱責が飛ぶ。
「悪口を言うなら、飯をやらんぞ?」
あー、悪いと、反省の色のみえない謝罪をジョージがくり返す。
「……え? あの、ジョージさんのお父さん、お母さんって……」
一緒に働いてるの?
驚きのままに、目を丸くする。
「ああ、えっと。オレのオヤジは、あの料理長。んでもってお袋が……」
「私よ。家政婦頭のアマリエ」
「えええっ!!」
その答えに、リーナは素っ頓狂な声を上げた。ちょうどジョージの後ろに、ミセス・アマリエが立っていたのだ。アマリエとジョージの瞳の色は同じ鳶色。親子と言われれば納得する。
「まあ、普通は驚くよね」
ウンウンと、エレンが頷いた。
アマリエは上品な身のこなしで、ジョージ、エレン、リーナの間を抜け、一人台所に立つ夫に声をかける。
「そろそろ、出来るかしらハンス」
「待ってろ。もうあと少しだ」
腰に手を当て、リズミカルに鍋をかき回す。
立ち上る香りから、出来上がりが近いことはリーナにも理解できた。
その言葉を合図に、手慣れた様子でアマリエが台所に入る。
厨房に誰も入れないのが信条ではなかったか?
一瞬、そう思ったが、妻の行動に夫であるハンスはさほど、気にも留めなかった。
アマリエの方も、テキパキと出来上がった料理を運ぶ手はずを整える。料理を作るのに手出しはしてほしくないが、運ぶことにまで文句をつける気はない、といったところだろうか。
唖然とするリーナの前で、主人用に用意された食事が準備された。
「エレン、手伝ってちょうだい」
アマリエが、エレンに声をかける。
「ああ、リーナ、アナタもよければ運んでくれないかしら?」
ここまで来て、さすがに嫌だとは言えない。
リーナの運ぶ用とばかりに準備されたトレーをあわてて持つ。
アマリエ、エレンの後ろ、最後尾となって台所から食堂に食事を運ぶ。
それにしても。
夫婦、親子で働いているなんて……。
人手不足とは聞いていたが、まさか、そんな雇用形態があるとは思わず、リーナはただひたすらに目を丸くするしかなかった。
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