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第六章 いにしへ恋うる鳥
二十三、いにしへ恋うる鳥(二)
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「すごい獲物を捕らえてきたね、大津」
「草壁」
幕舎に戻ると、先に帰っていたらしい草壁に声をかけられた。
「母上の采女だなんて。今日一番の獲物かもしれないよ」
「皇后さまつきの采女?」
「そうだよ。石川郎女。大名児。縁あって母上つきの采女を務めてる」
そうか。
この間、書庫に現れたのは、皇后の指示か。
「僕はただ、足を痛めて動けなかった彼女を連れてきただけだよ。丘の裾、草むらで動けなくなっていたんだ」
なるべく大きな声で話す。
「もう少しで獲物と間違えて射るところだったよ。危なかった」
やましいところはなにもない。
彼女――石川郎女は、菜を摘みに出て、彷徨ってあそこに転がり落ちたと言っていた。ウッカリ足を踏み外し、あの窪地に落ちてしまい、助けを呼ぶことも出来なくて困っていたのだと。草を採るための串も籠もそばに散らばっていたから、その理由に間違いはない。
そのまま見捨てるわけにもいかず、足を痛めたという彼女を歩かせるわけにもいかず。仕方なく馬に相乗りしてきただけ。今だって、自分は先に馬から降り、彼女を降ろす役目は真足に任せている。
(石川……。蘇我の娘か)
石川は蘇我とゆかりの深い地の名。
乙巳の変、先の戦と蘇我は敵方となり、一族は弱体化した。唯一父帝に味方した蘇我安麻呂の弟、宮麻呂が近年ようやく関われる様になったばかり。それも「蘇我」ではなく「石川」姓を名乗ったことで叶えられたもの。
自分と草壁の母方は、蘇我倉山田石川麻呂の血筋。皇后は石川麻呂の孫娘。ならその系譜の娘が、血筋を頼りに皇后の采女として仕えていてもおかしくない。
(蘇我……ね)
自分と草壁、そして皇后。山辺にもその血は流ている。
「そういう草壁は、帰ってくるの早くないか? もうなにか仕留めたのか?」
だとすると、狩りの一番手は、忍壁でも高市でもなく彼になる。
「違うよ。ぼくはこれを見つけたから。一旦、戻っただけなんだ」
そっと草壁が手のひらに載せたのは、まだ温もりの残っていそうな小さな鳥の卵。白い殻に小豆色の斑点が不規則に浮かぶ。
「氷高へお土産にってね。おそらくヒヨドリのものだと思うんだけど。親鳥が驚いて飛び立ったときにでも巣から落ちたんだろうね。木の下にあったんだけど、ほとんど割れてて。これだけがなんとか無事だったんだ」
たった一個助かった卵。それを持ち帰ってきたらしい。
「これが孵ったら、氷高、喜ぶだろうね」
「そうだね。楽しみだ」
幼い氷高が一生懸命卵を温める姿。壊さないように、でも寒くないように。
想像するだけで愛らしくいとおしい。
草壁も同じだったのだろう。卵を見つめながら細められた目は、とても優しい家族思いの父の目だ。
今日一番の獲物はこの卵かもしれない。
――ザワッ。
背後で、感嘆と驚愕、人々のどよめく声が上がる。
(なんだ?)
驚き、草壁と一緒にそちらを見る。
幕舎にあふれる女性たち。その間から見えたのは、袖から出した花を愛おしそうに眺め微笑む石川郎女。
手にした花。濃い緑の葉に囲まれ、小さな白い花弁を内包した花。
それは紫草。
染料となり、薬となる。この狩りで女性が採る草。
男性から愛をこめて贈られる草。
* * * *
――ザワッ。
その音より早く、戦慄が山辺の体を走る。
夫、大津とともに戻ってきた采女。日差しを浴びてつややかに輝く黒髪。白く透き通るような肌。黒目がちの潤んだ瞳。綺麗な形の唇。その衣装は草の汁で薄汚れていたけれど、美しい女性だと思った。
――僕はただ、足を痛めて動けなかった彼女を連れてきただけだよ。
そう夫は言った。あえて大きな声で。まるで自分はやましいところはないと公言するかのように。
実際そうなのだろう。そうであってほしい。そう願っていた。
だけど。
「姫さま……」
そばにいた夏見も目を見開き固まっている。
采女が袖から取り出した一輪の花。紫草。
紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも
昔の歌を思い出し、体に鉛が詰め込まれたような気分になる。あれは遠い昔のこと。帝がかつての妻、額田王との関係を戯れて歌ったもの。今とはなんの関係もない。
あの草がなんだというの? 紫草ならここにいる女性なら多かれ少なかれ採ってきているわ。別にあの一輪が特別なわけないじゃない。
あれもたまたま彼女が採ってきた一輪ってだけよ。それが袖に入っていたから取り出しただけ。
草の汁で汚れているのは、足を踏み外して窪地に落ちてしまったから。
馬に一緒に乗って帰ってきたのは、足を痛めていたから。
それだけ。それだけなの。
紫草を慈しんでるように見えるのは、きっと錯覚。
なのに。
ふっと顔を上げた采女と目が合う。目が合い、ほんの一瞬だけ微笑まれる。
「姫さまっ!?」
夏見が呼び止めるのもきかず、弾かれたようにその場を立ち去る。
わずかに勝ち誇ったような、嫌な笑み。
でも。
一番嫌いなのは、そんな風に思う自分の心。
* * * *
(いったいどういうつもりなんだ?)
狩りを終え、大宮で開かれた宴の席につく。
宴は夫婦列席とされ、帝、皇后を仰ぐようにして、上座から草壁、自分たち夫婦、高市と皇位継承順に続き、末席に父の妃嬪が幼い弟妹とともに座る。高市の妻御名部皇女は懐妊中、草壁の妻阿閉皇女は子を産んだばかりなので欠席している。その向こうは狩りに参加した廷臣たち。それぞれ狩りの手柄を語ったり、楽しげに酒を酌み交わす。
その合間を縫うようにして酌をして回る采女たち。そのうちの一人が、あの石川郎女だ。
草の汁で汚れた衣装を変え、髪にはあの紫草を挿している。
(書庫でのことといい。なにか裏があるのか?)
足を痛めたといいながら、にこやかに酌を続ける彼女。
あれは、自分に近づくための演技だったのか?
書庫に史書を借りに来たことも?
では、なんのために?
普通采女は帝以外の男に近づくことは許されていない。それは相手が皇子であっても変わらない。采女は身分こそ低い豪族の娘だが、帝に見初められることもある。亡き大友皇子の母、伊賀宅子娘は祖父淡海帝つきの采女だった。
そんな采女に懸想したとなれば、こちらの身も危うい。もちろん、采女自身も。
皇后つきの采女だというから、おそらく皇后の指示だろうが。
でもなんのために?
こちらが謀反を企んでると吹聴するためか?
采女に懸想した皇子の謀反。あり得ないことはない。
だが、あの采女に益はない。そんなことをすれば、せっかく「石川」を名乗り復権を果たしたばかりの「蘇我」の名に傷がつく。皇后が命じたとしても、素直に従うとは思えない。
「――どうした大津? 機嫌悪いぞ」
ふと声をかけられ、考えることをやめる。
「負けたことを、そんなにふてくされるな。山辺が困ってるぞ」
酒や肉、果物で彩られた餐を挟み、向かい側に座る高市。
「ええそうですよ。僕は異母兄上だけじゃなく、忍壁にも負けて拗ねてるんです」
グイッと酒を飲み干し、手に持った盃を空ける。
「ごめんね、山辺。こんな情けない男が夫で。がっかりしたよね」
「いいえ。がっかりなんていたしませんわ」
酔ったふりして山辺に体を寄せると、困ったような顔をして身を離された。
「――大津さまは、いつだって素晴らしい背の君ですから」
小さな呟きのような声。
「おお、言うようになったなあ、山辺」
声も大きく酔っ払ってるのは、高市の隣に座る川島。かなり呑んだのだろう。顔が赤い。
「ほら、お前の兄上さまが獲ってきた肉だぞ。食べろ」
グイグイと猪の肉を勧めてくる。川島の獲物は猪だったか? そんなすごいものを獲れる技量の持ち主だったか?
「こら、それは俺が獲ってきたものだろうが」
調子に乗った川島を、高市が牽制する。やはり、高市の獲物だったか。
「ええ~、別にどうでもいいじゃないですかぁ。オレたちは母は違えどみな兄弟。高市殿はオレの兄で、山辺の兄!! 高市殿の獲ったものは、オレが獲ったもの同じ!! 誰が獲っても“兄のもの”!!」
「すっごい屁理屈。わけわかんないよ……」
山辺を挟んで隣に座る忍壁が呆れた。川島の隣に座る泊瀬部も山辺も同じ。一番上座の草壁は、呆れを堪えて苦笑いしている。
うん。
ここは自分も同意しておこう。
わけがわからず、なんか愉快。
「草壁」
幕舎に戻ると、先に帰っていたらしい草壁に声をかけられた。
「母上の采女だなんて。今日一番の獲物かもしれないよ」
「皇后さまつきの采女?」
「そうだよ。石川郎女。大名児。縁あって母上つきの采女を務めてる」
そうか。
この間、書庫に現れたのは、皇后の指示か。
「僕はただ、足を痛めて動けなかった彼女を連れてきただけだよ。丘の裾、草むらで動けなくなっていたんだ」
なるべく大きな声で話す。
「もう少しで獲物と間違えて射るところだったよ。危なかった」
やましいところはなにもない。
彼女――石川郎女は、菜を摘みに出て、彷徨ってあそこに転がり落ちたと言っていた。ウッカリ足を踏み外し、あの窪地に落ちてしまい、助けを呼ぶことも出来なくて困っていたのだと。草を採るための串も籠もそばに散らばっていたから、その理由に間違いはない。
そのまま見捨てるわけにもいかず、足を痛めたという彼女を歩かせるわけにもいかず。仕方なく馬に相乗りしてきただけ。今だって、自分は先に馬から降り、彼女を降ろす役目は真足に任せている。
(石川……。蘇我の娘か)
石川は蘇我とゆかりの深い地の名。
乙巳の変、先の戦と蘇我は敵方となり、一族は弱体化した。唯一父帝に味方した蘇我安麻呂の弟、宮麻呂が近年ようやく関われる様になったばかり。それも「蘇我」ではなく「石川」姓を名乗ったことで叶えられたもの。
自分と草壁の母方は、蘇我倉山田石川麻呂の血筋。皇后は石川麻呂の孫娘。ならその系譜の娘が、血筋を頼りに皇后の采女として仕えていてもおかしくない。
(蘇我……ね)
自分と草壁、そして皇后。山辺にもその血は流ている。
「そういう草壁は、帰ってくるの早くないか? もうなにか仕留めたのか?」
だとすると、狩りの一番手は、忍壁でも高市でもなく彼になる。
「違うよ。ぼくはこれを見つけたから。一旦、戻っただけなんだ」
そっと草壁が手のひらに載せたのは、まだ温もりの残っていそうな小さな鳥の卵。白い殻に小豆色の斑点が不規則に浮かぶ。
「氷高へお土産にってね。おそらくヒヨドリのものだと思うんだけど。親鳥が驚いて飛び立ったときにでも巣から落ちたんだろうね。木の下にあったんだけど、ほとんど割れてて。これだけがなんとか無事だったんだ」
たった一個助かった卵。それを持ち帰ってきたらしい。
「これが孵ったら、氷高、喜ぶだろうね」
「そうだね。楽しみだ」
幼い氷高が一生懸命卵を温める姿。壊さないように、でも寒くないように。
想像するだけで愛らしくいとおしい。
草壁も同じだったのだろう。卵を見つめながら細められた目は、とても優しい家族思いの父の目だ。
今日一番の獲物はこの卵かもしれない。
――ザワッ。
背後で、感嘆と驚愕、人々のどよめく声が上がる。
(なんだ?)
驚き、草壁と一緒にそちらを見る。
幕舎にあふれる女性たち。その間から見えたのは、袖から出した花を愛おしそうに眺め微笑む石川郎女。
手にした花。濃い緑の葉に囲まれ、小さな白い花弁を内包した花。
それは紫草。
染料となり、薬となる。この狩りで女性が採る草。
男性から愛をこめて贈られる草。
* * * *
――ザワッ。
その音より早く、戦慄が山辺の体を走る。
夫、大津とともに戻ってきた采女。日差しを浴びてつややかに輝く黒髪。白く透き通るような肌。黒目がちの潤んだ瞳。綺麗な形の唇。その衣装は草の汁で薄汚れていたけれど、美しい女性だと思った。
――僕はただ、足を痛めて動けなかった彼女を連れてきただけだよ。
そう夫は言った。あえて大きな声で。まるで自分はやましいところはないと公言するかのように。
実際そうなのだろう。そうであってほしい。そう願っていた。
だけど。
「姫さま……」
そばにいた夏見も目を見開き固まっている。
采女が袖から取り出した一輪の花。紫草。
紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも
昔の歌を思い出し、体に鉛が詰め込まれたような気分になる。あれは遠い昔のこと。帝がかつての妻、額田王との関係を戯れて歌ったもの。今とはなんの関係もない。
あの草がなんだというの? 紫草ならここにいる女性なら多かれ少なかれ採ってきているわ。別にあの一輪が特別なわけないじゃない。
あれもたまたま彼女が採ってきた一輪ってだけよ。それが袖に入っていたから取り出しただけ。
草の汁で汚れているのは、足を踏み外して窪地に落ちてしまったから。
馬に一緒に乗って帰ってきたのは、足を痛めていたから。
それだけ。それだけなの。
紫草を慈しんでるように見えるのは、きっと錯覚。
なのに。
ふっと顔を上げた采女と目が合う。目が合い、ほんの一瞬だけ微笑まれる。
「姫さまっ!?」
夏見が呼び止めるのもきかず、弾かれたようにその場を立ち去る。
わずかに勝ち誇ったような、嫌な笑み。
でも。
一番嫌いなのは、そんな風に思う自分の心。
* * * *
(いったいどういうつもりなんだ?)
狩りを終え、大宮で開かれた宴の席につく。
宴は夫婦列席とされ、帝、皇后を仰ぐようにして、上座から草壁、自分たち夫婦、高市と皇位継承順に続き、末席に父の妃嬪が幼い弟妹とともに座る。高市の妻御名部皇女は懐妊中、草壁の妻阿閉皇女は子を産んだばかりなので欠席している。その向こうは狩りに参加した廷臣たち。それぞれ狩りの手柄を語ったり、楽しげに酒を酌み交わす。
その合間を縫うようにして酌をして回る采女たち。そのうちの一人が、あの石川郎女だ。
草の汁で汚れた衣装を変え、髪にはあの紫草を挿している。
(書庫でのことといい。なにか裏があるのか?)
足を痛めたといいながら、にこやかに酌を続ける彼女。
あれは、自分に近づくための演技だったのか?
書庫に史書を借りに来たことも?
では、なんのために?
普通采女は帝以外の男に近づくことは許されていない。それは相手が皇子であっても変わらない。采女は身分こそ低い豪族の娘だが、帝に見初められることもある。亡き大友皇子の母、伊賀宅子娘は祖父淡海帝つきの采女だった。
そんな采女に懸想したとなれば、こちらの身も危うい。もちろん、采女自身も。
皇后つきの采女だというから、おそらく皇后の指示だろうが。
でもなんのために?
こちらが謀反を企んでると吹聴するためか?
采女に懸想した皇子の謀反。あり得ないことはない。
だが、あの采女に益はない。そんなことをすれば、せっかく「石川」を名乗り復権を果たしたばかりの「蘇我」の名に傷がつく。皇后が命じたとしても、素直に従うとは思えない。
「――どうした大津? 機嫌悪いぞ」
ふと声をかけられ、考えることをやめる。
「負けたことを、そんなにふてくされるな。山辺が困ってるぞ」
酒や肉、果物で彩られた餐を挟み、向かい側に座る高市。
「ええそうですよ。僕は異母兄上だけじゃなく、忍壁にも負けて拗ねてるんです」
グイッと酒を飲み干し、手に持った盃を空ける。
「ごめんね、山辺。こんな情けない男が夫で。がっかりしたよね」
「いいえ。がっかりなんていたしませんわ」
酔ったふりして山辺に体を寄せると、困ったような顔をして身を離された。
「――大津さまは、いつだって素晴らしい背の君ですから」
小さな呟きのような声。
「おお、言うようになったなあ、山辺」
声も大きく酔っ払ってるのは、高市の隣に座る川島。かなり呑んだのだろう。顔が赤い。
「ほら、お前の兄上さまが獲ってきた肉だぞ。食べろ」
グイグイと猪の肉を勧めてくる。川島の獲物は猪だったか? そんなすごいものを獲れる技量の持ち主だったか?
「こら、それは俺が獲ってきたものだろうが」
調子に乗った川島を、高市が牽制する。やはり、高市の獲物だったか。
「ええ~、別にどうでもいいじゃないですかぁ。オレたちは母は違えどみな兄弟。高市殿はオレの兄で、山辺の兄!! 高市殿の獲ったものは、オレが獲ったもの同じ!! 誰が獲っても“兄のもの”!!」
「すっごい屁理屈。わけわかんないよ……」
山辺を挟んで隣に座る忍壁が呆れた。川島の隣に座る泊瀬部も山辺も同じ。一番上座の草壁は、呆れを堪えて苦笑いしている。
うん。
ここは自分も同意しておこう。
わけがわからず、なんか愉快。
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