WEAK SELF.

若松だんご

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或る書曰く

二、百重なす心 思へど(二)

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 「異母兄上あにうえ!! そっちです、そっち!!」

 冷たく透き通った清流に向け、そびえ立つような大岩の上から声がする。

 「ほら、そこの小さな岩との間です!! 間!!」

 興奮した声。さっきから岩の上から身を乗り出して、ああでもないこうでもないと指をさして叫んでる。
 だが。

 「あー、もう、何やってるんですか!!」

 「うるさい!! それならお前が捕まえろ!!」

 自分の代わりに川島が吠えた。衣の裾をたくし上げ、膝まで清流に浸かっているのは、自分と川島。

 「え~、だってボク、足が冷えちゃったんだもん」

 ブーブーと文句を垂れるのは、岩の上の忍壁。彼も先程まで一緒に川に入っていたのだけど、水の冷たさに、サッサと岩の上に移動してしまった。今も、指示だけ飛ばしながら、足に息を吹きかけ温めている。

 「……お前が蟹を捕まえたいって言い出したんだろうが」

 川島がごちる。

 ――蟹、捕まえましょうよ、異母兄上あにうえ!!

 吉野での役目を終えてしばらく。宮の近くを流れる沢で蟹が獲りたいと忍壁が言い出した。

 ――ここの沢、すっごい大きな蟹が獲れるんですよ。ね、草壁の異母兄上あにうえ!!

 緊張する役目を終え、遊びに興じる余裕が生まれたのだろう。
 戦の始まる前、草壁と忍壁は父に従って、この吉野を訪れていた。蟹の話は、その時従っていた舎人の一人から聞いていたらしい。その頃は小さかったので、川に入ることは禁じられたけど、今なら大丈夫だろうと誘ってきたのだった。

 「ほら、大津も川島も頑張って」

 クスクスと忍壁の隣で笑う草壁。

 「そうだよ、頑張ってよね。こっそり大きな蟹を捕まえて、父上を驚かせるんだから」

 「なら、お前がやれよ」

 「ボクは、異母兄上あにうえたちが捕まえた蟹を茹でる役目だよ。大きな大きな釜を用意させるから、それに見合うだけの蟹を捕らえてよね」

 忍壁が両手を目一杯広げてみせる。

 「いや、その大きさの蟹は無理だろ」

 大綿津見にならいるかもしれないが、この吉野の沢では、よくて手のひら程度の大きさだろう。

 「そんな大きな蟹を捕らえたら、父上からお褒めいただけるかもしれないね。大蟹退治の勇ある者として」

 「じゃあ、これぐらい?」

 忍壁が広げた手を縮めた。それでも大きい。

 「そうだね、それぐらいならいいかな」

 草壁が笑い続ける。彼が自分たちと遊びに興じるのは珍しい。草壁もまた、こうして兄弟で集っていることに気が昂ぶっているのだろうか。一度も川に入ることはないけれど、それでも楽しそうに笑い交じる。

 「そんな化け蟹より、普通の蟹をたくさん獲って、みなに食してもらったほうがいいぞ」

 「あ、高市の異母兄上あにうえ!!」

 「というか、何をやってるんだ、お前ら――って、大津と川島?」

 新たに加わった声と同時に岩の上から、ひょこっと顔を出したのは高市の兄だった。忍壁と草壁が立つ岩の下、沢で蟹を捕まえているのは舎人だとでも思っていたのだろうか。覗いた兄が目を丸くして驚いていた。

 「……まったく」

 ため息を漏らすと、素早く衣を脱ぎ捨てた高市が、岩の上から下りてくる。スルスルっとすべるように下りてきた割に、水面に浸けた足は静かで、飛沫一つ上がらない。
 
 「騒ぐなよ。捕まえられん」

 静かにしろ。
 高市の指示に誰もが動きを止め、口をつぐむ。
 それを確認してから、高市が手近な岩を高く持ち上げた。 
 そして。

 ――ガンッ!!

 鈍い音。激しい水飛沫。

 「うわっ!!」

 ビリビリと水に浸かった脛が震える。浅瀬にあった岩に、手にした岩を思いっきりぶつけたのだ。

 「ペッ、ペペッ!! な、何するんですかっ、高市殿っ!!」

 頭から飛沫を被った川島が抗議した。何度も顔を拭い、口の中のものを吐き出す。

 「だが、捕れたぞ」

 「――へ? あ、ホントだ」

 作られた波紋が流れに飲み込まれ消えた頃、代わりに浮かんできたのは鮎や岩魚。

 「すごい」

 忍壁も草壁も身を乗り出し、驚いて川面を眺める。
 
 「ほら、感心してないでサッサと捕まえないと――流されてしまうぞ?」

 「うわわ、待て待て待てっ!!」

 ジャバジャバと水を蹴り上げて川島が回収にまわる。そこに「ボクも!!」と再び下りてきた忍壁も加わって、ともに魚を手づかみで拾い上げはじめた。

 「こんないさなの方法があるのですね」

 石をぶつけただけなのに。
 自分の知らなかったやり方。いさなというのは、釣り竿、もしくは網を使ってやるものだと思っていた。

 「ああ、まあ海ではやらぬ方法だからな。伊勢でも淡海でも見たことないだろう」

 「はい」

 「俺も戦の時に教えてもらった。川魚を得るのが上手い者がいてな。美濃の生まれだったらしいが、よくこうして川で魚を獲るのだと話していた。音に驚いた魚が気を失って浮かんでくるのだ」

 なるほど。

 「試すのは今回が初めてだがな。上手くいってよかった」

 高市が濡れた額を拭う。川島もだが、一番飛沫を被ったのはこの異母兄あにだろう。飛沫を被ることがわかっていたから、衣を脱ぎ捨てた。無駄のない、引き締まった体から水が滴り落ちる。

 「でも、蟹は捕れませんでしたよ、異母兄上あにうえ

 両手に魚を抱え、戻ってきた忍壁が文句を言った。

 「これだけ大漁なんだから、別にいいじゃないか」

 続く川島も魚を抱える。死んだわけでもないのに、その魚はピクリとも動かない。

 「でもなあ。せっかくだから、蟹を出して驚かせようかなって思ったのに」

 「宴の余興か?」

 ブウッとむくれた忍壁の口元が、正解だと告げる。

 「この蟹や 何処いずくの蟹 百伝ももづたふ 角鹿つぬがの蟹 横さらふ~ってか」

 川島が魚を抱えたまま、ヒョコヒョコと左右に体を揺らしておどけてみせる。

 「そうだよ。すくすくと が行ませばや 木幡こはたの道に~ってね」

 忍壁も体を揺らす。二人共、川の中でなければ、蟹のフリしてチョコチョコ横歩きしてみせただろう。詠った歌は、宴席で披露される芸能の一つ。蟹に扮したわざおきが、美女の後をノコノコとついていき、追い越し、グルリとふり返って、その顔を首を伸ばしてしげしげ眺めるといったもの。蟹がどれほど滑稽に動くかが、この演目の鍵となる。

 「まあ、宴席ならその魚で充分だろう。お前が獲った魚だと申し上げたら、きっと父上はお喜びになる」

 高市が言った。

 「そうかな? 喜んでくださるかな?」

 「ああ」

 高市とともに、自分も頷く。
 父は、この忍壁を大切にしている。吉野に隠棲することになった時も、高市や自分は淡海に置いていったが、皇后の子である草壁を別として、忍壁だけは連れて行った。
 正確には忍壁ではなく、その母親の穀媛娘かじひめのいらつめを寵愛しているからかもしれないが。
 今回の吉野行に彼女とその子、異母妹いもうとの泊瀬部、託基たき、生まれたばかりの異母弟おとうと磯城を伴っている。他の妃嬪、幼い弟妹は誰もついてきてないというのに。それほど大切に想っている、片時も離したくないのだろうことは推察できる。
 忍壁は、そんな穀媛娘かじひめのいらつめの長子。蟹でなく魚をお出ししても、きっと旨そうに召し上がってくれるに違いない。
 胸が、チリチリとじれるように焼ける。

 「あ、ねえ、そこ、そこ……!! 蟹っ、蟹っ!!」

 岩の上、突然草壁が川面を指差し叫び始めた。

 「え?」

 「どこだ? どこだよ、草壁?」

 自分も高市も、魚を抱えたままの忍壁も川島も。みんなでそろって草壁が指した川面を探す。だが、どこにも蟹らしき姿は見えない。

 「だからそこだって、そこ!!」

 珍しく草壁が昂り、大きな声を上げる。けど、蟹は見つからない。
 大きく身を乗り出し、腕を伸ばして水面を差し続ける草壁。

 「そこにひっくり返って、ほら――――わっ!!」

 「あぶなっ……!!」

 ズルッと岩から滑り落ちた草壁の体。思わず前に出て、彼を受け止めようとするけど。

 ダッパーンッ!!

 「大津っ!! 草壁っ!!」

 派手な水飛沫。いや水柱。
 
 「――無事か? 草壁」

 「あ、はい。ありがとうございます。異母兄上あにうえ

 草壁の体は、川に落ちることなく、ガッシリと高市に抱きとめられた。

 「大津っ、おい、大津っ!!」

 ザバアッと、水底から川島に引っ張り上げられたのは自分の体。草壁を助けようとして、一人、川の中にすっ転んで溺れた。どうにか立ち上がるものの、全身ずぶ濡れで、髪から体からボタボタと水が滴る。

 「大丈夫かっ!?」

 「あー、うん、……ゴホッ、ゲホッ、な、なんとか」

 水を飲んだらしく、何度かむせる。そんなに深い川ではないけれど、沈んでみれば、衣が水を吸い、身動きがとれなくなった。

 「ごめん、大津」

 草壁が謝る。

 「いいよ。僕がマヌケなだけだし。それより、ケホッ、草壁が落ちなくてよかった」

 彼が落ちて風邪などひいたら。それこそ何を言われるかわかったものじゃない。

 「――にしてもまだ川の水は冷たいね。サッサと上がるにかぎるよ」

 「そうだな、魚も捕れたしって――ああっ!! 魚っ!!」

 慌てた川島の声。その手に魚はない。代わりに、プカプカと川面を流れていく魚たち。中には息を吹き返したものもあるらしく、トプンと深く潜って逃げてしまっていた。
 自分を助けてくれる時、とっさに手放してしまったのだろう。忍壁が「なにやってるのさ、もう!!」と怒りの声を上げる。

 「あー、ごめん」

 草壁についで自分が謝る番になった。
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