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第三章 国 まほろば
七、国 まほろば(一)
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「汝、大津。そなたに“始聴朝政”を許す」
拝謁し平伏した上にかかった言葉。
――大宮、朝堂へ参れ。
その命に呼ばれた理由を察してはいたが、こうして直に伝えられると、やはりズシリと響くものがある。
始聴朝政。
皇子として、政に参加せよ。
「臣大津、ここに謹んでお受けいたします。これよりは大君の僕となり、御世の弥栄を支えてまいります」
「――励め」
「ハッ」
さらに深くひれ伏す。
こうなることはわかっていた。
去年より、皇后鸕野讚良たっての願いで、朝政に就くことが許された異母兄草壁。その彼に第二子が生まれた。生まれた子は男子。
これに対し、父が無策でいるわけがない。
遅かれ早かれ、自分がこうして政治に関わることを命じられるのはわかっていた。
皇后鸕野讚良を母に持つ草壁。
皇后の同母姉、大田皇女を母に持つ自分。
母はすでに泉下の人となっているが、もし存命であれば立后していたであろう立場にあった。母方祖父は父の兄、淡海帝。祖母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。どちらの系譜も、父の皇太子になるに相応しい血筋。
自分と草壁の差は、母が存命であるかどうか。それと、どちらが早く生まれたか。
草壁には皇后となった母がいて、自分より先に生まれている。先に生まれていたから。母親が皇后となっていたから。
それは、もし自分の母が生きていて皇后となっていたなら、簡単にひっくり返せるほどの力の差でしかない。
だから、父は自分を使う。
草壁は立太子していない。年齢に伴い、自分に先んじて“始聴朝政”となっただけ。ならば、遅れて異母弟の自分も“始聴朝政”となったとしても問題ない。
先に政に関わっただけで皇太子と認めることはない。それが父の意志。
皇后の、政に関わらせることで、息子を事実上の皇太子だと認めさせるという野望に釘を刺すことができる。
父帝と皇后。
先の戦より共にあった二人は、未だに戦を終えていない。
草壁に男子が生まれたことで皇后側に傾きかけた流れを、自分を政に関わらせることで元に引き戻した。
父帝と皇后。
共に支え合い、戦ってきた盟友でもある二人は、見据える未来まで同じではなかった。仲睦まじい夫婦を演じながら、水面下で見えない駆け引きをくり返す。
静かな朝堂に生まれた衣擦れの音。朝見を終え、立ち上がった父と皇后。
立ち去る二人の横顔をチラリと盗み見る。
白秋を迎えてもなお、衰えることない厳しさをを見せる父。齢を重ねた分、帝王として近寄りがたい威厳を放つ。
皇后は、こちらを一瞥することもなく、父の後を歩いて行く。真っ直ぐに引き結んだままの口元から感情を読み取ることはできなかった。
あれが父と叔母か。
額ずく石畳と同じ冷たさ。それが王者なのだと言われればそれまでなのだが、やはりどこか寂しく思える。
亡き母は、あの叔母に似た容姿だったのだろうか。阿閉が赤子を抱き慈しんだように、自分も母に慈しまれたのだろうか。姉は、氷高のように姉たらんと務めていたのだろうか。草壁のように父は自分を愛おし気に見つめてくれたのだろうか。
いや。
夢想しても無駄なこと。母は亡くなり、自分は父の元を離れ祖父に育てられた。長じて父のもとに帰ることになったけれど、代わりに姉が伊勢へと送られた。帝となった父とは隔たったまま。こんなに近くにいるのに、遠く感じる。
* * * *
「おめでとう。それと、お疲れさまだね、大津」
「草壁」
「これできみも、高市異母兄上にこき使われるよ。覚悟して」
「うん、まあそうだね。……ハア、使われたくないなあ」
冷たく去った父の代わりに、にこやか祝いを述べながら近づいてきた異母兄。
ため息をついて、「疲れた」と大げさに肩を落とす。
「どうした? うれしくない?」
「うれしくない。こき使われるのなんてちっともうれしくない。僕はもっと遊んでいたい」
「川島みたいに?」
「うん。彼みたいにフラフラしていたい」
言って兄弟で軽く笑う。
「まあ、それだけきみが大きくなった、大人になったってことだよ」
「大人……ねえ」
大人になんてなりたくない。ましてや、父上の駒になど。
草壁だってわかっているはずだ。自分がこうして“始聴朝政”を許された意味を。許されたことを、彼の母、皇后がどのように思っているのかも。
「ぼくとしては、きみが政に参与してくれるのはうれしいよ。なにより心強い仲間だ。一緒に父帝の御世をお支えしていこう」
「支えなら高市異母兄上と草壁がいれば充分だよ。川島もいるし」
「支える手は多いほどいいよ。六本より八本。それに、川島の手はフニャフニャで少し頼りない」
「そうだなあ。あれはフニャフニャだし、よく逃げ出して遊び呆ける。支えには不向きだな」
再び笑いの種に川島を使う。本人が聞いたら「ひどすぎる」と憤慨するだろう。想像するだけで、また口元が緩む。
「まあ、始めたばかりは本当に周囲の意見、やり方を“聴く”だけだから。そう気負わずに話だけでも聞きに来るといい。大津は漢の史書、とりわけ『尚書』を読むのが好きだっただろう? あれの生の雰囲気を味わうことができるよ」
『尚書』は、古えの漢国の天子、諸侯の訓戒、戦の檄文が書かれている。幼い頃、祖父が自分に与えた書物の一つだ。愛読とまでは言わないが、それでもよく手にしていた。
「いや、あれは退屈だったし、面白いから読んでいただけで。実際には味わいたくないな。面倒くさい」
そこから訓戒を学び、仁政を学ぶために読んでいたわけではない。単純に、知らないことを知るのが楽しかったのだ。
読み物としては優秀だが、それが現実になって政争に巻き込まれていくのを楽しく思うはずがない。どちらかというと逃げ出したい。
「そう言わずに。きみが参与してくれると、ぼくの仕事が減って助かる」
「仕事、減らしたいのか?」
「うん。まだ赤子が生まれたばかりだからね。氷高が寂しがるんだよ。弟に母親を取られた気分なんだろう。ぼくに甘えて仕方ないんだ」
「それは大変だ。早く帰ってやらなきゃだね」
「うん、だからきみに仕事を任せたいんだよ」
「うーん、氷高のため……かあ」
困った、困った。悩ましげに顎に手を当て、思案するふりをしてみる。
「頼むよ、大津」
「仕方ないなあ。かわいい姪っ子のためだ。任されてやるかあ」
大仰に納得してみせ、二人で笑い合う。
草壁。
子煩悩な父親だな、と思う。
その柔らかな眼差しは、今ここにいない愛娘にむけられ慈しんでいる。
優しい父親。優しい異母兄。
政敵となる自分の参与に対して、ここまで喜ぶとは。
他の誰かならそういう演技に思えるかもしれないが、草壁は違う。彼は、異母兄はどこまでも優しい。
だからこそ心を痛めている。憂いている。
父帝と皇后の水面下の争いを。
自分たちを駒に争い続ける父帝と皇后。いつかその決着はつくのだろうか。
決着がついた時、自分と愛する家族はどうなってしまうのか。
無事であること。それを願わずにはいられない。
拝謁し平伏した上にかかった言葉。
――大宮、朝堂へ参れ。
その命に呼ばれた理由を察してはいたが、こうして直に伝えられると、やはりズシリと響くものがある。
始聴朝政。
皇子として、政に参加せよ。
「臣大津、ここに謹んでお受けいたします。これよりは大君の僕となり、御世の弥栄を支えてまいります」
「――励め」
「ハッ」
さらに深くひれ伏す。
こうなることはわかっていた。
去年より、皇后鸕野讚良たっての願いで、朝政に就くことが許された異母兄草壁。その彼に第二子が生まれた。生まれた子は男子。
これに対し、父が無策でいるわけがない。
遅かれ早かれ、自分がこうして政治に関わることを命じられるのはわかっていた。
皇后鸕野讚良を母に持つ草壁。
皇后の同母姉、大田皇女を母に持つ自分。
母はすでに泉下の人となっているが、もし存命であれば立后していたであろう立場にあった。母方祖父は父の兄、淡海帝。祖母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。どちらの系譜も、父の皇太子になるに相応しい血筋。
自分と草壁の差は、母が存命であるかどうか。それと、どちらが早く生まれたか。
草壁には皇后となった母がいて、自分より先に生まれている。先に生まれていたから。母親が皇后となっていたから。
それは、もし自分の母が生きていて皇后となっていたなら、簡単にひっくり返せるほどの力の差でしかない。
だから、父は自分を使う。
草壁は立太子していない。年齢に伴い、自分に先んじて“始聴朝政”となっただけ。ならば、遅れて異母弟の自分も“始聴朝政”となったとしても問題ない。
先に政に関わっただけで皇太子と認めることはない。それが父の意志。
皇后の、政に関わらせることで、息子を事実上の皇太子だと認めさせるという野望に釘を刺すことができる。
父帝と皇后。
先の戦より共にあった二人は、未だに戦を終えていない。
草壁に男子が生まれたことで皇后側に傾きかけた流れを、自分を政に関わらせることで元に引き戻した。
父帝と皇后。
共に支え合い、戦ってきた盟友でもある二人は、見据える未来まで同じではなかった。仲睦まじい夫婦を演じながら、水面下で見えない駆け引きをくり返す。
静かな朝堂に生まれた衣擦れの音。朝見を終え、立ち上がった父と皇后。
立ち去る二人の横顔をチラリと盗み見る。
白秋を迎えてもなお、衰えることない厳しさをを見せる父。齢を重ねた分、帝王として近寄りがたい威厳を放つ。
皇后は、こちらを一瞥することもなく、父の後を歩いて行く。真っ直ぐに引き結んだままの口元から感情を読み取ることはできなかった。
あれが父と叔母か。
額ずく石畳と同じ冷たさ。それが王者なのだと言われればそれまでなのだが、やはりどこか寂しく思える。
亡き母は、あの叔母に似た容姿だったのだろうか。阿閉が赤子を抱き慈しんだように、自分も母に慈しまれたのだろうか。姉は、氷高のように姉たらんと務めていたのだろうか。草壁のように父は自分を愛おし気に見つめてくれたのだろうか。
いや。
夢想しても無駄なこと。母は亡くなり、自分は父の元を離れ祖父に育てられた。長じて父のもとに帰ることになったけれど、代わりに姉が伊勢へと送られた。帝となった父とは隔たったまま。こんなに近くにいるのに、遠く感じる。
* * * *
「おめでとう。それと、お疲れさまだね、大津」
「草壁」
「これできみも、高市異母兄上にこき使われるよ。覚悟して」
「うん、まあそうだね。……ハア、使われたくないなあ」
冷たく去った父の代わりに、にこやか祝いを述べながら近づいてきた異母兄。
ため息をついて、「疲れた」と大げさに肩を落とす。
「どうした? うれしくない?」
「うれしくない。こき使われるのなんてちっともうれしくない。僕はもっと遊んでいたい」
「川島みたいに?」
「うん。彼みたいにフラフラしていたい」
言って兄弟で軽く笑う。
「まあ、それだけきみが大きくなった、大人になったってことだよ」
「大人……ねえ」
大人になんてなりたくない。ましてや、父上の駒になど。
草壁だってわかっているはずだ。自分がこうして“始聴朝政”を許された意味を。許されたことを、彼の母、皇后がどのように思っているのかも。
「ぼくとしては、きみが政に参与してくれるのはうれしいよ。なにより心強い仲間だ。一緒に父帝の御世をお支えしていこう」
「支えなら高市異母兄上と草壁がいれば充分だよ。川島もいるし」
「支える手は多いほどいいよ。六本より八本。それに、川島の手はフニャフニャで少し頼りない」
「そうだなあ。あれはフニャフニャだし、よく逃げ出して遊び呆ける。支えには不向きだな」
再び笑いの種に川島を使う。本人が聞いたら「ひどすぎる」と憤慨するだろう。想像するだけで、また口元が緩む。
「まあ、始めたばかりは本当に周囲の意見、やり方を“聴く”だけだから。そう気負わずに話だけでも聞きに来るといい。大津は漢の史書、とりわけ『尚書』を読むのが好きだっただろう? あれの生の雰囲気を味わうことができるよ」
『尚書』は、古えの漢国の天子、諸侯の訓戒、戦の檄文が書かれている。幼い頃、祖父が自分に与えた書物の一つだ。愛読とまでは言わないが、それでもよく手にしていた。
「いや、あれは退屈だったし、面白いから読んでいただけで。実際には味わいたくないな。面倒くさい」
そこから訓戒を学び、仁政を学ぶために読んでいたわけではない。単純に、知らないことを知るのが楽しかったのだ。
読み物としては優秀だが、それが現実になって政争に巻き込まれていくのを楽しく思うはずがない。どちらかというと逃げ出したい。
「そう言わずに。きみが参与してくれると、ぼくの仕事が減って助かる」
「仕事、減らしたいのか?」
「うん。まだ赤子が生まれたばかりだからね。氷高が寂しがるんだよ。弟に母親を取られた気分なんだろう。ぼくに甘えて仕方ないんだ」
「それは大変だ。早く帰ってやらなきゃだね」
「うん、だからきみに仕事を任せたいんだよ」
「うーん、氷高のため……かあ」
困った、困った。悩ましげに顎に手を当て、思案するふりをしてみる。
「頼むよ、大津」
「仕方ないなあ。かわいい姪っ子のためだ。任されてやるかあ」
大仰に納得してみせ、二人で笑い合う。
草壁。
子煩悩な父親だな、と思う。
その柔らかな眼差しは、今ここにいない愛娘にむけられ慈しんでいる。
優しい父親。優しい異母兄。
政敵となる自分の参与に対して、ここまで喜ぶとは。
他の誰かならそういう演技に思えるかもしれないが、草壁は違う。彼は、異母兄はどこまでも優しい。
だからこそ心を痛めている。憂いている。
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