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若松だんご

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或る書曰く

八、いにしへ思ほゆ

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 「十市。頼む、これはキミにしかできない」

 ああ、なんて残酷な言葉なの。
 両肩を掴み、ジッと目を覗き込まれるようにして告げられた言葉。

 ――異母弟おとうと異母妹いもうと、彼らの母。葛野。皆を連れて山科に行って欲しい。

 そう夫は言った。
 じきにここは戦場になるから、と。
 幼い弟妹、その母親。彼らを守ってくれ。后であるキミにしか頼めない。
 なんて残酷な言葉。
 そんな風に頼まれてしまったら、「否」とは言えなくなるではないの。
 目の前に立つ、鎧姿の夫。彼はこれから戦場に赴く。
 私の父と帝位をかけて戦う。父は、私の夫が帝となることを不服とし、遠く吉野で蜂起した。淡海に残っていた異母弟おとうと高市と大津まで呼び寄せ、伊勢、美濃、尾張の兵を引き連れ、この地を攻めてくる。先陣は、異母弟おとうと高市。彼は、父の尖兵となって軍を率いている。
 夫はこれから彼らと戦い交える。

 ――いかないで。

 そう言えたらどれだけいいか。

 ――いくのであれば、共に参ります。

 そう言えたらどれだけいいか。
 帝の位など、父が欲しがってるのなら、差し上げればいい。戦いだって恭順してしまえばいい。父が吉野に逃げる時、剃髪し、僧形になったように。夫も髪を剃り、隠遁すればいい。「若輩な自分には帝は重荷」と譲ればいい。

 戦わなくても。戦いに赴かなくても。

 どうしても戦いに行くというのなら、私を連れて行ってほしかった。共に戦う、剣を持つことは無理でも、せめて盾にぐらいは役に立てたかもしれないのに。
 攻めてくるのが父であっても、異母弟おとうとであっても、娘が軍の前に立ちはだかれば、多少は躊躇するでしょう。異母弟おとうとはその情の厚さゆえに。父は立場上、非情、冷酷と見られないようにするために。
 私を盾にしてその間に逃げて欲しい。息子と二人、生き延びて欲しい。
 なのに、夫はそれも許さない。
 逃げるのは、私と息子、幼い弟妹とその母。

 「大丈夫。戦が終わったら迎えに行く。少しのあいだ離れているだけだ」

 フッと口元を緩め、目を細めた夫。
 いつもの優しい顔。いつもの夫の顔。

 「ここにいて、ウッカリ矢でも飛んできたら大変だから。志貴や葛野、なんなら川島が驚いて粗相をしたらいけないし」

 「えっと、それは……、川島さまはさすがに……」

 夫の異母弟おとうと志貴と息子の葛野。ともによく似た年の幼子だから驚き粗相することもあるでしょうけど、川島さまは十も過ぎた男子おのこなのだから、それはないと思うのだけど。

 「わからないぞ。アイツはフラフラだし、どこか適当に生きてる感のあるヤツだからな。目の前に矢が飛んできたりしたら、粗相の一つや二つしてしまうかもしれない」

 「まあ……」

 いつもの軽い調子の夫。川島さまには悪いけど、悲痛な別れが少しだけ和み、微笑んだ拍子に、目に溜まっていた涙がこぼれ落ちた。
 その涙を夫が指の腹で拭いとる。
 
 「みんなで父上の陵を参ってくるといい。ちょっとした旅だ。あちらでは、今、ビワや桃がたわわに実ってるらしいから。葛野の好きな瓜もある。楽しんでおいで」

 泣いているのに。一度こぼれ落ちた涙は、止まることを知らず流れ落ちているのに。
 夫はどこまでも明るく、場違いなほど陽気に話す。
 
 「では、お土産に桃を持ちしますわ。アナタがお好きな桃を」

 「ああ、いいな。キミが手ずから摘んでくれた桃を食べるのは楽しみだ。きっと旨いに違いない」

 なによりの戦の報奨だ。
 夫が笑う。

 「ええ。たくさん。たくさん摘んでおきますわ。それこそ食べきれないほどに」

 戦が終わったら、きっとお腹ペコペコでしょうから。
 私も笑う。

 政争の具として娶された夫。
 夫は、私の従兄弟。
 先帝の娘二人を父が妻にした代わりに、母と私がそれぞれ先帝と夫に引き渡された。同母兄弟なのに、そこまでしなくてはいけないほど、父と先帝は仲良い兄弟ではなかった。
 先帝は、息子である夫に帝位を譲ることを望んだ。息子が優秀であることをご存知だったから。文武の才に優れた子であると知っていたから。自分の血を残したいと望まれていたから。
 でも、その結果はどうだろう。
 父親に嘱望された夫は、こうして剣を佩き、鎧、兜を身にまとう結果となった。
 本当は穏やかで争いを好まない、誰よりも平和を望んでいた人なのに。私の優しい夫で、幼い息子を愛しむ、穏やかな人なのに。
 
 「御武運を――」

 「ありがとう」

 本当は抱きしめたい。抱きしめて「行かないで」とすがりつきたい。その柔らかに微笑まれた唇に口づけたい。何もかも捨て去って、ただの男女おとこおみなとなって睦み合っていたい。
 政争で娶された相手だけれど、それでも愛しているのだと痛感する。この方の子を孕み、産み、そしてこうして別れとなった今、心の底から愛おしいと感じた。
 離れたくない。ともに生きたい。
 なのに、鎧が邪魔をする。鎧が夫を彼の方の人とする。この人は生きながら、すでに黄泉路を歩み始めている。
 ならば、私はこの方がその道を惑うことなく歩めるよう送り出すだけ。

 彼の定めたままに、都に残っていた子女を引き連れ、山科に隠れる。
 鳰の湖のほとり、瀬田の橋。そこに、彼を残して淡海を去る。
 遠く山を隔てた山科から彼は見えない。けれど彼の無事を祈って、丘に登り肩巾を振る。
 何度も、何度も。涙を流しながらくり返し、くり返し。
 私に母のような力はない。鏡の巫女であった母のような霊力は備わっていない。
 けれど、肩巾を振ることを止めない。
 彼の方の魂を呼び戻すために。彼の方の魂が惑わず歩めるように。
 
 戦は、夫、大友皇子の死を持って終わりを告げる。
 夫は、不死を得られるという桃を食すことなく逝ってしまった。私を現し世に残して。

*     *     *     *

 女陰ほとに突き立てられた猛き肉の塊。
 それがせわしなく女陰を擦り上げ、中を押し広げるように最奥を穿つ。
 痛くはない。女陰はしとどに濡れているから。
 処女おとめではない、子を設けたこともある体は、相手が誰であろうと、やすやすとそれを受け入れる。

 心を置き去りにして。

 私の体を組み敷くのは、夫ではない男。
 その男が息を荒くして、腰を動かす。目を閉じ、悦に入った男に私は見えてない。
 目も閉じず、嬌声をあげることもなければ、すがりつくこともない。男が動くたび、乳房が揺れ、視界が揺れる。手を握りしめたまま、ジッと閨事が身の上を過ぎ去るのを待つ。
 
 「うっ、あっ……クッ!!」
 
 縦横無尽に腰を振りたくっていた男が背を反らし、ブルッと体を震わす。
 二度、三度。穿つ肉竿。
 そのたびに、女陰の奥に熱い精が放たれる。

 「………ハアッ、ハアッ」
 
 汗ばんだ男の体がぐったりとのしかかる。覆いかぶさった男の、熱く荒々しい息の音が耳朶に触れた。

 これで満足?

 訊いてやりたいと思ったけれど、止めておいた。

 「愛してるよ、十市」

 大きな手で、私の乱れた髪を愛おしげに梳く。

 止めて。触れないで。
 髪に触れていいのは夫だけ。アナタが殺した、私の夫だけ。「愛してる」と告げていいのは、私の夫だけ。
 
 なのに、この男は私の中に精を放った。夫にしか許さなかった私の体に己を刻みつけた。
 何度も何度も。
 こうして抱かれるのはいったい何度目だろう。
 三年前、父の命で伊勢に下向し禊をして以来、毎夜のように通い続ける男。

 孕め、孕め。
 孕めばきっと変わる。
 孕めば前の夫など忘れて幸せになれる。

 「愛してる、愛してるんだ、十市っ!!」

 夫の代わりに男が私に雄を刻みつける。私の体を弄び、精を放ち果てる男。
 
 ――私の心がずっと涙を流していることなど知りもせずに。

*     *     *     *

 「愛されてるわね、十市」

 そう言ったのは母。贈り物を前にしての感想だった。
 男は毎夜通うだけでなく、せっせと贈り物を届けてよこした。簪、布、玉。母と暮らす宮にジワリジワリと男のものが増えていく。

 「これなんか、なかなか素敵な歌だわ」

 母が、贈り物についていた歌を読む。私が目にすることすらなかった文が、母の手で広げられ、日の光を浴びる。

 「また会えるとわかっていますが、それでも朝を告げる鳥の声が恨めしい――ね。高市さまにしてはなかなか情熱的じゃないの」

 歌詠みとして有名な母。その母が評価するのだから、素晴らしい歌なのかもしれない。けれど。

 「――そうですか」

 私の心に染み入ることはない。母が持つ文を見ることもない。
 ただ一点を見つめて座るだけ。
 
 「……母さま?」

 そばに座る息子、葛野が怪訝な顔をした。

 「どこか痛いのですか?」

 喋らない私を心配したのだろう。喋らないのは、座ったままなのは、どこか痛くて辛いからだと思ったらしい。

 「大丈夫よ。ありがとう、葛野。アナタは優しい子ね」

 夫と一緒で。
 軽く抱き寄せ頭を撫でてやると、「エヘヘ」と葛野が笑った。
 この手は子を慈しむ時だけ動かす手。他に抱きしめるものなどない。
 
 「優しいと言えば、高市どのもお優しいですよ」

 腕の中で葛野が言った。

 「この間、ぼくが大津どのの馬に乗せてもらったって話したら、これからは武芸も磨いたらいいっておっしゃって。今度、ぼくが乗れるような馬をくださるそうです」

 「あら、それは素敵ね」

 私の代わりに母が答えた。

 「はい!! ぼく、いつか川島の叔父上や大津どのと一緒に馬で駆けてみたいなって思ってたから。馬の乗り方も、ちゃんと教えてくださるっておっしゃってました」

 止めて。
 子に馬を贈るのは父親のすること。この子の父親を殺した男のすることじゃない。
 だけど。

 「それは楽しみね。大津や川島さまに迷惑のかからないよう、しっかり鍛錬しなくてはいけないわね」

 「はい!!」

 この子の楽しみを私が奪ってはいけない。

 「大津どのも、ぼくが上手く乗れるようになったら、忍壁どのも誘ってみんなで出かけようとおっしゃってくださいました。川島の叔父上も、高市どのは政務でお忙しいけど、自分たちならいつでも大丈夫だからって」

 「えーっと。川島さまは、それでいいのかしら?」

 川島さまは、政に参与されてないとはいえ、もう二十歳を過ぎた大人。あの頃とは違って、立場あるお方なのに、この子と馬を駆けさせてていいのかしら。

 「いいんだそうです。“始聴朝政”を命じられるまではトコトン遊びつくすんだとか」

 「まあ」

 「大津どのも呆れてました。それでいいのかと」

 異母弟おとうとも同じ意見だったらしい。
 でも。

 大切に思ってくれている。
 
 幼くして父を亡くしたこの子を。
 大津はわずか四つで母親を亡くし、十の時には姉とも引き離された。頼る者のいない、寄る辺のない寂しさを知ってるのだろう。大津だけではない。この子の叔父にあたる川島さまも。父親を亡くしたこの子を慈しんでくれている。気にかけてくれている。

 「母さま、ぼくね、いつか大津どのみたいになりたいって思ってるんです。あんなふうに、文武に優れた皇子になりたいって思ってるんです」

 「そうね。大津は素晴らしい皇子だものね」

 この子はいくら努力しても「皇子」にはなれない。父親が政敵として死んでしまったから。大津のように「帝の子」にはなれない。
 だけど、大津の優しさを受け継いでくれれば。かつての夫のような優しい心根を持ってくれれば。夫と大津は従兄弟であり、叔父甥の関係にあるからか、よく似た気質の持ち主。あの子を手本とすれば、この子は夫のような性格の人に育つかもしれない。

 「でもね、武芸は高市どのを真似たらいいかなって思ってるんです。武芸は高市どののほうが優れてるから」

 「――高市?」

 動かすつもりのなかった眉がピクリと震えた。

 「ええ。この間の講武で、大津どのより高市どののほうが正確に的を射たんだそうです。五つ射って、大津どのが二射、草壁どのが三射、高市どのが五射すべて的に当てたのだそうです。すごいですよね。五つ射って、すべて的の中央を射抜いたとか」

 「それはすごいわね」

 声が硬くなった。
 さすが、私の夫を殺すだけの蛮勇を誇るだけあるわね。
 夫の最期は首を掻き切っての自害だけど、そこに追い詰めるまで矢を射掛けたのはあの男だ。従兄弟である夫に、容赦なく攻撃を加えたあの男。

 「なら葛野、馬のついでに弓も習ったらどう?」

 母が提案した。

 「きっと高市どのも喜んで引き受けてくれるのではなくて?」

 意味ありげな母の言葉。
 馬も弓も教えるべき、授けるべきは、子の父親。それをあの男にさせるとは。
 
 この子の父親に、あの男を迎え入れよ――と?
 この子の父親を奪った男なのに? 
 私を凌辱し続ける男なのに?

 驚き、母を見ると、艶然と微笑みかえされた。 
 
 ああ、そうだ。
 この母は、夫であった父から離れ、他の男、先帝へと嫁いだ女だった。先帝の妻となっても、父との関係を続けた。年老いて孫もいるのに、恋を忘れない。父とヨリを戻しただけでなく、他にも恋を交わし合う相手がいる。
 恋なくして生きていけない。恋なくして歌は詠めない。そういう多情な女だった。
 私とは違う。

 「ダメよ、葛野。これ以上高市に迷惑をかけてはいけないわ。馬も弓も別の者、そうね、大津にでも習いなさい。あの子なら、勉学についても教え授けてくださるわよ」

 この女に私の気持ちは理解できない。母であっても理解を得られない。
 何度も抱かれているのに、こんなに大事にされているのに、高市を愛さない私を、母は永遠に理解しないだろう。
 母と私では愛し方が違う。 

 「でも大津どのは……」

 「二射しか当てられなかったのは、きっと弓のせいでしょう。あの子の腕は亡き淡海のお祖父さまが保証します。淡海で、アナタと同じ年頃に、すべて的を射ておりましたから」
 
 「そうなのですか?」

 「ええ。だから安心して師事すればよいと思いますよ」

 少なくともあの男に習うよりは。

 「でも、弓……かあ」

 「葛野?」

 「あのね、川島の叔父上もおっしゃってたんです。『弓が悪い。調子がでないのは弓のせいだ』って。川島の叔父上は、弓のせいで全部外したそうです」

 「まあ」

 「でもそうすると、弓の調子が悪いのに二射当てられた大津どのはすごいってことになりますよね!! どんな弓でも的を射られたんですもの!!」

 「そうね」

 あの子が二射しか当ててないのは、きっと草壁に遠慮したから。あの子は、異母兄あにである草壁との諍いの渦中にいる。夫と同じ道を辿らぬよう、細心の注意を払って生きている。

 でも、あの子が生き残る術はあるのかしら。

 不穏な思いが頭をもたげる。
 夫に思慮が足りなかったわけじゃない。夫は、先帝の思惑に振り回されただけ。
 従姉妹である私を娶せたのも、太政大臣に任じたのも、後継者とみなしたのもすべて先帝だった。
 夫は先帝の駒。
 先帝は思うままに国を動かし、子を動かした。
 子が何を思うかなど気にかけることなく、己の望むままに動かした。

 ――たけるが生きていたらな。

 いつだったか、夫が吐露した言葉。
 健皇子は夫の異母弟おとうと。母が蘇我倉山田石川麻呂の娘という、今の皇后鸕野讚良うののささらの同母の弟にあたる。夭折したその異母弟おとうとが生きていたなら、先帝の後を継いだのはその健皇子。その子ならば、誰言うことなく頭を垂れたのに。夫は政争の場に引きずり出されることなく、帝の異母兄あにとして生きながらえることができたのに。
 ああ、でももしそうだったとしたら、私は建皇子に嫁いでいたのかしら。夫ではなく。
 私と夫の結婚は、政の駆け引きの結果だった。
 父と伯父は、仲良きこと、二心なきことを表すため、互いの妻や娘を交わしあった。交された者がどう思うかなど考えない。血の繋がりのある者ですら駒として扱う非情な所は、さすが兄弟、よく似ていた。
 そんな結婚だったから、夫は私に、「愛してる」とは言ってくれなかった。大切にして、子を授けてはくださったけれど、「愛して」はくれなかった。私を山科へ送り、生き延びさせた。最期まで共にありたいと願ったのに、許してくれなかった。

 私が自分を滅ぼすであろう男の娘だったから?
 私がこうして別の男に抱かれるような女だから?

 私の中に何度も精を注ぎ、飽きることなく抱き続けるあの男。戦に勝ち、夫を滅ぼした報奨として、父に私を下賜するよう求めているのだと言った。そのために、武勲を立てたのだと。私の夫を殺したのだと。
 亡き夫を想い、慕い、夢でもいいから会いたいと願っても、それを遮るように体を這い回る男の手。
 私が大人しく受け入れるのは、好いたからじゃない。眠ったところで、望んだところで、この男に汚された体で夫に会うことはできないと悟ったから。愛してもいない妻に、夫は会いに来てくれないから。
 私が壊れていくのに、誰も助けてくれない。夫はいない。

 「――母さま?」

 グッとこみ上げる不快な熱い塊。
 我慢できなくなって口を押さえ、宮の階へと駆け寄り、土の上にそれを吐き出す。
 
 「ウッ……、グッ……!!」

 穢れた体から溢れる吐瀉物。
 すべて、すべて吐き出してしまいたい。毎夜注ぎ込まれる男の精も、この体に刻まれる忌まわしい愛撫の記憶も。
 自分で腹を押さえこみ、すべてを吐き出すように促す。ろくに食べてもないのに吐こうとするからか、最後は血の混じった胃液が土の上に滴り落ちた。
 
 「母さま、大丈夫?」

 追ってきた幼い手が背中をさする。

 「十市、アナタまさか……」

 続いてやってきた母。
 ハアハアと息を乱しながら、涙で滲む母を見上げる。

 「おめでとう」

 母の視線が私の腹に注がれる。
 
 ――子が宿った。
 
 そう言いたいのだろう。
 月のものも遅れている。あれほど頻繁に精を注がれていればいずれはそういうことになる予感はあった。けれど――。

 「ウッ……、カハッ!!」

 手すりを握りしめ、何度も無理やり吐き出す。
 子なんていらない。ほしくない。
 
 「そうとなれば、さっそくご報告申し上げなくては。子ができたとなれば、帝もお許しくださるしかないわね」
 
 嬉しそうに去っていった母。
 報告ついでに父に会えることを楽しみにしているの? それとも、あの男の庇護下に入ることを良しと思ってるの? 夫を殺されたのに、次の愛に生きよと?
 老いても美しいその笑みは、とても醜く思える。

 「母さま? 苦しいのですか?」

 「大丈夫よ」

 口元を拭い、案じ続ける子を抱きしめる。

 私の子は、この葛野だけ。
 愛してくれなかったとしても、夫と交わり孕んだこの子だけ。優しく案じてくれるこの子だけ。
 
*     *     *     *

 数日後。
 男が嬉しそうに報告を持って宮を訪れた。
 父が結婚を認めてくれた。御名部皇女が妃なのは変わらないが、それに続く夫人として暮らすことを許されたと。
 ただ、一度夫を持った身なので、清めてからの結婚となる。倉橋河に斎宮を建て、しばらくそこで過ごし潔斎せよとこのことだった。
 潔斎をし、身を清めたら、私は男の妻になる。妻にされてしまう。

 「おめでとうございます、異母姉上あねうえ
 
 「潔斎中は、オレたちが葛野の面倒を見ますから。十市殿は安心して身を清めてきてください」

 「馬を駆けさせるにはいい季節ですし。斎宮から戻られたら、葛野の雄姿をお話しいたしますよ。一緒に遠出するって約束してますからね」

 次いで、宮を訪れたのは、異母弟おとうと大津と夫の異母弟おとうと川島。潔斎後、私があの男の妻になることを知り、言祝ぎに来てくれた。
 川島は、かつて淡海にいた時のように「義姉上」と私を呼ばない。私が新たにあの男の妻になり、義姉ではなくなるから。
 大津は聡い子だ。私があの男の子を孕んでいることを察しているのだろう。子を孕みでもしない限り、父があの男との結婚を許さないであろうことも。だから、あえて別の、明るい話題を持ってくる。

 「大津、川島さま。あの子のことを、よろしくお願いいたします」

 「異母姉上あねうえ?」

 「あの子、大津にとても憧れているの。アナタみたいになりたいんだって言っていたわ」

 フフッと笑い伝えると、大津が一瞬だけ身を固くした。
 ああ、この子はわかっているのだ。人から称賛を受けるということがどういうことなのか。わかっていて、わざと劣る自分を演じている。葛野には、弓が劣っていたから草壁に負けたと言っておいたが、それは嘘。この子は皇后に睨まれぬようわざと外したに違いない。夫と同じ道を歩まぬように、必死にもがいている。

 「十市殿、オレは? 葛野は、オレについては何も言ってないんですか?」

 川島が情けない声で自分を指さす。

 「お前は弓を全部外しただろ」

 「だってよお。あれは弓が悪かったんだよ。弓さえ良ければ、オレだって高市どのみたいにっ、――ってな」

 川島が見えない弓弦を引き鳴らす。

 「ほら全射的中!!」

 どうだろう。見えない矢ではなんとも評価しづらい。

 「川島さま。川島さまのことは、夫がよく頼りになると申しておりましたわ。ですから、川島さまもあの子のことをお頼み申しあげますわ。叔父としてあの子を導いてやってくださいまし」

 「任せてください!!」

 ドンッと胸を叩いてみせた川島。

 「不安だな。余計に」

 眉を寄せた大津。

 「大丈夫ですよ。大津と川島さま、二人の叔父がいれば、あの子も安心するでしょう」

 大津は私の異母弟おとうと。川島は夫の異母弟おとうと。葛野にとって、どちらも叔父。
 夫によく似た、心優しく聡い叔父と、頼りないけど、その頼りなさで人を和ませる叔父。
 私を凌辱し続けるあの男ではない。私を理解しない恋多き母でもない。私を心なき駒として扱う父でもない。

 「よろしく頼みます」

 彼ら二人に愛し児を託す。
 
*     *     *     *

 潔斎は、なるべく腹の目立たぬうちが良いとされた。
 腹が膨らんでは、何かと言繁くよからぬ噂をたてられてしまう。あれでもあの男は政の一翼を担う人物。醜聞は避けたいらしい。

 ――葛野、元気でね。

 想いをこめて抱きしめた我が子。穢れた身で抱きしめることにためらいはしたものの、これが最後だと思うと止められなかった。

 ――母さまもお元気で。

 潔斎の間だけ。そう、あの子は思っていたに違いない。
 潔斎がすみ、清くなった体であの男に嫁げば、また一緒に暮らせると。
 だけど。

 「ごめんなさい、葛野」

 一人、薄暗い室で取り出したのは、小さな守り刀と茅色の花の種、桃仁。ここに来る時、隠し持ってきた。

 (本当は、桃を持ってきたかったのだけど。これで許してくださらないかしら)

 今は春。花は咲いているけど実は成ってない。
 たくさん摘んで、召し上がっていただくと約束したのに。私は未だにその約束を果たせていない。
 あの人の大好きだった桃。今あるのは、その乾いた種。 
 手のひらに載せた桃仁をすべて噛み砕き、喉へと流し込むと、目を閉じその時を待つ。

 「グッ……!!」

 葛野を産んだ時より重く鈍く、それでいて鋭く刺すような痛みが脈打つように腹に生じる。

 (これでいい。これでいいの――)

 苦しみと同時に荒くなる息を殺す。下唇を噛み締め、声を呑み込む。
 気づかれてはダメ。気づかれたら、またもとに戻される。この子を流しても、またあの男に精を注がれるだけ。望まぬ腹に子を孕まされる。

 (痛……いっ!!)

 それは腹の子がまだ生きていたいと叫んでる証拠のよう。母に望まれずとも、父が望んでる。なのになぜを殺すのか。に罪があるのか。罪なくして、生も受けずに死ぬのか。嫌だ。

 (大丈夫よ、一緒に逝ってあげるから)

 体中から吹き出す汗。震える指先。霞む目。のたうち、床に転げ、刀を手にする。
 
 「う、あ……、あ……」

 ドクリと下腹部から血とともに流れ落ちた塊。白妙の衣、裳が紅に染まる。同時に刀を首筋にあて、そのまま真っ直ぐに刃を引く。

 (これでいい……)

 噴き出す血。鮮血が視界を染める。
 これでいい。
 子は流した。私は身を清めたわ。尊くも忌まわしい大君につながる血をもって潔斎したのよ。
 あの人の妻として生きていた頃と同じ、清い体になった。

 (これでやっと会いに行ける)

 穢れた体を脱ぎ捨て、彼に会いに行ける。
 閉じたまぶたの向こう。笑って水辺に立つ、夫の姿が見えた気がした。
 私を閉じ込めるように山籠もる飛鳥を離れた、遠く鳰の湖のほとり。淡海の都。そこで愛しい夫が待っている。
 
*     *     *     *

 天武七年四月、十市皇女、卒然に病発、宮中にて薨せぬ。

 十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首。

 三諸の神の 神杉 去年のみを 我とみえつつ 寝ねぬ夜ぞ多き
 (三輪山の神の神杉のように神々しいアナタを想って眠れぬ夜が多いのです)

 三輪山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみ故に 長しと思ひき
 (三輪山の真麻木綿は短いと知っていたけれど、木綿と違ってアナタの命は長いと思っていました)

 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
 (山吹の咲く山の清水を汲みに行きたいのに、そこまでの道を知らないのです) 
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ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

つきが世界を照らすまで

kiri
歴史・時代
――頃は明治 絵描きの話をしよう―― 明治二十二年、ひとりの少年が東京美術学校に入学するために上京する。 岡倉天心の「光や空気を描く方法はないか」という問いに答えるために考え描かれていく彼の作品は出品するごとに議論を巻き起こす。 伝統的な絵画の手法から一歩飛び出したような絵画技術は、革新的であるゆえに常に酷評に晒された。 それでも一歩先の表現を追い求め、芸術を突き詰める彼の姿勢は終生変わることがない。 その短い人生ゆえに、成熟することがない「不熟の天才」と呼ばれた彼の歩んだ道は決して楽ではなかっただろう。 その人は名を菱田春草(ひしだしゅんそう)という。 表紙絵はあニキ様に描いていただいたものです。

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