WEAK SELF.

若松だんご

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或る書曰く

九、照る月 満ち欠け

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 ――なんてこと。

 氷高は体が凍りつくような錯覚に陥った。
 慌てて駆け込んできた舎人の奏上。
 妹、吉備とその夫、長屋。二人の息子たちの死。

 左道を行い、皇太子基皇子を呪詛し、死に至らしめた罪により、妹夫婦とその子どもは死を賜った。死を命じたのは、甥である帝。兵を用いて彼らの屋敷を取り囲み、糾弾したのは、亡き父の異母弟おとうとたち。妹夫婦の叔父二人。

 「まさか……」と、続く言葉を失う采女や舎人たち。慟哭し泣き伏す者、崩れるように倒れる者。
 彼らがそのようなことをするわけがない。
 誰もがそう思っている。
 幼い基皇子の死は悲しいけれど、だからとて、呪われて殺されたなど、あり得るはずがない。
 彼らの声を聞き、同じように憤り心が煮えたぎるかと思ったけれど。

 ああ、またなのね。

 心はシンと冷えていく。
 涙の一筋も流れ落ちればいいのに。彼らに死を命じた甥に、糾弾した叔父たちに怒りを掻き立てればいいのに。
 心は動かない。
 また罪なき者が殺された。その事実に、諦めとも無関心ともつかない凪が心を凍りつかせる。
 また。
 またなのだ。
 また罪なき罪で誰かが殺されてしまった。
 今回は、それが自分の妹と、従兄弟で妹の夫だった男、その子どもたちだった。
 彼らを殺したのは、自分の甥。亡き弟の残した子。甥が叔母とその家族に死を命じた。
 甥は、我が子の死に心を狂わせたのかもしれない。子の死の嘆きと悲しみを、やるせない憤りを誰かにぶつけたかったのかもしれない。その矛先を感情のままに叔母家族に向けてしまった。

 愚かな。

 子を亡くす悲しみには同情する。だけど、それを誰かにぶつけてよいものではない。ましてや、相手の死を願うなど。
 妹夫婦は、ともに飛鳥浄御原帝の皇子と、淡海帝の皇女の間に生まれた者同士。母方には、蘇我の血が流れている。夫、長屋王の母御名部皇女はかつて帝であった母の姉。妻、吉備皇女は太上天皇となった私の妹。
 その血統の良さが、甥の脅威となったのだろうか。母親が藤原の娘という甥と違い、二人はともに皇子皇女の子。その上、妹夫婦には子が三人もいた。うち、長男の膳夫王はすでに成人し、子も生まれている。甥に何かあれば、皇統は彼ら夫婦へと移っていくだろう。妹とその夫。ともに、淡海帝の孫で飛鳥浄御原帝の孫。異論ある者はいない。
 いいえ。
 その血こそが、彼らを死へと追いやった。
 四十三年前、祖父、飛鳥浄御原帝の崩御に伴って殺された叔父夫婦のように。
 叔父は飛鳥浄御原帝の第三子で淡海帝の孫。妻は淡海帝の皇女。ともに蘇我の血を引くこと、叔父が優秀であったこと、二人の間に子が生まれたことが、私の父を帝位へと望んだ祖母の脅威となり、罪なくして死を賜った。
 罪は叔父にのみあると、単独での死を命じられたが、叔母は夫に殉じた。赤子だった従兄弟も一緒に亡くなった。
 彼らの死は、父にも母にも、その兄弟姉妹にも衝撃を与えた。
 そこまでして我が子に帝位を継がせたいか。甥と異母妹いもうとを殺してまでも。
 怒りは、祖母ではなく、息子である父へと向かった。祖母は、逆らえばいつでも命を奪うという強さを見せつけ従わせたが、権力という盾に乏しかった父は、本人も深く傷ついているのに、兄弟からの憎しみを一身に受けることになってしまった。
 心優しかった父は、叔父の死により心を壊し、祖母の願い虚しく帝位に就く前に亡くなってしまった。
 父も血に殺された。
 母は、自身の妹と従兄弟の死を夫の前で嘆いたことを最期まで後悔していた。自分の発した嘆きが、優しい夫を追い詰めたのだと悔いていた。父だけではない、母もまた優しい人だった。
 だから、叔父夫婦と夫を死に至らしめてまで祖母が続けようとした皇統を守った。死なせてまで続けることに意味を見出そうとした。我が子に帝位を継がせ、子が亡くなれば、自ら帝位に就き、孫皇子の即位まで繋ごうとした。

 ――おびとをお願い。
 
 死の床で母から託された皇統。母に倣い、自分も帝位に就き甥の成長を待った。

 ――もう誰も無駄に命を散らさぬように。散った命に意味があるように。

 それがせめてもの弔い。詫びることもできない泉下の人への手向け。
 母の強い思い。その思いを受け継ぎたいと思ったからこそ、甥の即位を願った。自分の人生を犠牲にしてまで帝位を守った。
 それなのに。

 (叔父様……)

 妹夫婦は殺された。
 私が守った甥によって、彼女たちが殺された。
 叔父の死を最後にすることができなかった。

 ――あたちがおじさまのおよめさんになってあげる!!

 遠い昔、叔父に言ったこと。
 叔母とともに妻となって叔父を支える。
 叔父も両親も、誰も本気にしなかったけれど、私は忘れていない。私はいつかあの明るく優しい叔父の妻になるつもりだった。叔母と二人で叔父に尽くすつもりだった。
 叔父が叔母と二人だけで出かけたと聞き、私が一緒に行きたかったとぐずったら、もう一度、今度は私を伴って蓮華の原に赴いてくれた。叔父は馬に私を乗せて共に駆け、叔母は作った花冠を髪に載せてくださった。父は「娘を取られた」と嘆いていらっしゃったけど、私には忘れることの出来ない思い出、お二人の優しさの記憶。
 だから、叔父夫婦が亡くなった時、妻として生涯操を守り続けることを密かに誓った。
 叔父が生きておられたら、彼ならばどのように政を推し進めたのだろう。叔母が生きておられたら、彼女ならばどのように民を慈しんだのだろう。そんなふうに思い浮かべながら帝となった。夫亡き後、政を執り行うは妻の役目だから。
 けれど。

 (叔父様、叔母様、申し訳ありません)

 叔父様たちの死を最後にすることはできませんでした。甥が継いだことで、妹たちが亡くなる運命へと繋がってしまいました。
 泉下の父母は、叔父は叔母は、いたらない、無力な娘をどう思っていらっしゃるのかしら。そして、黄泉路へと下っていった妹たちに、どのような言葉をかけていらっしゃるのかしら。

 (長生きなんてするものではないわね)

 もう流す涙などない。
 そう思っていたのに、かすかに体が軋み震えた。

 「世間よのなかは むなしきものと あらむぞと この照る月は 満ち欠けしける」

 世の中は、無情なものだと知らしめるように、月は無常に満ち欠けをくり返す。
 かつてこの皇統を守るために、幾人の血が流されたのだろう。そしてこの先、あとどれだけの命が散れば、すめらぎという化け物は満足するのだろう。

 「大宮に参ります」

 それだけを告げ、回廊に出る。
 今更、甥に会ってどうする。甥をなじったことろで、妹たちは戻らない。
 けれど、動かないわけにはいかない。
 次に流される血はいずれの血か。私のこの手で守れるものはもう残っていないのか。
 
 甍を青白く照らす初春の月。庭に漂う梅の花の香。
 あがいたところでどうにもならない奔流のなかにいるのだとしても。月の満ち欠けのように、とどまることを知らない、虚しい現し世であるのだとしても。

 生きている限り。息が続く限り。動かし方を忘れた心を叱咤し、今この時をあがき、もがき続ける。
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