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第六章 いにしへ恋うる鳥
二十七、閑話-伊勢
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「姉上、どうかお元気で」
目の前に立つ私の幼い弟。
「立派に務めを果たされること、願っております」
こちらを見て、柔らかく微笑む。
たった二人だけの姉弟。
母はこの子が四つの時に身罷られた。父は存命だけれど、あまり親しく触れ合ったことはない。私たち姉弟は父の元を離れ、亡き祖父のもとで育った。この子は、祖父の期待を受けて、名を「大津」と改められた。
淡海の子。
先年起きた戦では、敵方となった淡海大津宮を脱出し、父の待つ伊勢国へと向かった。吉野で蜂起した父の子。叔父、大友皇子はこの子を敵の子として手にかけなかったかもしれないけれど、他の廷臣も同じとは限らない。
だから逃げてよかった。父に庇護されてよかった。
戦が終わり、無事に帰ってきた姿を見て安堵した。あちらでのことを楽しそうに話すのを微笑ましく思ってた。
けれど。
「大津。あなたも元気でね」
「はい。姉上も、伊勢でもつつがなくお過ごしください」
唯一の家族、その姉がこうして遠く離れた伊勢の地に向かうというのに、どうしてこの子は微笑んでいられるのかしら。どうして、そんなお手本のような弟でいられるのかしら。
見送られる側が、余計に寂しくなってしまう。
泣いてくれればいいのに。
泣いて、行っちゃ嫌だ、そばにいてほしいと駄々をこねてくれたらいいのに。
わずか十歳の弟がこんな……。
いいえ。
違うわ。
この子は泣かないの。泣けないの。
「大津……」
「あ、姉上?」
泣かない弟の代わりに私が泣いてあげる。
驚き戸惑うアナタを抱きしめてあげる。
アナタは、泣いてもどうにもならないことを知っているから。だから泣かないの。
母さまが亡くなった時もそうだった。
躯となっていく母さまを見て、この子は泣かなかった。周りの大人は、まだ幼いから母の死が理解できないのだろうって言っていたけど、そうじゃなかった。泣いても母さまが目を覚ますことがないことをわかっていたから、ジッと見ていただけだった。
聡く、物わかりの良すぎる子。
祖父のもとに引き取られた時もそう。
祖父が期待していることを感じ取っていた。勉学に励めば祖父が喜ぶと知っていた。
「皇子」であることに誇りを持っていたのではない。「皇子」であれば、誰かが愛してくれる。そう願って「皇子」を演じていた。
本当は、どうしようもないぐらい臆病で泣き虫で弱虫。寂しがり。
蜂や雷、果ては暗闇ですら怯えるのに、それをうまく隠してしまう。寂しくて泣きたくてもそれを隠してしまう。
夜の雷が怖くて、誰かにすがりつきたくても、グッとこらえて、上掛けを引っ被って唇を噛みしめる子。唇が赤く腫れても、涙が零れ落ちそうになっても我慢し続ける。そういう子。母のことだって、後で一人、声を殺して泣いていた。
このままずっとそばにいて守ってあげたいのに。このまま抱きしめ続けてあげたいのに。
――汝を斎宮に任ずる。朕に代わり伊勢へ下向し、神にお仕えせよ。
帝に即位した父の冷酷な命令。
たった二人っきりの姉弟なのに。こんな小さな弟を置いて伊勢にだなんて。
わかっている。
この命令は、叔母との駆け引きで生まれたものだということを。
私が誰かと結婚したら、その夫はこの子の有力な後ろ盾になる。すぐ下の異母弟、草壁との皇位継承争いが激化してしまう。
だから、私を神に仕えさせ、結婚できない斎宮とした。それなら、一時的ではあるけれど、継承問題の決着を棚上げできる。政争の渦中にこの子を巻き込まないですむ。
でも、だからといって、こんな――。
「姉上……?」
おずおずと私の背中に回された小さな手。
この少し戸惑った、それでいてすがりつきたいのを我慢している手を、私は一生忘れない。
「大津。これからはお父さま……はお忙しいから無理かもしれないけど、叔母さまや高市異母兄さまの言いつけを守っていくのですよ」
「はい」
この子がいい子を演じるのであれば、私もそれに応じる。
腕をほどき、立ち上がる。
「川島さま、この子を頼みます」
大津の背後に立っていた叔父、川島にこの子を託す。叔父といってもこの子とは六つ、私とは四つしか違わない。どちらかというと、この子の友達に近い間柄。淡海で暮らしていた時も、親しく接してくださっていた。
もし、私が斎宮に選ばれてなかったら、いずれこの方と結婚して、二人で弟の後見になれたのに。十市異母姉さまが大友叔父さまに嫁いだように、私もこの方に嫁いだはず。「好き」とか「愛しい」とかそういった感情は持ち合わせていないけれど、おそらく弟と三人で穏やかに楽しく暮らせたのに。そうなれば、この胸に感じる言いしれない不安などなかったでしょうに。
「わかりました。オレが高市殿に代わって守役、兄を務めます。任せてください」
ニカッと笑って、軽く拳を作ってみせた川島さま。――えっと、それはちょっと、やっぱり不安……かしら。
胸にせまる辛い別れだったのに、少しだけ和らぐ。
「川島が兄なのは、ちょっと嫌だな」
それは大津も同じだったようで、少し顔を歪めた。年相応のふざけた時の顔。
「ええ~、それはないだろ」
情けなさそうな川島さまの声に、気持ちがほころぶ。
彼は高市異母兄さまのように豪胆な武勇の才には恵まれてなさそうだけど、代わりに人を和ませ、楽しませる才には富んでいる。
この方と一緒なら、この子の未来は大丈夫かもしれない。
「それでは」
「はい」
私達の背後、用意されていた輿に乗り込む。私が座ったことを確認すると、随身が出立の号令をかける。
グラリと揺れた輿の上。そこから続くは、遠い伊勢の地。斎宮として神にお仕えする人生。
どうか無事で、元気で――。
そっと切に願う。
一人、飛鳥の地に残される幼い弟。
どうか、誰かあの子を守ってあげてください。私の代わりに慈しんであげてください。あの子が一人隠れて唇を噛み締めなくてもいいように、優しく抱きしめてあげてください。
あの子は、私の弟は、聡いだけで、本当はとても弱い子なんです。
目の前に立つ私の幼い弟。
「立派に務めを果たされること、願っております」
こちらを見て、柔らかく微笑む。
たった二人だけの姉弟。
母はこの子が四つの時に身罷られた。父は存命だけれど、あまり親しく触れ合ったことはない。私たち姉弟は父の元を離れ、亡き祖父のもとで育った。この子は、祖父の期待を受けて、名を「大津」と改められた。
淡海の子。
先年起きた戦では、敵方となった淡海大津宮を脱出し、父の待つ伊勢国へと向かった。吉野で蜂起した父の子。叔父、大友皇子はこの子を敵の子として手にかけなかったかもしれないけれど、他の廷臣も同じとは限らない。
だから逃げてよかった。父に庇護されてよかった。
戦が終わり、無事に帰ってきた姿を見て安堵した。あちらでのことを楽しそうに話すのを微笑ましく思ってた。
けれど。
「大津。あなたも元気でね」
「はい。姉上も、伊勢でもつつがなくお過ごしください」
唯一の家族、その姉がこうして遠く離れた伊勢の地に向かうというのに、どうしてこの子は微笑んでいられるのかしら。どうして、そんなお手本のような弟でいられるのかしら。
見送られる側が、余計に寂しくなってしまう。
泣いてくれればいいのに。
泣いて、行っちゃ嫌だ、そばにいてほしいと駄々をこねてくれたらいいのに。
わずか十歳の弟がこんな……。
いいえ。
違うわ。
この子は泣かないの。泣けないの。
「大津……」
「あ、姉上?」
泣かない弟の代わりに私が泣いてあげる。
驚き戸惑うアナタを抱きしめてあげる。
アナタは、泣いてもどうにもならないことを知っているから。だから泣かないの。
母さまが亡くなった時もそうだった。
躯となっていく母さまを見て、この子は泣かなかった。周りの大人は、まだ幼いから母の死が理解できないのだろうって言っていたけど、そうじゃなかった。泣いても母さまが目を覚ますことがないことをわかっていたから、ジッと見ていただけだった。
聡く、物わかりの良すぎる子。
祖父のもとに引き取られた時もそう。
祖父が期待していることを感じ取っていた。勉学に励めば祖父が喜ぶと知っていた。
「皇子」であることに誇りを持っていたのではない。「皇子」であれば、誰かが愛してくれる。そう願って「皇子」を演じていた。
本当は、どうしようもないぐらい臆病で泣き虫で弱虫。寂しがり。
蜂や雷、果ては暗闇ですら怯えるのに、それをうまく隠してしまう。寂しくて泣きたくてもそれを隠してしまう。
夜の雷が怖くて、誰かにすがりつきたくても、グッとこらえて、上掛けを引っ被って唇を噛みしめる子。唇が赤く腫れても、涙が零れ落ちそうになっても我慢し続ける。そういう子。母のことだって、後で一人、声を殺して泣いていた。
このままずっとそばにいて守ってあげたいのに。このまま抱きしめ続けてあげたいのに。
――汝を斎宮に任ずる。朕に代わり伊勢へ下向し、神にお仕えせよ。
帝に即位した父の冷酷な命令。
たった二人っきりの姉弟なのに。こんな小さな弟を置いて伊勢にだなんて。
わかっている。
この命令は、叔母との駆け引きで生まれたものだということを。
私が誰かと結婚したら、その夫はこの子の有力な後ろ盾になる。すぐ下の異母弟、草壁との皇位継承争いが激化してしまう。
だから、私を神に仕えさせ、結婚できない斎宮とした。それなら、一時的ではあるけれど、継承問題の決着を棚上げできる。政争の渦中にこの子を巻き込まないですむ。
でも、だからといって、こんな――。
「姉上……?」
おずおずと私の背中に回された小さな手。
この少し戸惑った、それでいてすがりつきたいのを我慢している手を、私は一生忘れない。
「大津。これからはお父さま……はお忙しいから無理かもしれないけど、叔母さまや高市異母兄さまの言いつけを守っていくのですよ」
「はい」
この子がいい子を演じるのであれば、私もそれに応じる。
腕をほどき、立ち上がる。
「川島さま、この子を頼みます」
大津の背後に立っていた叔父、川島にこの子を託す。叔父といってもこの子とは六つ、私とは四つしか違わない。どちらかというと、この子の友達に近い間柄。淡海で暮らしていた時も、親しく接してくださっていた。
もし、私が斎宮に選ばれてなかったら、いずれこの方と結婚して、二人で弟の後見になれたのに。十市異母姉さまが大友叔父さまに嫁いだように、私もこの方に嫁いだはず。「好き」とか「愛しい」とかそういった感情は持ち合わせていないけれど、おそらく弟と三人で穏やかに楽しく暮らせたのに。そうなれば、この胸に感じる言いしれない不安などなかったでしょうに。
「わかりました。オレが高市殿に代わって守役、兄を務めます。任せてください」
ニカッと笑って、軽く拳を作ってみせた川島さま。――えっと、それはちょっと、やっぱり不安……かしら。
胸にせまる辛い別れだったのに、少しだけ和らぐ。
「川島が兄なのは、ちょっと嫌だな」
それは大津も同じだったようで、少し顔を歪めた。年相応のふざけた時の顔。
「ええ~、それはないだろ」
情けなさそうな川島さまの声に、気持ちがほころぶ。
彼は高市異母兄さまのように豪胆な武勇の才には恵まれてなさそうだけど、代わりに人を和ませ、楽しませる才には富んでいる。
この方と一緒なら、この子の未来は大丈夫かもしれない。
「それでは」
「はい」
私達の背後、用意されていた輿に乗り込む。私が座ったことを確認すると、随身が出立の号令をかける。
グラリと揺れた輿の上。そこから続くは、遠い伊勢の地。斎宮として神にお仕えする人生。
どうか無事で、元気で――。
そっと切に願う。
一人、飛鳥の地に残される幼い弟。
どうか、誰かあの子を守ってあげてください。私の代わりに慈しんであげてください。あの子が一人隠れて唇を噛み締めなくてもいいように、優しく抱きしめてあげてください。
あの子は、私の弟は、聡いだけで、本当はとても弱い子なんです。
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