WEAK SELF.

若松だんご

文字の大きさ
上 下
27 / 49
第六章 いにしへ恋うる鳥

二十七、閑話-伊勢

しおりを挟む
 「姉上、どうかお元気で」

 目の前に立つ私の幼い弟。

 「立派に務めを果たされること、願っております」

 こちらを見て、柔らかく微笑む。
 たった二人だけの姉弟。
 母はこの子が四つの時に身罷られた。父は存命だけれど、あまり親しく触れ合ったことはない。私たち姉弟は父の元を離れ、亡き祖父のもとで育った。この子は、祖父の期待を受けて、名を「大津」と改められた。
 淡海の子。
 先年起きた戦では、敵方となった淡海大津宮を脱出し、父の待つ伊勢国へと向かった。吉野で蜂起した父の子。叔父、大友皇子はこの子を敵の子として手にかけなかったかもしれないけれど、他の廷臣も同じとは限らない。
 だから逃げてよかった。父に庇護されてよかった。
 戦が終わり、無事に帰ってきた姿を見て安堵した。あちらでのことを楽しそうに話すのを微笑ましく思ってた。
 けれど。

 「大津。あなたも元気でね」

 「はい。姉上も、伊勢でもつつがなくお過ごしください」

 唯一の家族、その姉がこうして遠く離れた伊勢の地に向かうというのに、どうしてこの子は微笑んでいられるのかしら。どうして、そんなお手本のような弟でいられるのかしら。
 見送られる側が、余計に寂しくなってしまう。
 泣いてくれればいいのに。
 泣いて、行っちゃ嫌だ、そばにいてほしいと駄々をこねてくれたらいいのに。
 わずか十歳の弟がこんな……。

 いいえ。
 違うわ。
 この子は泣かないの。泣けないの。

 「大津……」

 「あ、姉上?」

 泣かない弟の代わりに私が泣いてあげる。
 驚き戸惑うアナタを抱きしめてあげる。

 アナタは、泣いてもどうにもならないことを知っているから。だから泣かないの。
 母さまが亡くなった時もそうだった。
 躯となっていく母さまを見て、この子は泣かなかった。周りの大人は、まだ幼いから母の死が理解できないのだろうって言っていたけど、そうじゃなかった。泣いても母さまが目を覚ますことがないことをわかっていたから、ジッと見ていただけだった。
 聡く、物わかりの良すぎる子。
 祖父のもとに引き取られた時もそう。
 祖父が期待していることを感じ取っていた。勉学に励めば祖父が喜ぶと知っていた。
 「皇子」であることに誇りを持っていたのではない。「皇子」であれば、誰かが愛してくれる。そう願って「皇子」を演じていた。
 本当は、どうしようもないぐらい臆病で泣き虫で弱虫。寂しがり。
 蜂や雷、果ては暗闇ですら怯えるのに、それをうまく隠してしまう。寂しくて泣きたくてもそれを隠してしまう。
 夜の雷が怖くて、誰かにすがりつきたくても、グッとこらえて、上掛けを引っ被って唇を噛みしめる子。唇が赤く腫れても、涙が零れ落ちそうになっても我慢し続ける。そういう子。母のことだって、後で一人、声を殺して泣いていた。
 このままずっとそばにいて守ってあげたいのに。このまま抱きしめ続けてあげたいのに。
 
 ――汝を斎宮に任ずる。朕に代わり伊勢へ下向し、神にお仕えせよ。

 帝に即位した父の冷酷な命令。
 たった二人っきりの姉弟なのに。こんな小さな弟を置いて伊勢にだなんて。
 わかっている。
 この命令は、叔母との駆け引きで生まれたものだということを。
 私が誰かと結婚したら、その夫はこの子の有力な後ろ盾になる。すぐ下の異母弟おとうと、草壁との皇位継承争いが激化してしまう。
 だから、私を神に仕えさせ、結婚できない斎宮とした。それなら、一時的ではあるけれど、継承問題の決着を棚上げできる。政争の渦中にこの子を巻き込まないですむ。
 でも、だからといって、こんな――。

 「姉上……?」

 おずおずと私の背中に回された小さな手。
 この少し戸惑った、それでいてすがりつきたいのを我慢している手を、私は一生忘れない。

 「大津。これからはお父さま……はお忙しいから無理かもしれないけど、叔母さまや高市異母兄にいさまの言いつけを守っていくのですよ」

 「はい」

 この子がいい子を演じるのであれば、私もそれに応じる。
 腕をほどき、立ち上がる。

 「川島さま、この子を頼みます」

 大津の背後に立っていた叔父、川島にこの子を託す。叔父といってもこの子とは六つ、私とは四つしか違わない。どちらかというと、この子の友達に近い間柄。淡海で暮らしていた時も、親しく接してくださっていた。
 もし、私が斎宮に選ばれてなかったら、いずれこの方と結婚して、二人で弟の後見になれたのに。十市異母姉ねえさまが大友叔父さまに嫁いだように、私もこの方に嫁いだはず。「好き」とか「愛しい」とかそういった感情は持ち合わせていないけれど、おそらく弟と三人で穏やかに楽しく暮らせたのに。そうなれば、この胸に感じる言いしれない不安などなかったでしょうに。

 「わかりました。オレが高市殿に代わって守役、兄を務めます。任せてください」

 ニカッと笑って、軽く拳を作ってみせた川島さま。――えっと、それはちょっと、やっぱり不安……かしら。
 胸にせまる辛い別れだったのに、少しだけ和らぐ。

 「川島が兄なのは、ちょっと嫌だな」

 それは大津も同じだったようで、少し顔を歪めた。年相応のふざけた時の顔。

 「ええ~、それはないだろ」

 情けなさそうな川島さまの声に、気持ちがほころぶ。
 彼は高市異母兄にいさまのように豪胆な武勇の才には恵まれてなさそうだけど、代わりに人を和ませ、楽しませる才には富んでいる。
 この方と一緒なら、この子の未来は大丈夫かもしれない。

 「それでは」

 「はい」

 私達の背後、用意されていた輿に乗り込む。私が座ったことを確認すると、随身が出立の号令をかける。
 グラリと揺れた輿の上。そこから続くは、遠い伊勢の地。斎宮として神にお仕えする人生。
 
 どうか無事で、元気で――。

 そっと切に願う。
 一人、飛鳥の地に残される幼い弟。
 どうか、誰かあの子を守ってあげてください。私の代わりに慈しんであげてください。あの子が一人隠れて唇を噛み締めなくてもいいように、優しく抱きしめてあげてください。

 あの子は、私の弟は、聡いだけで、本当はとても弱い子なんです。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...