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第三章 国 まほろば
九、国 まほろば(三)
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「ごめんよ、葛野」
シッカリ前を見てなかった川島が、ぶつかったひょうしに転んだ自身の甥、葛野に手を差し出す。
「いえ」
手を取ることなく、葛野が起き上がる。
その間に、彼の周りに散らばっていた、いくつかの木冊書を拾い上げてやる。
「勉強、頑張ってるんだね、葛野。文書博士のところにでも行ってたの?」
感心しながら拾ったものを渡す。木簡を糸で綴じたそれは、彼が学んだ結果なのだろう。やや拙い字で書き記され、ところどころ薄く削られ書き直されていた。
「ぼくには……これしかできませんので」
渡した木冊書を抱え直し、うつむいた葛野。よほどこの木冊書が大切なのだろう。
「……大津殿、帝から“始聴朝政”を命じられたと聞きました」
「え? あ、うん」
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
祝辞を述べているとは思えない硬い声。
「なんだぁ、葛野ぉ。お前、なんか暗いぞぉ? どっか痛いのか? ほら叔父さんに見せてみろ」
「別に痛くないですよ」
茶化した川島の手を葛野がはねのけた。
「それより叔父上は連れ立ってどこに行くつもりだったんです? まさかまた政務から逃げ出してないですよね?」
ギクッ。
「い、いやあ、それはぁ~」
川島が返答につまり、目が泳いだ。
年端のいかない甥にやり込められるとは。葛野は今年で十四。泊瀬部と同じ年頃。やはり川島はちょっと情けない。
「まったく。叔父上がそんな調子だから……、ぼくは……」
「葛野?」
ギュッと木冊書を抱きしめた葛野。言葉が途切れたのは、下唇を噛んでしまったから。
「……ぼくもいつか朝政に参加させてもらえるのでしょうか」
苦しそうに絞り出された声。
「そりゃあ、いつかは召されるんじゃないか? 大人になったらいずれは」
「でも……」
「大丈夫だよ、葛野。父上はお前が優秀なこと、わかっていらっしゃるよ」
軽く膝を折り、幼い従兄弟に視線を合わせる。
「お前がこうやって学問に励んでいることは、きっとご存知だよ」
「でも……、ぼくは淡海の子だから」
「……誰かに言われたのか?」
川島が明後日の方を見ながら、ため息混じりにボリボリと頭を掻く。
再び噛み締められた葛野の唇。どうやら正解だったらしい。
お前は淡海の子だから、頑張ったって無駄だ。帝の孫だが、敵の子だ。
そんなお前が出世など望めるわけがない。
幼くして父を亡くし、母も亡くした葛野。寄るべきものがこの宮にはない。
「“淡海の子”って。それを言ったら僕なんて“大津”だよ? 僕こそ正真正銘、“淡海の子”じゃないか」
「淡海大津宮」から名付けられた。それが自分。
淡海帝を祖父に持ち、祖父のもとで育った。
「何を言うか。“淡海の子”ならここにもいるぞ。なんたって、オレの父上は淡海帝だからな。由緒正しき“淡海の子”だ」
「いや、由緒正しきって」
「そんなこと自慢してどうするんですか、叔父上」
葛野が呆れ、顔を上げた。
「あのな、葛野。帝はそんなことで区別なさったりしないさ。お前が研鑽を積んで立派な大人になれば、ちゃんと参与させてくださるさ。オレみたいに、な」
顔を上げた葛野にニカッと笑いかける川島。腰に手を当て、ふんぞり返る。
「オレなんか見てみろ。あまりの有能さに、引く手あまた、あっちからもこっちからもお呼びがかかって休む暇もないぐらい忙しいときている。”淡海の子”かどうかなんて、暇を飽かした無能者がやっかんでるだけだ。気にするな」
川島が引く手あまたの有能者? そんな称賛、初めて聞いた。
「ってことで、勉強ばっかりのお前に、叔父上さまからのありがた~い教えを授けてやろう。『ほどよく学び、大いに遊べ』、だ。勉学ばかりでは息が詰まるからな」
「川島、お前……」
さきほど自分に言ってきたのと同じはないか。
「ほどよく」するべきことと「大いに」するべきことが逆転している気がする。
「叔父上……」
「ま、なんでもいいからお前も息抜きしろ。でないと、いつか息の仕方を忘れて窒息するぞ」
「そんな間抜けにはなりませんよ」
グアア~っとおどけ、苦しげに自分の喉を絞めて見せた叔父に、醒めた反応の甥。
「いんや。お前はきっとそうなる。だから今日はオレが直々に息抜きの技を伝授してやる。お前も来い、葛野!!」
木冊書を握ったままの葛野の手を無理やり掴む。
「――ほう。息抜きの技、とな」
走り出しかけた川島がギクリと立ち止まる。
「た、高市殿……」
「それは是非俺にも指南いただきたいものだな、川島」
門を背後に腕組みして立つ異母兄、高市。
「……まったく、少し目を離せばすぐにこれだ。いつになったら、腰を落ち着けて政務に取り掛かるようになるのだ。大津もだ。朝政に参加するように申し渡されたというのに、川島とつるんでフラフラと」
なぜ自分まで? とばっちりだ。
「ち、違いますよ。今日はフラフラじゃありません!!」
珍しく川島が抗議した。
「今日は」なんだな。「今日も」だと思ったんだが。
川島のフラフラはいつものことだ。
「今日はですね、真面目一辺倒な甥の見識を広める。そういうフラフラ、息抜きの技なんですよ!!」
フラフラは認めるのか。
笑いたくなるが、自分も叱られてる身なので神妙にしておく。
「書物では知ることのできない、“もののあはれ”を感じ取り、詩を嗜む。それを教えてやろうと思ってたんです」
最初は、「始聴朝政の祝い酒」が逃げ出す口実じゃなかったか。
川島の言い訳はコロコロ変化する。
「ほう。お前に“もののあはれ”が理解できるのか?」
「ええ。これでも風雅を好み、よろず言の葉を操る伶ですからね。いざとなれば、神の御心も、天地ですら動かしてみせますよ」
エッヘン。
川島が胸を反らした。
「ほう。天地を動かす、か」
「はい!! そのための見聞、見識です!!」
「だが、父上は御心を動かされなかったぞ」
「へ?」
「父上だけではない。この間の詩賦。そこにいた誰の心すら動くことなかった」
「え、っと……」
川島の反らされた胸が元に戻る。
「父上を感銘させたのは大津、お前の歌だ。漢言葉だけでなく、大和歌にも通じているのかと、いたく感心しておられた。俺も歌の良し悪しはよくわからんが、素晴らしいと感じた」
ええーっと、残念そうに眉を下げた川島と、羨望の眼差しの葛野。
(ああ、まただ……)
「ありがとうございます、異母兄上。でも僕は、心のままに詠んだだけで、大したことは……」
「それが大事なのだ、大津。人の心を動かすのは技ではない。心から漏れいでた想いなのだ。キザったらしく技巧まみれの歌では誰も感動せん」
「……それって、オレの歌のこと言ってます? 高市殿」
ショボンと肩を落とした川島。
叔父としての面目もなにもない。
「ということで、川島。お前は政務に戻れ。お前は人に教える云々の前に、己の職務を果たし、人としての研鑽を積め」
「えええ~っ!! ちょちょちょっと待ってくださいよ~、高市殿~」
川島が、情けない声を上げながら首根っこを引っつかまれ、元いた場所へと連れ去られていった。
残ったのは自分と葛野。葛野は、師と仰ぐにはいささかどころか多分に不安のある叔父の情けない姿に嘆息を漏らす。
「でも、川島の言うことにも一理あるんだよ、葛野」
川島の代わりに諭す。まさか、こんな役回りが巡ってくるとは思ってなかったけど。
「時にはゆっくり息をつかないと。根を詰めても、いい結果が出るとは限らないからね」
「ですが……」
「そうだ。今度、氷高と長屋が遊びに来るんだけど、葛野も一緒にどう? 忍壁も泊瀬部も呼ぶつもりだし。葛野が来てくれたら、山辺もみんなも喜ぶよ」
賑やかなことが好きな妻だ。きっと葛野が増えても喜んでくれる。みんなでワイワイやれば、きっと楽しい。気が晴れる。
「――行きませんよ。ぼくは高市殿の仰る通り、研鑽を積むことにします」
“淡海の子”。
“淡海の子”だから、一日でも早く立派な人物にならなければ。
“淡海の子”だから、誰よりも素晴らしくあらねば。
“淡海の子”だから、誰かに認めてもらえるように努めねば。
木冊書を抱え、足早に立ち去る葛野。
(淡海の子……か)
その幼い背中に、言葉にできない思いが深まる。
シッカリ前を見てなかった川島が、ぶつかったひょうしに転んだ自身の甥、葛野に手を差し出す。
「いえ」
手を取ることなく、葛野が起き上がる。
その間に、彼の周りに散らばっていた、いくつかの木冊書を拾い上げてやる。
「勉強、頑張ってるんだね、葛野。文書博士のところにでも行ってたの?」
感心しながら拾ったものを渡す。木簡を糸で綴じたそれは、彼が学んだ結果なのだろう。やや拙い字で書き記され、ところどころ薄く削られ書き直されていた。
「ぼくには……これしかできませんので」
渡した木冊書を抱え直し、うつむいた葛野。よほどこの木冊書が大切なのだろう。
「……大津殿、帝から“始聴朝政”を命じられたと聞きました」
「え? あ、うん」
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
祝辞を述べているとは思えない硬い声。
「なんだぁ、葛野ぉ。お前、なんか暗いぞぉ? どっか痛いのか? ほら叔父さんに見せてみろ」
「別に痛くないですよ」
茶化した川島の手を葛野がはねのけた。
「それより叔父上は連れ立ってどこに行くつもりだったんです? まさかまた政務から逃げ出してないですよね?」
ギクッ。
「い、いやあ、それはぁ~」
川島が返答につまり、目が泳いだ。
年端のいかない甥にやり込められるとは。葛野は今年で十四。泊瀬部と同じ年頃。やはり川島はちょっと情けない。
「まったく。叔父上がそんな調子だから……、ぼくは……」
「葛野?」
ギュッと木冊書を抱きしめた葛野。言葉が途切れたのは、下唇を噛んでしまったから。
「……ぼくもいつか朝政に参加させてもらえるのでしょうか」
苦しそうに絞り出された声。
「そりゃあ、いつかは召されるんじゃないか? 大人になったらいずれは」
「でも……」
「大丈夫だよ、葛野。父上はお前が優秀なこと、わかっていらっしゃるよ」
軽く膝を折り、幼い従兄弟に視線を合わせる。
「お前がこうやって学問に励んでいることは、きっとご存知だよ」
「でも……、ぼくは淡海の子だから」
「……誰かに言われたのか?」
川島が明後日の方を見ながら、ため息混じりにボリボリと頭を掻く。
再び噛み締められた葛野の唇。どうやら正解だったらしい。
お前は淡海の子だから、頑張ったって無駄だ。帝の孫だが、敵の子だ。
そんなお前が出世など望めるわけがない。
幼くして父を亡くし、母も亡くした葛野。寄るべきものがこの宮にはない。
「“淡海の子”って。それを言ったら僕なんて“大津”だよ? 僕こそ正真正銘、“淡海の子”じゃないか」
「淡海大津宮」から名付けられた。それが自分。
淡海帝を祖父に持ち、祖父のもとで育った。
「何を言うか。“淡海の子”ならここにもいるぞ。なんたって、オレの父上は淡海帝だからな。由緒正しき“淡海の子”だ」
「いや、由緒正しきって」
「そんなこと自慢してどうするんですか、叔父上」
葛野が呆れ、顔を上げた。
「あのな、葛野。帝はそんなことで区別なさったりしないさ。お前が研鑽を積んで立派な大人になれば、ちゃんと参与させてくださるさ。オレみたいに、な」
顔を上げた葛野にニカッと笑いかける川島。腰に手を当て、ふんぞり返る。
「オレなんか見てみろ。あまりの有能さに、引く手あまた、あっちからもこっちからもお呼びがかかって休む暇もないぐらい忙しいときている。”淡海の子”かどうかなんて、暇を飽かした無能者がやっかんでるだけだ。気にするな」
川島が引く手あまたの有能者? そんな称賛、初めて聞いた。
「ってことで、勉強ばっかりのお前に、叔父上さまからのありがた~い教えを授けてやろう。『ほどよく学び、大いに遊べ』、だ。勉学ばかりでは息が詰まるからな」
「川島、お前……」
さきほど自分に言ってきたのと同じはないか。
「ほどよく」するべきことと「大いに」するべきことが逆転している気がする。
「叔父上……」
「ま、なんでもいいからお前も息抜きしろ。でないと、いつか息の仕方を忘れて窒息するぞ」
「そんな間抜けにはなりませんよ」
グアア~っとおどけ、苦しげに自分の喉を絞めて見せた叔父に、醒めた反応の甥。
「いんや。お前はきっとそうなる。だから今日はオレが直々に息抜きの技を伝授してやる。お前も来い、葛野!!」
木冊書を握ったままの葛野の手を無理やり掴む。
「――ほう。息抜きの技、とな」
走り出しかけた川島がギクリと立ち止まる。
「た、高市殿……」
「それは是非俺にも指南いただきたいものだな、川島」
門を背後に腕組みして立つ異母兄、高市。
「……まったく、少し目を離せばすぐにこれだ。いつになったら、腰を落ち着けて政務に取り掛かるようになるのだ。大津もだ。朝政に参加するように申し渡されたというのに、川島とつるんでフラフラと」
なぜ自分まで? とばっちりだ。
「ち、違いますよ。今日はフラフラじゃありません!!」
珍しく川島が抗議した。
「今日は」なんだな。「今日も」だと思ったんだが。
川島のフラフラはいつものことだ。
「今日はですね、真面目一辺倒な甥の見識を広める。そういうフラフラ、息抜きの技なんですよ!!」
フラフラは認めるのか。
笑いたくなるが、自分も叱られてる身なので神妙にしておく。
「書物では知ることのできない、“もののあはれ”を感じ取り、詩を嗜む。それを教えてやろうと思ってたんです」
最初は、「始聴朝政の祝い酒」が逃げ出す口実じゃなかったか。
川島の言い訳はコロコロ変化する。
「ほう。お前に“もののあはれ”が理解できるのか?」
「ええ。これでも風雅を好み、よろず言の葉を操る伶ですからね。いざとなれば、神の御心も、天地ですら動かしてみせますよ」
エッヘン。
川島が胸を反らした。
「ほう。天地を動かす、か」
「はい!! そのための見聞、見識です!!」
「だが、父上は御心を動かされなかったぞ」
「へ?」
「父上だけではない。この間の詩賦。そこにいた誰の心すら動くことなかった」
「え、っと……」
川島の反らされた胸が元に戻る。
「父上を感銘させたのは大津、お前の歌だ。漢言葉だけでなく、大和歌にも通じているのかと、いたく感心しておられた。俺も歌の良し悪しはよくわからんが、素晴らしいと感じた」
ええーっと、残念そうに眉を下げた川島と、羨望の眼差しの葛野。
(ああ、まただ……)
「ありがとうございます、異母兄上。でも僕は、心のままに詠んだだけで、大したことは……」
「それが大事なのだ、大津。人の心を動かすのは技ではない。心から漏れいでた想いなのだ。キザったらしく技巧まみれの歌では誰も感動せん」
「……それって、オレの歌のこと言ってます? 高市殿」
ショボンと肩を落とした川島。
叔父としての面目もなにもない。
「ということで、川島。お前は政務に戻れ。お前は人に教える云々の前に、己の職務を果たし、人としての研鑽を積め」
「えええ~っ!! ちょちょちょっと待ってくださいよ~、高市殿~」
川島が、情けない声を上げながら首根っこを引っつかまれ、元いた場所へと連れ去られていった。
残ったのは自分と葛野。葛野は、師と仰ぐにはいささかどころか多分に不安のある叔父の情けない姿に嘆息を漏らす。
「でも、川島の言うことにも一理あるんだよ、葛野」
川島の代わりに諭す。まさか、こんな役回りが巡ってくるとは思ってなかったけど。
「時にはゆっくり息をつかないと。根を詰めても、いい結果が出るとは限らないからね」
「ですが……」
「そうだ。今度、氷高と長屋が遊びに来るんだけど、葛野も一緒にどう? 忍壁も泊瀬部も呼ぶつもりだし。葛野が来てくれたら、山辺もみんなも喜ぶよ」
賑やかなことが好きな妻だ。きっと葛野が増えても喜んでくれる。みんなでワイワイやれば、きっと楽しい。気が晴れる。
「――行きませんよ。ぼくは高市殿の仰る通り、研鑽を積むことにします」
“淡海の子”。
“淡海の子”だから、一日でも早く立派な人物にならなければ。
“淡海の子”だから、誰よりも素晴らしくあらねば。
“淡海の子”だから、誰かに認めてもらえるように努めねば。
木冊書を抱え、足早に立ち去る葛野。
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その幼い背中に、言葉にできない思いが深まる。
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