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第七章 かぎろひ立つ
三十三、閑話-岡本宮
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「お早いお帰りだね、郎女」
夜遅く、大宮に戻ってきた郎女を待ち受ける。
「草壁さま……」
「どこに出かけていたんだい? 待ちくたびれてしまったよ」
「申し訳ありません。蘇我の家に戻っておりました」
「蘇我の?」
「ええ。あちらで月見の宴がありましたもので。その手伝いに行っておりましたの」
「月見の宴……ね」
何を楽しみ、何を目的に開かれていたのか。宴に招かれてなくても察することはできる。
――政権への復活を願う者たちの集い。大津に取り入ることで、復権を願う者たち。
そこには、父の、帝の意向も関与しているのだろう。
大津に子がいないことに、父は苛立っている。子がいないままでは手駒にできないではないか。子が生まれた自分と皇后のほうが優位ではないかと。
だから、母の思惑を利用して、この石川郎女を大津に近づけた。母の罠は失敗に終わったが、父は言うことを聞かぬ馬に鞭打つように大津にこの女を近づけた。
大津がどうして子を成さないのか。その理由など構うことなく。
衰退した蘇我なら、大津と結びつくことを喜んで引き受けるだろう。父は蘇我の宿願すら利用した。
(恐ろしい人だ)
人を人だと、感情ある生き物だと思っていない。駒がどれだけ苦しもうが憐れとも思わない。
駒は使う。要らなくなったら棄てる。それだけのこと。
「草壁さま……?」
「ああ、なんでもないよ」
「あの、せっかくお待ちいただいてたことですし。どうでしょう。これから一献差し上げますわ」
しなを作り、媚びるように寄ってきた郎女。
この時間に帰っていたということは、目論見は失敗したのだろう。
まあ、異母弟が子を成さない本当の理由を知れば、何をしたって無駄だとわかるだろうに。
大津が無理ならこちらを。どうせ、こちらも歌を贈ってきている。一人の女を二人の男が奪い合うのは古くからよくあること。少しあちらに傾いた流れをこちらに取り戻した。
大津が罰せられなかったのなら、こちらも同じ。浮名を流しても問題ない。
そもそもこの罠は皇后が言い出したもの。なら、帝の不興を買っても皇后が守ってくれる。そう考えたのだろう。だが。
「今夜は止めておくよ。きみも疲れてるだろうし」
「そんな……」
「今日は、これを預かってきただけなんだ。母上からの贈り物だよ」
懐から取り出した小さな包み。
「桃だよ。きみに是非って下賜された。今朝、山科から届いたんだ」
「まあ……わたくしに?」
大事な宝物でも受け取るように、目を輝かせて手に取った郎女。
「では、せっかくですし、ご一緒に召し上がりませ――」
「ぼくは遠慮しておく。それを食して試す勇気は持ってないからね」
「……どういう意味ですの?」
郎女が気色ばんだ。
「言葉どおりの意味だよ。まあ、ぼくは孕むことはできないから、問題ないかもしれないけど」
桃の種は薬用に利用できる。活血、排膿、潤腸の効果があり、打撲や便秘、月のものの痛みを和らげるのにも使われる。だが、孕んだ女には禁忌となる。子が流れ、最悪死に至る。種を除けは問題ないかもしれない。だが、本当にそれだけか。毒となりうるのは、その種だけか? 本当に?
「そんな……。でも皇后さまは、蘇我の復興を助けてくださると。大津さまに取り入って、うまく行けば蘇我を助けてくださると……」
「そんな戯言、信じてたの? おめでたいんだね、蘇我の者は」
「皇后さまは、蘇我の孫です!!」
「でも、異母弟を見殺しにした。血の繋がった弟をね」
母は、かつて淡海にいた異母弟大友皇子を戦で見殺しにした。亡くなった十市皇女のように思い悩むこともなく。そして今は、自分の同母姉の子である大津までも手に掛けようとしている。
そんな母が母方の氏族だからといって、蘇我だけを大切にするわけがない。
母が考えているのは、自分の血を受け継いだ子を帝位に就けることだけ。自分の血を皇統に残すことだけに執念を燃やす。
「そんな、そんな……」
郎女がうろたえる。聡い女だ。彼女にも母の真意は理解できたはず。
「でも帝は約束してくださいましたわ。大津さまの御子を孕んだら、蘇我の復権を考えてくださると。皇后さまが無理なら、帝が――」
「だから、母上からきみに桃が贈られたんじゃないか」
手駒にするつもりの者が、敵に通じていた。敵に通じるだけではない。そちらの力になるような動きをみせた。
郎女の手にある桃。
それが母の意志だ。
床に崩れ落ちた郎女の手から桃が転げ落ちる。紙より白く、血の気の引いた郎女の顔。
「……悪いことは言わない。蘇我はこの争いから手を引け。でないと再興も願えぬほど完膚なきまでに叩き潰される」
それだけ言いおいて、踵を返す。
この先、蘇我が手を出してくるかどうか。命惜しければ何もしてこないだろう。このまま雌伏の時を過ごすはずだ。
(命……ね)
大宮を出て、暗い夜空を見上げる。
薄々わかっていたが、やはり父も絡んでいたのか。
父と母。それぞれの手駒にされる自分と大津。
父が存命なら、おそらく何も起きないだろう。母が何を企んだとしても父が阻止する。
だが、父が身罷られたら? 母を止める者は誰もいない。
母の一念。それは我が子愛しさに端を発しているものではない。ただひたすらに、自分の血統を残すことだけに執念を燃やしている。なぜそこまで帝位に固執するのか知らない。知りたくもない。知ってどうする。自分は母の駒でしかないのに。
自分はいい。そういう星の下に生まれたのだと諦めることが出来る。だが、子は? 生まれたばかりの子どもは、娘は妻はどうなる? 兄弟姉妹は? 従兄弟たちは?
(大津……)
一つ年下の弟を思う。
早くに母を亡くした子。幼い頃に祖父に引き取られ、あまり一緒に遊んだことはない。
祖父のもとに引き取られたから? 離れて暮らしていたから? 違う。
母が自分を手放さなかったから。母が自分を手元に置き続けたから。
異母兄弟姉妹、従兄弟。自分は幼い頃、誰とも遊んだ記憶がない。
戦を避け、桑名に留まった時もそうだった。母は自由に遊びに出かける甥を放置し、旅の疲れから床に伏した自分のそばに居続けた。大津が潮で汚れようと日が暮れても帰ってこなくても、何をしようと声もかけなかった。もし自分がそんなことをしたら、どれほど涙を流して心配したと、無茶をするなと叱っただろう。母が大津を見る眼差し。そこに甥を見る優しさも愛情もなかった。
(いっそ父より先に母が亡くなってくれたら……)
母が亡くなれば、父は存分に思うように未来を決めてしまうだろう。大津に帝位を継がせ、自分はその下に置かれる。元々、大津の母のほうが、先に父に嫁いでいる。生まれた順はどうあれ、先に嫁いだ者を母に持つほうが、帝位に近いはずだ。
母という後ろ盾を無くした自分であれば、弟に劣る自分であれば、争いの種にはならない。帝位に就いた大津が自分に死を与えるとは考えにくい。あの弟は、父母と違って、とても優しく弱い子だ。あの子のもとでなら、自分たち家族は平穏に暮らせるだろう。
(母がいなかったら……)
そこまで考えて、フッと唇を持ち上げ歪に笑う。
愛する家族のために誰かの死を望むなど。それでは、母と同じではないか。
今の自分に、母を冷酷非情となじる資格はない。
夜遅く、大宮に戻ってきた郎女を待ち受ける。
「草壁さま……」
「どこに出かけていたんだい? 待ちくたびれてしまったよ」
「申し訳ありません。蘇我の家に戻っておりました」
「蘇我の?」
「ええ。あちらで月見の宴がありましたもので。その手伝いに行っておりましたの」
「月見の宴……ね」
何を楽しみ、何を目的に開かれていたのか。宴に招かれてなくても察することはできる。
――政権への復活を願う者たちの集い。大津に取り入ることで、復権を願う者たち。
そこには、父の、帝の意向も関与しているのだろう。
大津に子がいないことに、父は苛立っている。子がいないままでは手駒にできないではないか。子が生まれた自分と皇后のほうが優位ではないかと。
だから、母の思惑を利用して、この石川郎女を大津に近づけた。母の罠は失敗に終わったが、父は言うことを聞かぬ馬に鞭打つように大津にこの女を近づけた。
大津がどうして子を成さないのか。その理由など構うことなく。
衰退した蘇我なら、大津と結びつくことを喜んで引き受けるだろう。父は蘇我の宿願すら利用した。
(恐ろしい人だ)
人を人だと、感情ある生き物だと思っていない。駒がどれだけ苦しもうが憐れとも思わない。
駒は使う。要らなくなったら棄てる。それだけのこと。
「草壁さま……?」
「ああ、なんでもないよ」
「あの、せっかくお待ちいただいてたことですし。どうでしょう。これから一献差し上げますわ」
しなを作り、媚びるように寄ってきた郎女。
この時間に帰っていたということは、目論見は失敗したのだろう。
まあ、異母弟が子を成さない本当の理由を知れば、何をしたって無駄だとわかるだろうに。
大津が無理ならこちらを。どうせ、こちらも歌を贈ってきている。一人の女を二人の男が奪い合うのは古くからよくあること。少しあちらに傾いた流れをこちらに取り戻した。
大津が罰せられなかったのなら、こちらも同じ。浮名を流しても問題ない。
そもそもこの罠は皇后が言い出したもの。なら、帝の不興を買っても皇后が守ってくれる。そう考えたのだろう。だが。
「今夜は止めておくよ。きみも疲れてるだろうし」
「そんな……」
「今日は、これを預かってきただけなんだ。母上からの贈り物だよ」
懐から取り出した小さな包み。
「桃だよ。きみに是非って下賜された。今朝、山科から届いたんだ」
「まあ……わたくしに?」
大事な宝物でも受け取るように、目を輝かせて手に取った郎女。
「では、せっかくですし、ご一緒に召し上がりませ――」
「ぼくは遠慮しておく。それを食して試す勇気は持ってないからね」
「……どういう意味ですの?」
郎女が気色ばんだ。
「言葉どおりの意味だよ。まあ、ぼくは孕むことはできないから、問題ないかもしれないけど」
桃の種は薬用に利用できる。活血、排膿、潤腸の効果があり、打撲や便秘、月のものの痛みを和らげるのにも使われる。だが、孕んだ女には禁忌となる。子が流れ、最悪死に至る。種を除けは問題ないかもしれない。だが、本当にそれだけか。毒となりうるのは、その種だけか? 本当に?
「そんな……。でも皇后さまは、蘇我の復興を助けてくださると。大津さまに取り入って、うまく行けば蘇我を助けてくださると……」
「そんな戯言、信じてたの? おめでたいんだね、蘇我の者は」
「皇后さまは、蘇我の孫です!!」
「でも、異母弟を見殺しにした。血の繋がった弟をね」
母は、かつて淡海にいた異母弟大友皇子を戦で見殺しにした。亡くなった十市皇女のように思い悩むこともなく。そして今は、自分の同母姉の子である大津までも手に掛けようとしている。
そんな母が母方の氏族だからといって、蘇我だけを大切にするわけがない。
母が考えているのは、自分の血を受け継いだ子を帝位に就けることだけ。自分の血を皇統に残すことだけに執念を燃やす。
「そんな、そんな……」
郎女がうろたえる。聡い女だ。彼女にも母の真意は理解できたはず。
「でも帝は約束してくださいましたわ。大津さまの御子を孕んだら、蘇我の復権を考えてくださると。皇后さまが無理なら、帝が――」
「だから、母上からきみに桃が贈られたんじゃないか」
手駒にするつもりの者が、敵に通じていた。敵に通じるだけではない。そちらの力になるような動きをみせた。
郎女の手にある桃。
それが母の意志だ。
床に崩れ落ちた郎女の手から桃が転げ落ちる。紙より白く、血の気の引いた郎女の顔。
「……悪いことは言わない。蘇我はこの争いから手を引け。でないと再興も願えぬほど完膚なきまでに叩き潰される」
それだけ言いおいて、踵を返す。
この先、蘇我が手を出してくるかどうか。命惜しければ何もしてこないだろう。このまま雌伏の時を過ごすはずだ。
(命……ね)
大宮を出て、暗い夜空を見上げる。
薄々わかっていたが、やはり父も絡んでいたのか。
父と母。それぞれの手駒にされる自分と大津。
父が存命なら、おそらく何も起きないだろう。母が何を企んだとしても父が阻止する。
だが、父が身罷られたら? 母を止める者は誰もいない。
母の一念。それは我が子愛しさに端を発しているものではない。ただひたすらに、自分の血統を残すことだけに執念を燃やしている。なぜそこまで帝位に固執するのか知らない。知りたくもない。知ってどうする。自分は母の駒でしかないのに。
自分はいい。そういう星の下に生まれたのだと諦めることが出来る。だが、子は? 生まれたばかりの子どもは、娘は妻はどうなる? 兄弟姉妹は? 従兄弟たちは?
(大津……)
一つ年下の弟を思う。
早くに母を亡くした子。幼い頃に祖父に引き取られ、あまり一緒に遊んだことはない。
祖父のもとに引き取られたから? 離れて暮らしていたから? 違う。
母が自分を手放さなかったから。母が自分を手元に置き続けたから。
異母兄弟姉妹、従兄弟。自分は幼い頃、誰とも遊んだ記憶がない。
戦を避け、桑名に留まった時もそうだった。母は自由に遊びに出かける甥を放置し、旅の疲れから床に伏した自分のそばに居続けた。大津が潮で汚れようと日が暮れても帰ってこなくても、何をしようと声もかけなかった。もし自分がそんなことをしたら、どれほど涙を流して心配したと、無茶をするなと叱っただろう。母が大津を見る眼差し。そこに甥を見る優しさも愛情もなかった。
(いっそ父より先に母が亡くなってくれたら……)
母が亡くなれば、父は存分に思うように未来を決めてしまうだろう。大津に帝位を継がせ、自分はその下に置かれる。元々、大津の母のほうが、先に父に嫁いでいる。生まれた順はどうあれ、先に嫁いだ者を母に持つほうが、帝位に近いはずだ。
母という後ろ盾を無くした自分であれば、弟に劣る自分であれば、争いの種にはならない。帝位に就いた大津が自分に死を与えるとは考えにくい。あの弟は、父母と違って、とても優しく弱い子だ。あの子のもとでなら、自分たち家族は平穏に暮らせるだろう。
(母がいなかったら……)
そこまで考えて、フッと唇を持ち上げ歪に笑う。
愛する家族のために誰かの死を望むなど。それでは、母と同じではないか。
今の自分に、母を冷酷非情となじる資格はない。
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