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第九章 真幸くあらば
三十八、真幸くあらば(二)
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「大津は、あの子はそんなふうに……」
「はい」
愛しい弟の死。それを伊勢から戻ってくる途上で聴く。
父が薨去してすぐ。弟が謀反を企んでいるとの讒言があり、詮議を受けることなく死を賜った。
自分の宮に火をかけ、そのなかで自害して果てたという。
享年二十四。
未来を嘱望されていた皇子のあまりにも若すぎる、突然の死。
「でも、一人じゃなかったのね」
「はい。山辺さまが伴われました」
「……そう」
岩に腰掛けた私の前に跪く一組の若い夫婦。その片方は大津の妻、山辺皇女の女嬬であったという。伊勢から戻る私の一行を見かけて、大津の姉であることを知って、こうして弟の最期を伝えに来てくれたのだと言った。親切? ――いいえ。
(なんて残酷なのかしら)
こんな風に伝えられてしまったら、もしかしたらまだ大津は飛鳥で生きているかもしれないって、思うことすらできなくなるというのに。知らず、遠く伊勢の地にいたのなら、無事だけを祈って暮らせたのに。
大和は、飛鳥に近づくたび、私に現実を突きつけてくる。
(いえ、違うわね)
知らないほうが幸せなんてことはない。どれだけ辛くても、いつかは弟の死について知りたくなる。大津は謀反人として殺されたのだから、飛鳥に戻ったところで、誰も詳細を教えてはくれないでしょう。
ここでこの者たちに会えたことは良かったのかもしれない。覚悟を持って帰ることができる。――どこに? 父も亡く、大切な弟もいないというのに。
「山辺が伴ってくれたのであれば、あの子は……寂しくなかったかしら」
声が震えた。
無念の死に、最期まで妻が寄り添ってくれていたことが、せめてもの救い。
山辺には、あまりお会いしたことなかったけれど、それだけ大津を愛してくださったのでしょう。ともに逝くほどに。
「アイツは、逃げることも戦うこともできない弱虫だったんだ」
並んで跪く男が、吐き捨てるように言った。男の懐には龍笛。
「強くて弱い。アイツは自分のことをそう言ってた。逃げる勇気もない意気地なし。でも死を選ぶだけの強さを持ってた」
強くて弱い。
人とはそういう生き物なのかもしれないわ。
時に強く、時に弱く。思い、悩み、苦しみ、そして選ぶ。
私と離れて暮らす間、あの子はたくさん悩んだでしょう。苦しみ迷ったでしょう。
弱く泣いた夜もあったでしょう。強く勇気を奮い立たせたこともあったでしょう。
戦い、挑み、迷い、嘆き、そして選び取った。
正しかったのかどうか。それは大津にしかわからない。
(大津……)
目を閉じ、弟を想う。
「――その子は?」
元女嬬の懐に、大切に抱かれた赤子。幼い首の座ったばかりの赤子が、大切そうに布にくるまれ眠っていた。
「あたしたちの子――です」
女嬬の声が硬い。赤子を抱く手に力がこもる。
「俺たちはこれから伊勢に向かうんだ。この子に海を見せてやりたい。蛤を食べさせてやるんだよ。松ぼっくりで焼くと旨いって聞いたから、いつかそれを食わせてやる」
「そう。それは楽しみなことね」
――姉上、ご存知でしたか? 伊勢では蛤を松ぼっくりで焼くんですよ!! とっても美味しく焼けるんです!!
遠い昔の声を思い出す。
あれは、戦が終わって、再会した時のことだったかしら。少し変わった食べ方を、嬉しそうに教えてくれた幼い弟。あの子は、新しいことを知るのが大好きな子だった。
――伊勢には、淡海より大きな大きな塩辛い海があるんです。その先には、もっともっと、大きな大きな大綿津見があるそうですよ。
こんなぐらい大きいんです、姉上。
小さな手を精一杯広げて、その大きさを懸命に伝えてくれた。黒曜石のような純朴な目をキラキラと輝かせて語ってくれた。
ねえ、大津。私もよく知っていてよ。
その伊勢の海で禊をし、神にお仕えしていたのだから。伊勢には、アナタから聴いていた通り、とっても広くて塩辛い海があったわ。淡海の鳰の湖とは違う、無辺の大綿津見。見知らぬ大地。
弟と、伊勢のことを話すことは二度とない。けれど。
――僕、一度でいいからあの先に行ってみたいなあ。
「この子の行く末、先に幸多からんことを」
言って手を伸ばし、抱かれたままの赤子の頭を撫でる。
瞼を閉ざし、眠ったままの赤子の目。その目は、かつての弟のように、初めて見る世界に驚き輝き、広大な煌めくの海を望むのでしょう。あの頃の弟によく似た面差しの――子。
「では。皇女さまもご健勝であらせられますよう」
一礼を残し、赤子を抱えた夫婦が立ち去る。
その東へ向かう姿を見送り、長く腰掛けていた岩から立ち上がる。
岩のそばに立つ松の枝に、自分の帯を引き結ぶ。
これが斎宮としての最後の祈り。
――あの子の旅路の無事を祈って。あの子の行く末が真幸くあらんことを。
くすんだ松の青さに、鮮やかな朱が翻った。
「はい」
愛しい弟の死。それを伊勢から戻ってくる途上で聴く。
父が薨去してすぐ。弟が謀反を企んでいるとの讒言があり、詮議を受けることなく死を賜った。
自分の宮に火をかけ、そのなかで自害して果てたという。
享年二十四。
未来を嘱望されていた皇子のあまりにも若すぎる、突然の死。
「でも、一人じゃなかったのね」
「はい。山辺さまが伴われました」
「……そう」
岩に腰掛けた私の前に跪く一組の若い夫婦。その片方は大津の妻、山辺皇女の女嬬であったという。伊勢から戻る私の一行を見かけて、大津の姉であることを知って、こうして弟の最期を伝えに来てくれたのだと言った。親切? ――いいえ。
(なんて残酷なのかしら)
こんな風に伝えられてしまったら、もしかしたらまだ大津は飛鳥で生きているかもしれないって、思うことすらできなくなるというのに。知らず、遠く伊勢の地にいたのなら、無事だけを祈って暮らせたのに。
大和は、飛鳥に近づくたび、私に現実を突きつけてくる。
(いえ、違うわね)
知らないほうが幸せなんてことはない。どれだけ辛くても、いつかは弟の死について知りたくなる。大津は謀反人として殺されたのだから、飛鳥に戻ったところで、誰も詳細を教えてはくれないでしょう。
ここでこの者たちに会えたことは良かったのかもしれない。覚悟を持って帰ることができる。――どこに? 父も亡く、大切な弟もいないというのに。
「山辺が伴ってくれたのであれば、あの子は……寂しくなかったかしら」
声が震えた。
無念の死に、最期まで妻が寄り添ってくれていたことが、せめてもの救い。
山辺には、あまりお会いしたことなかったけれど、それだけ大津を愛してくださったのでしょう。ともに逝くほどに。
「アイツは、逃げることも戦うこともできない弱虫だったんだ」
並んで跪く男が、吐き捨てるように言った。男の懐には龍笛。
「強くて弱い。アイツは自分のことをそう言ってた。逃げる勇気もない意気地なし。でも死を選ぶだけの強さを持ってた」
強くて弱い。
人とはそういう生き物なのかもしれないわ。
時に強く、時に弱く。思い、悩み、苦しみ、そして選ぶ。
私と離れて暮らす間、あの子はたくさん悩んだでしょう。苦しみ迷ったでしょう。
弱く泣いた夜もあったでしょう。強く勇気を奮い立たせたこともあったでしょう。
戦い、挑み、迷い、嘆き、そして選び取った。
正しかったのかどうか。それは大津にしかわからない。
(大津……)
目を閉じ、弟を想う。
「――その子は?」
元女嬬の懐に、大切に抱かれた赤子。幼い首の座ったばかりの赤子が、大切そうに布にくるまれ眠っていた。
「あたしたちの子――です」
女嬬の声が硬い。赤子を抱く手に力がこもる。
「俺たちはこれから伊勢に向かうんだ。この子に海を見せてやりたい。蛤を食べさせてやるんだよ。松ぼっくりで焼くと旨いって聞いたから、いつかそれを食わせてやる」
「そう。それは楽しみなことね」
――姉上、ご存知でしたか? 伊勢では蛤を松ぼっくりで焼くんですよ!! とっても美味しく焼けるんです!!
遠い昔の声を思い出す。
あれは、戦が終わって、再会した時のことだったかしら。少し変わった食べ方を、嬉しそうに教えてくれた幼い弟。あの子は、新しいことを知るのが大好きな子だった。
――伊勢には、淡海より大きな大きな塩辛い海があるんです。その先には、もっともっと、大きな大きな大綿津見があるそうですよ。
こんなぐらい大きいんです、姉上。
小さな手を精一杯広げて、その大きさを懸命に伝えてくれた。黒曜石のような純朴な目をキラキラと輝かせて語ってくれた。
ねえ、大津。私もよく知っていてよ。
その伊勢の海で禊をし、神にお仕えしていたのだから。伊勢には、アナタから聴いていた通り、とっても広くて塩辛い海があったわ。淡海の鳰の湖とは違う、無辺の大綿津見。見知らぬ大地。
弟と、伊勢のことを話すことは二度とない。けれど。
――僕、一度でいいからあの先に行ってみたいなあ。
「この子の行く末、先に幸多からんことを」
言って手を伸ばし、抱かれたままの赤子の頭を撫でる。
瞼を閉ざし、眠ったままの赤子の目。その目は、かつての弟のように、初めて見る世界に驚き輝き、広大な煌めくの海を望むのでしょう。あの頃の弟によく似た面差しの――子。
「では。皇女さまもご健勝であらせられますよう」
一礼を残し、赤子を抱えた夫婦が立ち去る。
その東へ向かう姿を見送り、長く腰掛けていた岩から立ち上がる。
岩のそばに立つ松の枝に、自分の帯を引き結ぶ。
これが斎宮としての最後の祈り。
――あの子の旅路の無事を祈って。あの子の行く末が真幸くあらんことを。
くすんだ松の青さに、鮮やかな朱が翻った。
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