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或る書曰く
五、百重なす心 思へど(五)
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不思議には思っていた。
なぜ、この吉野に彼女たちも招かれていたのか。
忍壁、志貴はわかる。忍壁は十三。これからのことを考えれば、政への参与も視野に入れ、誓うこともいいだろう。志貴も同じだ。彼は忍壁よりも幼いが、祖父淡海帝の末子。川島と一緒に誓い従わせておいた方がいい。
だが、明日香と山辺は? 姉、御名部のもとに身を寄せていた阿閉は年頃的にもそういう話があってもいいが、淡海で暮らしていた志貴とともに、幼い明日香と山辺まで招いた理由は? 忍壁の母、穀媛娘を連れてきたのは、彼女を寵愛しているからだと思っていたが、それは間違いで、こうして異母妹たちを娶せるため、列席させる支度のためだったのか?
そして、父の思惑を異母兄高市は知っていだ。
だから、伶たちに蟹の歌を命じた。
蟹の歌。
それはかつて、品陀和気帝が酒の席、それも妃の宮主矢河枝比売を娶る時に詠ったもの。つまりこの宴席が、妹背を娶るものだと、高市は知っていたのだ。
同じく、草壁も。
彼もまた、隣に座り目を丸くしている阿閉と違って、何一つ動揺していない。皇后から予め知らされていたのだろう。だから驚かない。
(妹背――か)
嫌だと言っても許されないのだろう。これ以上、父の思惑で自分の末を絡め取らないでくれと懇願しても。
チラリと叔母、皇后を見る。
息子、草壁が第一位となり、妻に自分の異母妹阿閉を迎えることは賛成しているのだろう。阿閉、御名部の姉妹の母親は、叔母と亡母の母、自分の祖母遠智媛と姉妹。共に、蘇我倉山田石川麻呂の裔。阿閉は叔母から見て、異母妹であると同時に、従姉妹でもある。御名部はその年回りから、高市の妻になったが、草壁より一つ年上の阿閉なら、その血筋年齢共に、草壁に相応しい相手だろう。将来草壁が帝位に就いた時、隣に並び立つことができる。もしかしたら、それを視野に入れ、叔母が用意したのかもしれない。
だがそれは、自分の隣に座る山辺にも同じことが言えた。
山辺の母は、蘇我倉山田石川麻呂の弟、蘇我赤兄の娘。蘇我の血の入った皇女が皇后に相応しいというのであれば、山辺もまた皇后に相応しいだけの身分を有している。
叔母が父の皇后となれたように、阿閉も山辺も皇后になる可能性を秘めている。
おそらく、これは父の差し金。草壁だけを優位にしない、草壁と自分はあくまで対等という、父の意志。
それを、叔母がどう思っているのか。ピクリとも動かない、冷たい横顔から読み取ることはできない。
「大津さま……?」
不安げな山辺の声に、我に返る。
ダメだ。自分が気を塞いでいては。
「ごめんね。ちょっと驚いちゃって。まさか宴席に、こんな素晴らしい縁が隠されていたなんて知らなかったから」
そうだ。この結婚が父の意志で娶されたものであっても、その責は山辺にはない。彼女だって、自分と同じ。父に翻弄されただけなのだから。
「ふつつかな、いたらない夫だけど、よろしくね、山辺」
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ニッコリ笑って伝えると、山辺が顔を赤らめ微笑み返してくれた。
少し紅を掃いたのだろうか。その唇はやや大人っぽく感じられた。けれど。
(なんか不釣り合いだな)
美しくない……というのではない。皇女らしい装いは素晴らしいし、似合ってないわけじゃない。だけど。
「あっ……」
軽く声を上げた山辺。
「おっと」
彼女の袖がもたつき、器を引っかけた。カタンと、倒れかけた高坏をすんでのところで支え直す。
「す、すみません、わたくし……」
「いや、いいよ。でもそれより、その衣……」
「阿閉の異母姉さまからお譲りいただいたものです。宴には、ぜひこれを着ていくようにと」
「あー」
なるほど。
十八になる阿閉の衣装。それをわずか十二の妹が着こなす。
阿閉にちょうどいいようにあつらえたものだから、彼女には大きすぎてブカブカなのだろう。大きくなったとは言え、まだ山辺は幼い。だから、距離を計るのが難しく、高坏を引っかけてしまう。現に、その手は内衣の袖から抜け出せず苦労している。
先程からあった違和感はそこか。
「あの……、似合いませんか?」
「あ、いや。そんなことはないよ。そんなことはない。絶対に」
「絶対に」の部分を強調して伝える。
体には合ってないけれど、顔立ちに合ってないわけじゃない。あと数年もすれば、その衣装に見合うだけの背丈となって、花ほころぶように美しく装えるだろう。
「すごくキレイだよ。僕の妻にしていいものかどうか、早くキミのその肩巾をどこかに隠さなきゃ、天に帰ってしまうんじゃないかって思えるぐらいにね」
「あの……、お褒めいただくのはうれしいのですが、それは、さすがに……」
団扇の向こうに顔を隠した山辺。
「あ、うん、ゴメン。でも本気だよ」
言い過ぎたなと、自分でも思う。
つい、隣の忍壁につられて、本音をペラペラ喋ってしまった感はある。
山辺を挟んだ隣、忍壁は先程から妻に娶せられた明日香に対し、この魚はどうとか懸命に語っている。忍壁と明日香は今日が初めての出会い。まだ幼い彼らが夫婦として過ごすのはもう少し後になるだろうが、それでも与えられた妻に興奮しているのは間違いない。「こーんな蟹」と、大きく手を広げて饒舌に話しているのが見えた。
誓いに招かれ、妻を娶され。大人の仲間入りをしたようでうれしいのだろう。美豆良髪姿なのに、精一杯年上ぶって話す弟は素直に微笑ましい。
その向こうに見える志貴と託基は、互いに「結婚」「夫婦となれ」と言われても理解できていないらしい。どちらかというと、「友達」のような雰囲気で食事を楽しみ始めている。わずか九つと六つの夫婦では、そんなものだろう。
それに対し、ギャアギャアとうるさいのが、川島と泊瀬部。
川島が「泊瀬部かあ……」なんて呟いたのがキッカケだった。「なんですか? わたしじゃ不満なんですか?」と泊瀬部が詰めより、「いや、そういうわけじゃないけどさ……」と川島がしどろもどろで弁明をくり返す。
川島は今年、二十二。彼に相応しいのは阿閉と同い年の姉だろう。今は遠く伊勢の斎宮となっている姉、大来。姉は、十八。十歳の泊瀬部よりは釣り合いが取れただろう。だからこその川島の失言だったのかもしれない。
(姉上……)
わずか十二歳で斎宮に選ばれた姉。もう六年も会ってない。
彼女が今この席にいたら、川島の隣に座っていたら。
父の思惑がなんであれ、ここで夫を迎えていたら。自分は弟として、素直に祝福していただろう。たった一人の姉の幸せを、心から言祝いでいただろう。
斎宮として白練の衣をまとうのではなく、山辺のような新しくあつらえた華やかな衣装を身にまとい、この場にいたら。どれほど美しく映えたのだろう。
泊瀬部には申し訳ないけれど、そんなことを夢想してしまう。
亡き母に似た面差しの姉は、今、どれほど美しくなられているだろう。
「さて、そろそろ食べようか。この魚、忍壁が獲ったんだよ」
「忍壁さまが?」
山辺が少しだけ、団扇から顔をのぞかせた。
「うん。高市異母兄上が面白い漁をしてくださってね。こうやって、持ち上げた岩を川の下にある岩に力一杯叩きつけるんだ。それだけで魚がプカプカ水面に浮かぶ」
忍壁じゃないけれど、自分も身振りをつけて説明する。
「大津さまは? 大津さまが獲られた魚はないのですか?」
「えー、あー。うん。僕は川ですっ転んで溺れただけ。意外と川の岩はヌルッと滑りやすいんだ。ひっ被った川の水はものすごく冷たかったよ。あんな川で始終泳いでる魚は、よく凍りつかないものだと感心するよ」
「まあまあ」
袖で口元を隠し、クスクスと笑う山辺。
川で滑ってころんだだなんて格好つかない話だけど、彼女が笑ってくれたのならそれでいい。
「次はきっとすっごい獲物を捕まえるよ。そうだな、勇魚ぐらい大きいやつ」
大げさなぐらい手を広げる。
「楽しみにしてます」
姉が斎宮として下向した時と同じ年頃の山辺。
その笑顔は、遠い昔、過ぎし日の姉の笑顔に重なって見えた。
なぜ、この吉野に彼女たちも招かれていたのか。
忍壁、志貴はわかる。忍壁は十三。これからのことを考えれば、政への参与も視野に入れ、誓うこともいいだろう。志貴も同じだ。彼は忍壁よりも幼いが、祖父淡海帝の末子。川島と一緒に誓い従わせておいた方がいい。
だが、明日香と山辺は? 姉、御名部のもとに身を寄せていた阿閉は年頃的にもそういう話があってもいいが、淡海で暮らしていた志貴とともに、幼い明日香と山辺まで招いた理由は? 忍壁の母、穀媛娘を連れてきたのは、彼女を寵愛しているからだと思っていたが、それは間違いで、こうして異母妹たちを娶せるため、列席させる支度のためだったのか?
そして、父の思惑を異母兄高市は知っていだ。
だから、伶たちに蟹の歌を命じた。
蟹の歌。
それはかつて、品陀和気帝が酒の席、それも妃の宮主矢河枝比売を娶る時に詠ったもの。つまりこの宴席が、妹背を娶るものだと、高市は知っていたのだ。
同じく、草壁も。
彼もまた、隣に座り目を丸くしている阿閉と違って、何一つ動揺していない。皇后から予め知らされていたのだろう。だから驚かない。
(妹背――か)
嫌だと言っても許されないのだろう。これ以上、父の思惑で自分の末を絡め取らないでくれと懇願しても。
チラリと叔母、皇后を見る。
息子、草壁が第一位となり、妻に自分の異母妹阿閉を迎えることは賛成しているのだろう。阿閉、御名部の姉妹の母親は、叔母と亡母の母、自分の祖母遠智媛と姉妹。共に、蘇我倉山田石川麻呂の裔。阿閉は叔母から見て、異母妹であると同時に、従姉妹でもある。御名部はその年回りから、高市の妻になったが、草壁より一つ年上の阿閉なら、その血筋年齢共に、草壁に相応しい相手だろう。将来草壁が帝位に就いた時、隣に並び立つことができる。もしかしたら、それを視野に入れ、叔母が用意したのかもしれない。
だがそれは、自分の隣に座る山辺にも同じことが言えた。
山辺の母は、蘇我倉山田石川麻呂の弟、蘇我赤兄の娘。蘇我の血の入った皇女が皇后に相応しいというのであれば、山辺もまた皇后に相応しいだけの身分を有している。
叔母が父の皇后となれたように、阿閉も山辺も皇后になる可能性を秘めている。
おそらく、これは父の差し金。草壁だけを優位にしない、草壁と自分はあくまで対等という、父の意志。
それを、叔母がどう思っているのか。ピクリとも動かない、冷たい横顔から読み取ることはできない。
「大津さま……?」
不安げな山辺の声に、我に返る。
ダメだ。自分が気を塞いでいては。
「ごめんね。ちょっと驚いちゃって。まさか宴席に、こんな素晴らしい縁が隠されていたなんて知らなかったから」
そうだ。この結婚が父の意志で娶されたものであっても、その責は山辺にはない。彼女だって、自分と同じ。父に翻弄されただけなのだから。
「ふつつかな、いたらない夫だけど、よろしくね、山辺」
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ニッコリ笑って伝えると、山辺が顔を赤らめ微笑み返してくれた。
少し紅を掃いたのだろうか。その唇はやや大人っぽく感じられた。けれど。
(なんか不釣り合いだな)
美しくない……というのではない。皇女らしい装いは素晴らしいし、似合ってないわけじゃない。だけど。
「あっ……」
軽く声を上げた山辺。
「おっと」
彼女の袖がもたつき、器を引っかけた。カタンと、倒れかけた高坏をすんでのところで支え直す。
「す、すみません、わたくし……」
「いや、いいよ。でもそれより、その衣……」
「阿閉の異母姉さまからお譲りいただいたものです。宴には、ぜひこれを着ていくようにと」
「あー」
なるほど。
十八になる阿閉の衣装。それをわずか十二の妹が着こなす。
阿閉にちょうどいいようにあつらえたものだから、彼女には大きすぎてブカブカなのだろう。大きくなったとは言え、まだ山辺は幼い。だから、距離を計るのが難しく、高坏を引っかけてしまう。現に、その手は内衣の袖から抜け出せず苦労している。
先程からあった違和感はそこか。
「あの……、似合いませんか?」
「あ、いや。そんなことはないよ。そんなことはない。絶対に」
「絶対に」の部分を強調して伝える。
体には合ってないけれど、顔立ちに合ってないわけじゃない。あと数年もすれば、その衣装に見合うだけの背丈となって、花ほころぶように美しく装えるだろう。
「すごくキレイだよ。僕の妻にしていいものかどうか、早くキミのその肩巾をどこかに隠さなきゃ、天に帰ってしまうんじゃないかって思えるぐらいにね」
「あの……、お褒めいただくのはうれしいのですが、それは、さすがに……」
団扇の向こうに顔を隠した山辺。
「あ、うん、ゴメン。でも本気だよ」
言い過ぎたなと、自分でも思う。
つい、隣の忍壁につられて、本音をペラペラ喋ってしまった感はある。
山辺を挟んだ隣、忍壁は先程から妻に娶せられた明日香に対し、この魚はどうとか懸命に語っている。忍壁と明日香は今日が初めての出会い。まだ幼い彼らが夫婦として過ごすのはもう少し後になるだろうが、それでも与えられた妻に興奮しているのは間違いない。「こーんな蟹」と、大きく手を広げて饒舌に話しているのが見えた。
誓いに招かれ、妻を娶され。大人の仲間入りをしたようでうれしいのだろう。美豆良髪姿なのに、精一杯年上ぶって話す弟は素直に微笑ましい。
その向こうに見える志貴と託基は、互いに「結婚」「夫婦となれ」と言われても理解できていないらしい。どちらかというと、「友達」のような雰囲気で食事を楽しみ始めている。わずか九つと六つの夫婦では、そんなものだろう。
それに対し、ギャアギャアとうるさいのが、川島と泊瀬部。
川島が「泊瀬部かあ……」なんて呟いたのがキッカケだった。「なんですか? わたしじゃ不満なんですか?」と泊瀬部が詰めより、「いや、そういうわけじゃないけどさ……」と川島がしどろもどろで弁明をくり返す。
川島は今年、二十二。彼に相応しいのは阿閉と同い年の姉だろう。今は遠く伊勢の斎宮となっている姉、大来。姉は、十八。十歳の泊瀬部よりは釣り合いが取れただろう。だからこその川島の失言だったのかもしれない。
(姉上……)
わずか十二歳で斎宮に選ばれた姉。もう六年も会ってない。
彼女が今この席にいたら、川島の隣に座っていたら。
父の思惑がなんであれ、ここで夫を迎えていたら。自分は弟として、素直に祝福していただろう。たった一人の姉の幸せを、心から言祝いでいただろう。
斎宮として白練の衣をまとうのではなく、山辺のような新しくあつらえた華やかな衣装を身にまとい、この場にいたら。どれほど美しく映えたのだろう。
泊瀬部には申し訳ないけれど、そんなことを夢想してしまう。
亡き母に似た面差しの姉は、今、どれほど美しくなられているだろう。
「さて、そろそろ食べようか。この魚、忍壁が獲ったんだよ」
「忍壁さまが?」
山辺が少しだけ、団扇から顔をのぞかせた。
「うん。高市異母兄上が面白い漁をしてくださってね。こうやって、持ち上げた岩を川の下にある岩に力一杯叩きつけるんだ。それだけで魚がプカプカ水面に浮かぶ」
忍壁じゃないけれど、自分も身振りをつけて説明する。
「大津さまは? 大津さまが獲られた魚はないのですか?」
「えー、あー。うん。僕は川ですっ転んで溺れただけ。意外と川の岩はヌルッと滑りやすいんだ。ひっ被った川の水はものすごく冷たかったよ。あんな川で始終泳いでる魚は、よく凍りつかないものだと感心するよ」
「まあまあ」
袖で口元を隠し、クスクスと笑う山辺。
川で滑ってころんだだなんて格好つかない話だけど、彼女が笑ってくれたのならそれでいい。
「次はきっとすっごい獲物を捕まえるよ。そうだな、勇魚ぐらい大きいやつ」
大げさなぐらい手を広げる。
「楽しみにしてます」
姉が斎宮として下向した時と同じ年頃の山辺。
その笑顔は、遠い昔、過ぎし日の姉の笑顔に重なって見えた。
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