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第1話 灰色猫。

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 「ミャオ……」

 腕のなかに抱きとめた灰色のそれが、モゾモゾと動き、鳴き声を上げたことにホッと胸を撫でおろす。
 落ちてきたそれを受け止めはしたものの、生きているのか、自分が押しつぶしてしまっていないか、少し不安だったのだ。

 「よかった……」

 安心をそのまま言葉にする。
 ちょっとだけ腕に力をこめると、やや窮屈そうにそれが身をよじった。

 「それにしても、お前、どうして落ちてきたの?」

 腕のなかから顔をのぞかせる、その生き物の鼻とツンと突いてみる。
 フニャっと顔をしかめたそれは、灰色の毛並みの猫だった。
 毛はそこまで長くない。おそらく成猫。猫種はわからないが、スリムな身体つきをしている。間違っても足を滑らせて落ちてきそうなデップリ猫でも、足元のおぼつかない子猫でもない。
 その理由を求めようと、ふと顔を上げる。同時に、猫も上を見上げた。
 屋敷の上階、開け放たれた窓、零れる光。そして、女性のヒステリックな、誰かを叱責するような声。

 「ああ……」

 なんとなく、その理由を察して猫と顔を見合わせる。

 「お嬢さまに、捨てられたのね」

 あの甲高い声は、このお屋敷のお嬢さまのもの。声の合間から、彼女付きの小間使いの謝罪が遠慮がちに聞こえたから、間違いないだろう。
 やや乱暴に窓が閉められ、その音に、思わず首をすくめる。

 「お前、誰かからのプレゼントだったの?」

 貴族の間では、いろいろなプレゼントが贈られてくる。花やお菓子はもちろんのことだが、もしかすると、お嬢さまに〈猫〉をプレゼントした人がいたのかもしれない。
 でも最後、窓が閉められる直前に聞こえた「あんな汚いもの、部屋に入れないでっ!!」というお嬢さまの声に、それはありえないかもとも思う。
 プレゼントになるぐらいの猫なら、汚いものではないだろうし。ましてや、窓から捨てられるなんてことは起こらないだろう。

 「自分で、部屋に忍び込んだの? だとしたら大胆だねえ、お前は」

 さほど汚れているとは思えなかった猫の頭を少し撫でてやる。どちらかといえば、その毛並みはツヤツヤとしてキレイだと思う。

 「お嬢さまは、あまり動物がお好きでないのよ」

 だから、勝手に忍び込んじゃだめよ。
 そう言い聞かせながら、顎のしたも指で撫でてやる。
 猫が気持ちよさそうに首を伸ばした。

 「お腹空いてるの? それなら、台所キッチンに来ないと」

 台所キッチンなら、少し甘えた声をだせば、ちょっとはエサをくれるかもしれない。甘い声が無理ならネズミでも捕まえてすり寄ったらいい。
 とは言っても、もう時間も遅い。
 今さら台所キッチンに行ったところで、パンくずすら見つけるのは難しいだろう。ロウソクの明かりだって消されてる。

 「あ、ちょっと待ってて」

 思い出したように、片手でスカートのポケットに当たりをつける。
 目当てのものを指で確認すると、猫を下に降ろして、それを取り出した。

 「はいこれ。少しだけどよかったらお食べ」

 ポケットから取り出したのは、二枚のビスケットだった。一枚を猫の手前の地面に置いてやる。もう一枚は、自分のぶんだ。 
 猫は、そのビスケットに鼻を近づけ匂いを嗅ぎだした。

 「今日は、特別だからね。晩餐会のおこぼれがいっぱいあったのよ」

 おこぼれといっても、自分がもらえたのは、このビスケットと、夕食の時のなべ底で焦げつきかけたスープだったが。それでも、めったに口にできない味はうれしかったし、ちょっとした楽しみでもあった。

 「あれ? 食べないの?」

 猫は、匂いだけ嗅ぐと、フンッとばかりにそっぽを向いた。

 ――気に入らない。

 そんな言葉がもれてきそうな態度だ。
 そして、チラリと自分の手のなかに残っていたビスケットに視線を送ってくる。

 「もしかして、こっちが欲しいの?」

 その態度に、なんとなく言いたいことを察する。
 ビスケットが嫌いなのではない。地面に置かれたビスケットを食べるのが嫌なのだろう。

 「……はあ。贅沢な猫ねえ」

 軽くため息を吐きだすと、猫の前にしゃがんで、手のひらにのせたビスケットを差し出した。

 「ほら、お食べ」

 自分のぶんが無くなってしまうことは気にしなかった。
 猫は、それが当然とばかりに、今度はビスケットに口をつける。
 手のひらのうえで、猫がパリパリと音を立ててビスケットを頬張った。口に収まらなかったビスケットのかけらが手のなかに落ちる。猫はそれすらも惜しいらしく、ビスケットを食べきると、今度は、手のひらをペロペロと舐めはじめた。

 「うわっ……‼ ちょっと、それっ、くすぐったぃ……」

 ザラッとした舌触りに、手を引っ込めたくなるのを我慢する。
 すると、調子に乗ったのか、猫は、何度も手のひらを舐めあげた。

 「フフッ……、ダメだってば。いたずらっ子ねえ」

 言いながらも、手を引っ込める気はない。他愛のない猫との触れあい。
 それが、ちょっとだけ楽しくて仕方ない。
 一日の仕事を終え、もう後は寝るだけの時間。
 仕事終わりの解放感からか、いつもとちょっとだけ違う今が、とても楽しい。ささやかな非日常。
 もう、次は訪れないだろう予感のある時間だからこそ楽しみたかった。
 
 「リーナッ!!」

 その呼び声に全身をビクリッとすくませる。
 同時に、猫が飛びずさり距離を取った。

 「いつまで外にいるつもりなんだいっ!! このまま締め出しちまうよっ!!」

 甲高くはないが、イラついた声に弾かれたように立ち上がる。

 「ごめんなさい、ハンナさん」

 その声の持ち主に詫びるように頭を下げながら、彼女が顔を出していたドアのなかに滑り込む。
 その直前、自分のいた場所を振り返ると、そこにはビスケットが一枚残されているだけで、あの猫の姿はどこにもなかった。
 おそらくは、ハンナの声に驚いて逃げ出したのだろう。
 ブツブツと文句を言い続けるハンナに追い立てられるように、リーナは自分が片付け終えた台所キッチンを抜けて、相部屋となっている使用人部屋に向かう。
 先に部屋に戻っていた仲間は、もう髪も下ろし早々にベッドにもぐりこんでいる。
 部屋に入ってきたリーナに声をかけることもなく、こちらに背を向けている。普段なら、少しは話しをするのに、今日は忙しすぎたからか、疲れているのだろう。もしかすると、もう眠っているのかもしれない。
 そう察したリーナは、手早く着替えると、自らもベッドにもぐりこむ。

 「おやすみなさい」

 一応、そう告げてから枕もとのランプを消した。
 モゾモゾと、ベッドのなかで寝る位置を確認しながら、そっと手を握りしめる。
 手には、あの猫の舌の感触が残っている気がした。
 同じことのくり返しのような使用人生活のなかで訪れた、ちょっとした出来事。
 きっと次はないであろう出来事を忘れないように、手を抱きしめるように身体を丸めて眠りにつく。

 月明りの差し込む使用人部屋。
 その小さな窓の向こう、灰色の猫がシルエットとなって、じっとその様子を窺っていた。
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