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第七章 かぎろひ立つ
三十一、かぎろひ立つ(四)
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「お前に、話がある」
「僕にはないよ。悪いけど、今、酒を呑んで気分が悪いんだ。話ならまた今度にしてくれ」
馬を降り、手綱を真足に預ける。ただならぬ気配を感じ取ったのか、周囲にいた下人たちもその場を去っていった。
「お前、蘇我の宴に行ってたのか?」
「行っちゃ悪いかい? 月見の宴に誘われたんだ。なかなか良い宴だったよ」
だから悪酔いした。だから放って置いてくれ。
足早に彼の前から立ち去ろうとする。だが。
「――待てよっ!!」
グイッと腕を引っ張られ、向き直らされる。
「お前、今がどういう時期かわかってるのか?」
「わかってるよ。詔発布に向けて忙殺されている。風雅を味わう暇もないぐらいに。ああ、こんな仕事を怠けてみたいなお叱りは川島らしくないぞ? それは高市異母兄上の役目だろう?」
「うるさいっ!! そういうんじゃねえよ!!」
力強く両肩を掴まれ、真剣な川島の顔が近づく。
「お前、このままでいいのか? このまま蘇我と手を組むつもりなのか?」
ああ、わかっているのか。
「そのつもりだよ。だって、父上がそれを望んでいらっしゃるから」
わずかに、肩を掴む手から力が抜ける。
「川島だって気づいただろう? どうして僕に郎女が近づいても、父上が何もおっしゃられないのか」
皇后が手を出せないのは、草壁という牽制が入ったから。だが、それをそのまま放置、助長させたのは父だ。
「僕に子がいないことを心配してくださってるそうだよ。郎女なら子を産める。蘇我の血を引いた子ができる。帝はそれを望んでいらっしゃるんだ」
どうにかいつもの笑顔を作り出す。
「――父上がそんな子煩悩、子ども好きだなんて知らなかったよ。ご自身だって、妃嬪にたくさん子を産ませていらっしゃるのに。まだ足りないっておっしゃるんだよ」
「山辺は、……オレの異母妹はどうするんだよ?」
「石女なんだから仕方ないだろう? 郎女との間に子をもうけるよ。そうしたら、帝はお喜びになる」
言い切ると同時、ヒュッと風を切る音がして、体が後ろにふっ飛ばされた。
「――痛いな」
殴られたと気づいたのは、地面に転がったから。口元を拭い、立ち上がる。
「っるせえっ!!」
胸ぐらをつかまれ、睨みつけられる。ギリギリと、奥歯を噛みしめる音が聞こえてきそうだ。
「オレはなあ!! お前なら、異母妹を幸せにしてくれるって思ってたんだ!! お前なら異母妹を託しても大丈夫だって!! それを、それを……っ!!」
激情のまま突き飛ばされ、壁に背中をぶつける。
「帝がそれを望まれているんだ。どけよ、川島。不敬だぞ」
伸びてきた手を払い除ける。
「僕は帝の子だ。これ以上は許さない。たとえきみであってもね」
「帝がなんだっていうんだ!! お前はお前!! オレの妹を泣かせる、ひでえヤツだ!!」
さっきとは逆の頬を殴られた。口腔に血の味が広がる。被っていたはずの冠は、その勢いでどこかに飛んでいってしまった。
「さっきから帝、帝って!! それを言うなら、オレは淡海の、先帝の第三皇子だ!! 帝の甥だ!! 文句あっか!!」
川島が吠える。
「あんなに惚気けてたのに。山辺を好きだって!! それなのに、こうもアッサリ捨てるのかよ!! そう簡単にっ、帝の命なら誰とでも寝るのかよ!!」
怒っているのに、泣きそうな川島の目。
ああ、なんて純粋なんだ。純粋に、妹を案じ、友を叱り飛ばしてくれる。
そんな目で見るなよ。そんな風に怒ってみせるなよ。
放っておけよ。
駒として生きるしかない僕のことなんて放っておいてくれよ。見下げたやつと蔑み、離れていってくれよ。でないと――。
「……僕は誰とも寝てない。寝ちゃいけないんだ」
「大津?」
ズルズルと壁に背を預けたまま座り込む。
限界だ。
もう、何もかも。
「父上の望まれるように子を成したら、草壁との争いが激しくなる。皇后との対立は免れ得ないんだよ」
「……大津」
「僕だって山辺と静かに暮らしていたい。山辺を大切に思っているよ。でも、どうしたらいい? 山辺と子を成せば、彼女まで巻き込まれてしまう。政争に巻き込まれ悲しむのは十市異母姉上だけで充分だ」
乱れた髪をさらに手でかき乱し、体を丸め、膝に埋めた頭を抱える。
叔父、大友皇子のもとに嫁がされた異母姉十市皇女。彼女は父と夫の皇位争いに巻き込まれた。戦の数年後、急死したことになっているが、あれは自害だ。異母姉は亡くなる直前、「葛野を頼む」と言い残していた。どういう事情で死を選んだのかは知らないけれど、父の駒であったことが理由の一つであったことは間違いない。
異母姉は死を選び、亡き夫のもとへと旅立っていった。
古来より、大君の血筋に連なる者は、時としてその血にとり殺されてしまう。古人大兄皇子、有間皇子、そして大友皇子。それが大君の血筋。それがこの国の主であることの代償。
遠く漢の国では、初代高祖の子が争い殺された。二代目恵帝とその異母弟劉如意。恵帝は弟を守ろうと務めたが、わずかな隙きを突いて恵帝の母、呂太后によって殺された。劉如意は、父高祖に特に目をかけられ、期待された子だったという。
自分がその劉如意と同じ道を辿らないと誰が言える?
自分はいい。そういう運命のもとに生まれたのだと納得することができる。だけど、彼女は? 彼女と愛し合ったことで生まれる子はどうなる?
自分が政争に敗れ死ぬことになっても、山辺を巻き込みたくない。でも、山辺に子が生まれていたら、そうしたら彼女は――。
「僕は、僕は、どう、したら……」
声にならない。どうしようもない感情に塞がれ押し潰されて、嗚咽が漏れる。
叔母に死を望まれるほど疎まれ、冷酷な父に駒として扱われ続ける僕はどうしたらいい? どれだけあがいても、もがいても、断ち切れない呪詛のようなこの血をどうしたらいい?
「教えてくれ……、川島……」
「馬鹿野郎……っ!!」
ガッと、覆いかぶさるようにぶつかってきた川島。
「そういう悩んだ時は、オレたちを頼れよ!! 一人で悩むな!! お前には、オレもいるし、高市殿だっている!! 忍壁だって、泊瀬部だって!! 草壁だってお前のこと心配してる!! 遠く伊勢には大来殿もいる!! 山辺だってだ!! 一人で勝手に思い悩むな!! 勝手に抱え込んで、突っ走るな!!」
熱く強い抱擁。
「怖いんだ。怖いんだよ、川島。大友の叔父上みたいになりそうで、怖いんだ……」
「させねえよ!! オレが、高市殿が、草壁が止めてみせるさ!! オレたちはお前の頼れる兄ちゃんだからな!! お前を大友異母兄上のような目には遭わせねえ!! 守ってやる!! 勝手に悪い方へと考えるんじゃねえよ!!」
「川島……」
顔を上げたけれど、涙でその顔がよく見えない。彷徨うように手を伸ばすと、ガシッと力強く握り返された。
「お前が変に突っ走ったり間違ったことをするなら、全力で止める。ぶん殴ってでもな。その代わり、お前が危険な時には全力で守る。それが兄ってもんだからな」
「ハハッ、お前、いい兄貴だったんだな」
笑ったつもりが、涙が溢れる結果となった。空いていたもう片方の手で、グイッとこぼれた涙を拭い取る。
「ああ、知らなかったのか? オレは、高市殿のような強くて立派な兄ではないけどな。ヘナチョコ兄だが、その分色々話しやすいだろ?」
「フッ、そのとおりだ。川島は、ヘナチョコだ」
弱い僕を、弱い僕が苦労して身につけた「皇子」という殻をぶち破るぐらいにヘナチョコだ。
「言ったな、コノヤロ」
首を抱えられ、頭をグシャワシャッとかき乱される。
「お前、これからのこと、ちゃんと山辺と話し合え。大丈夫だ。山辺は、オレの異母妹はお前が思ってる以上に強い女だよ」
「僕にはないよ。悪いけど、今、酒を呑んで気分が悪いんだ。話ならまた今度にしてくれ」
馬を降り、手綱を真足に預ける。ただならぬ気配を感じ取ったのか、周囲にいた下人たちもその場を去っていった。
「お前、蘇我の宴に行ってたのか?」
「行っちゃ悪いかい? 月見の宴に誘われたんだ。なかなか良い宴だったよ」
だから悪酔いした。だから放って置いてくれ。
足早に彼の前から立ち去ろうとする。だが。
「――待てよっ!!」
グイッと腕を引っ張られ、向き直らされる。
「お前、今がどういう時期かわかってるのか?」
「わかってるよ。詔発布に向けて忙殺されている。風雅を味わう暇もないぐらいに。ああ、こんな仕事を怠けてみたいなお叱りは川島らしくないぞ? それは高市異母兄上の役目だろう?」
「うるさいっ!! そういうんじゃねえよ!!」
力強く両肩を掴まれ、真剣な川島の顔が近づく。
「お前、このままでいいのか? このまま蘇我と手を組むつもりなのか?」
ああ、わかっているのか。
「そのつもりだよ。だって、父上がそれを望んでいらっしゃるから」
わずかに、肩を掴む手から力が抜ける。
「川島だって気づいただろう? どうして僕に郎女が近づいても、父上が何もおっしゃられないのか」
皇后が手を出せないのは、草壁という牽制が入ったから。だが、それをそのまま放置、助長させたのは父だ。
「僕に子がいないことを心配してくださってるそうだよ。郎女なら子を産める。蘇我の血を引いた子ができる。帝はそれを望んでいらっしゃるんだ」
どうにかいつもの笑顔を作り出す。
「――父上がそんな子煩悩、子ども好きだなんて知らなかったよ。ご自身だって、妃嬪にたくさん子を産ませていらっしゃるのに。まだ足りないっておっしゃるんだよ」
「山辺は、……オレの異母妹はどうするんだよ?」
「石女なんだから仕方ないだろう? 郎女との間に子をもうけるよ。そうしたら、帝はお喜びになる」
言い切ると同時、ヒュッと風を切る音がして、体が後ろにふっ飛ばされた。
「――痛いな」
殴られたと気づいたのは、地面に転がったから。口元を拭い、立ち上がる。
「っるせえっ!!」
胸ぐらをつかまれ、睨みつけられる。ギリギリと、奥歯を噛みしめる音が聞こえてきそうだ。
「オレはなあ!! お前なら、異母妹を幸せにしてくれるって思ってたんだ!! お前なら異母妹を託しても大丈夫だって!! それを、それを……っ!!」
激情のまま突き飛ばされ、壁に背中をぶつける。
「帝がそれを望まれているんだ。どけよ、川島。不敬だぞ」
伸びてきた手を払い除ける。
「僕は帝の子だ。これ以上は許さない。たとえきみであってもね」
「帝がなんだっていうんだ!! お前はお前!! オレの妹を泣かせる、ひでえヤツだ!!」
さっきとは逆の頬を殴られた。口腔に血の味が広がる。被っていたはずの冠は、その勢いでどこかに飛んでいってしまった。
「さっきから帝、帝って!! それを言うなら、オレは淡海の、先帝の第三皇子だ!! 帝の甥だ!! 文句あっか!!」
川島が吠える。
「あんなに惚気けてたのに。山辺を好きだって!! それなのに、こうもアッサリ捨てるのかよ!! そう簡単にっ、帝の命なら誰とでも寝るのかよ!!」
怒っているのに、泣きそうな川島の目。
ああ、なんて純粋なんだ。純粋に、妹を案じ、友を叱り飛ばしてくれる。
そんな目で見るなよ。そんな風に怒ってみせるなよ。
放っておけよ。
駒として生きるしかない僕のことなんて放っておいてくれよ。見下げたやつと蔑み、離れていってくれよ。でないと――。
「……僕は誰とも寝てない。寝ちゃいけないんだ」
「大津?」
ズルズルと壁に背を預けたまま座り込む。
限界だ。
もう、何もかも。
「父上の望まれるように子を成したら、草壁との争いが激しくなる。皇后との対立は免れ得ないんだよ」
「……大津」
「僕だって山辺と静かに暮らしていたい。山辺を大切に思っているよ。でも、どうしたらいい? 山辺と子を成せば、彼女まで巻き込まれてしまう。政争に巻き込まれ悲しむのは十市異母姉上だけで充分だ」
乱れた髪をさらに手でかき乱し、体を丸め、膝に埋めた頭を抱える。
叔父、大友皇子のもとに嫁がされた異母姉十市皇女。彼女は父と夫の皇位争いに巻き込まれた。戦の数年後、急死したことになっているが、あれは自害だ。異母姉は亡くなる直前、「葛野を頼む」と言い残していた。どういう事情で死を選んだのかは知らないけれど、父の駒であったことが理由の一つであったことは間違いない。
異母姉は死を選び、亡き夫のもとへと旅立っていった。
古来より、大君の血筋に連なる者は、時としてその血にとり殺されてしまう。古人大兄皇子、有間皇子、そして大友皇子。それが大君の血筋。それがこの国の主であることの代償。
遠く漢の国では、初代高祖の子が争い殺された。二代目恵帝とその異母弟劉如意。恵帝は弟を守ろうと務めたが、わずかな隙きを突いて恵帝の母、呂太后によって殺された。劉如意は、父高祖に特に目をかけられ、期待された子だったという。
自分がその劉如意と同じ道を辿らないと誰が言える?
自分はいい。そういう運命のもとに生まれたのだと納得することができる。だけど、彼女は? 彼女と愛し合ったことで生まれる子はどうなる?
自分が政争に敗れ死ぬことになっても、山辺を巻き込みたくない。でも、山辺に子が生まれていたら、そうしたら彼女は――。
「僕は、僕は、どう、したら……」
声にならない。どうしようもない感情に塞がれ押し潰されて、嗚咽が漏れる。
叔母に死を望まれるほど疎まれ、冷酷な父に駒として扱われ続ける僕はどうしたらいい? どれだけあがいても、もがいても、断ち切れない呪詛のようなこの血をどうしたらいい?
「教えてくれ……、川島……」
「馬鹿野郎……っ!!」
ガッと、覆いかぶさるようにぶつかってきた川島。
「そういう悩んだ時は、オレたちを頼れよ!! 一人で悩むな!! お前には、オレもいるし、高市殿だっている!! 忍壁だって、泊瀬部だって!! 草壁だってお前のこと心配してる!! 遠く伊勢には大来殿もいる!! 山辺だってだ!! 一人で勝手に思い悩むな!! 勝手に抱え込んで、突っ走るな!!」
熱く強い抱擁。
「怖いんだ。怖いんだよ、川島。大友の叔父上みたいになりそうで、怖いんだ……」
「させねえよ!! オレが、高市殿が、草壁が止めてみせるさ!! オレたちはお前の頼れる兄ちゃんだからな!! お前を大友異母兄上のような目には遭わせねえ!! 守ってやる!! 勝手に悪い方へと考えるんじゃねえよ!!」
「川島……」
顔を上げたけれど、涙でその顔がよく見えない。彷徨うように手を伸ばすと、ガシッと力強く握り返された。
「お前が変に突っ走ったり間違ったことをするなら、全力で止める。ぶん殴ってでもな。その代わり、お前が危険な時には全力で守る。それが兄ってもんだからな」
「ハハッ、お前、いい兄貴だったんだな」
笑ったつもりが、涙が溢れる結果となった。空いていたもう片方の手で、グイッとこぼれた涙を拭い取る。
「ああ、知らなかったのか? オレは、高市殿のような強くて立派な兄ではないけどな。ヘナチョコ兄だが、その分色々話しやすいだろ?」
「フッ、そのとおりだ。川島は、ヘナチョコだ」
弱い僕を、弱い僕が苦労して身につけた「皇子」という殻をぶち破るぐらいにヘナチョコだ。
「言ったな、コノヤロ」
首を抱えられ、頭をグシャワシャッとかき乱される。
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