WEAK SELF.

若松だんご

文字の大きさ
上 下
1 / 49
第一章 いさよふ波の ゆくへ

一、いさよふ波の ゆくへ

しおりを挟む
 「――行くのか」

 その声に、背中が粟立つ。
 踏み出そうとした足は地面を捉えそこね、空に浮いたままになった。気色ばんだのは自分だけではない。周囲にいた大人――自分を迎えに来た者たち――にも戦慄が走る。

 「叔父上」

 ゆっくりと首を回し、後ろをふり返る。
 背後にいたのは、年若い自分の叔父。数人の舎人を引き連れ立っていた。
 夜気に冷たい緊張が走る。チャキッと固い鉄に触れる音が自分の踏みしめた砂の音に混じった。
 
 「出ていくんだな」

 「――はい」

 その返答で、自分は、周りの者たちはどうなるのか。
 慎重に覚悟を決めて短く答える。
 心臓が胸に詰まったよう。息が呑み込めない。
 目の端で捉えたのは、腰を低く落とし、いつでも抜剣できるように構えた自分の周りの者たち。それは、相手の背後にいた者たちも同じで、双方瞬きも忘れ睨み合う。
 緊迫した空気が流れる。
 次の一言はなにか。次の瞬間、どうなっているのか。
 ここを出て行くというのはそういうこと。ここで見つかってしまったというのはそういうこと。
 血が、足元で滞ってしまったような感覚。一瞬が永遠に引き伸ばされる。
 次の叔父の言葉で、自分の未来が決まる。

 「――やめよ」

 叔父が、周囲を固める太刀柄に手をかけた姿勢の舎人とねりたちを制した。

 「このまま行かせる」

 その言葉に体から力が抜ける。代わりに戸惑いが生じる。

 「いいの……ですか?」

 「行きたいのであろう。父の、叔父上のところに」

 「はい」

 「ならば行くがよい。止めはしない」

 主である叔父の判断に納得がいかないのだろう。叔父の背後、舎人の一人が異議を唱えるように「皇子!!」と声を上げた。しかし、叔父はその動きを制した手を下げない。

 「構わぬ。長く離れていた親子だからな。最期ぐらいともにありたいのであろうよ」

 自分がこの場から逃げ出し、父と合流したとしても、父子ともども倒してしまえば同じこと。ようはこの先、起きるであろう戦で勝てばよいのだ。何も問題はない。
 諦めるように主に従うように、納得いかない顔のまま舎人たちが警戒を解く。合わせて、こちらも柄から手を離す。
 
 「ただし。一つだけ覚えておけ、大津」

 叔父が真っ直ぐこちらを見る。

 「父についていく、父とともにあるということは、どういうことなのかということを」

 「叔父上――?」

 昏い、融けるように墨を流した闇夜。そこに雲の隙間から顔を覗かせた青月が、自分と叔父の姿を浮かび上がらせる。
 青白く、深い陰影をたたえた叔父の顔。引き結ばれた口元は真摯で、どこか哀しく写った。
 自分の亡き母の異母弟。亡き祖父の第一皇子で、今は父の敵。
 十五歳年上の叔父は、これから帝位をかけて父と戦うことになる。
 ここで特別良くしてもらったことはないが、それでも折りに触れ、言葉を交わすことはあった。共に過ごすこともあった。
 だけど。
 この先、父についていく自分は、この叔父と未来を共にすることはないだろう。その別離への覚悟を持てと言われているのだろうか。

 「俺を、忘れるな」

 それだけ言うと叔父は出立を促すように背を向けた。その背を見て、周りの大人達が自分を急かす。叔父が見逃してくれたとしても、他の者も同じとは限らない。逃げ出すことが露見したら、きっとタダでは済まない。
 急げ。急いで父の元へ。
 叔父の背中に軽く一礼して進むべき道へと踵を返す。

 「――お前は、……生きよ」

 風に紛れるようにして聞こえた叔父の声。
 どういう顔でこぼされた言葉なのかは知らない。聞こえたと思ったけれど、空耳だったのかもしれない。それほど小さく、細く、弱い声だった。

 叔父との思い出はそれで終わる。
 先に父の元へと都を抜け、馳せ参じた異母兄、高市皇子たけちのみこ。そして、父、大海人皇子おおあまのみこ
 彼らは、美濃、尾張、伊勢を味方につけ、淡海おうみの叔父、大友皇子を倒す。

 世に言う「壬申の乱」。

 叔父は、自分が逃げ出した翌月、瀬田橋の戦いで大敗を喫すると、物言わぬむくろと成り果てた。
 祖父淡海帝が亡くなって半年後。叔父は父親の後を追うようにして亡くなった。
 二十四歳だった。

*     *     *     *

 それからいろいろあった。
 父は都を飛鳥に戻し、放棄されていた岡本宮の造営を急がせた。
 母方の祖父でもあり、父の兄弟でもある淡海帝。彼が造った淡海大津宮おうみおおつのみやは打ち捨てられ、政治は刷新された。
 その年、耽羅たんらから訪れた使者に対して、即位祝賀の言葉は受け入れたが、弔喪使は受け入れなかった。父がどんな思いだったのか。幼かった自分は知らない。
 ただ、新しい政を取り仕切る。その気概は感じていた。
 戦でも功績のあった高市皇子を頼みに、次々と改革を打ち出していった。
 その上で、父は姉を遠く伊勢の地へと斎宮いつきのみやとして送り出した。
 わずか十二歳の姉、大来皇女おおくのひめみこ。以来、姉には会ってない。今、どう過ごしているのか。かろうじて伊勢を参拝してきた十市皇女とおちのひめみこ阿閉皇女あへのひめみこから、断片的に伝え聞いただけ。
 
 「つつがなくお過ごしよ」

 そう教えてくれた異母姉あね、十市皇女はそれから数年後に亡くなった。病死ということになっているが、実際はどうだったのか。急死であったことは間違いない。かつての叔父、大友皇子の妻であった異母姉あね。戦の後、叔父の遺児となった葛野王かどののおうを連れ、父の元に帰ってきたが、どのような心境であったのだろう。誰も知らない。ただ異母兄あに、高市皇子がその死を悼み、慟哭していたことは知っている。

 父はそれからも国を束ねることに邁進していった。そのついでに、一族の結束もまとめ上げる。己の蜂起した地、吉野で、自分を含めた皇族男子を「我が子」として、異母兄弟、従兄弟同士相争うことないように誓わせた。
 
 長兄で父の片腕となった高市皇子たけちのみこ
 次兄で皇后鸕野讚良うののさららの実子、草壁皇子くさかべのみこ
 弟で四男、忍壁皇子おさかべのみこ
 淡海帝の三男、川島皇子かわしまのみこ
 同じく淡海帝の七男、志貴皇子しきのみこ
 そして自分。帝の三男、大津。

 仲良くと言いながら、当然のように序列がつく。
 一位は皇后の子、草壁。次いで、皇后の同母姉を母に持つ自分。
 続いて、長子でありながら母の身分が低かった高市、同じく忍壁、敗れた淡海帝の子川島、志貴と続く。

 皇后の鸕野讚良皇女うののさららのひめみこは自分の亡き母の同母妹。二人して叔父に当たる父の妻になった。
 母、大田皇女おおたのひめみこは、姉の大来と自分を産んだが、やがて亡くなった。
 妹がそうであるように、生きていれば父の皇后となっていたはず。
 もしそうであれば。
 姉は伊勢に送られることもなく、自分は一つ年の差で生まれた兄の下風に立つことなく、父の子として堂々といられたのだろうか。
 もしそうであれば。
 同い年の阿閉皇女が兄、草壁と結婚したように、姉も誰かのもとへ嫁いだのだろうか。伊勢には別の誰かが下向することになって。
 もしそうであれば。
 今の自分のようなことはなく、誰か姉の夫が後ろ盾となってくれたのだろうか。
 もしそうであれば。
 もしそうであったなら。
 
 いや、それは言っても詮無きこと。
 母は亡くなり、叔母が立后して、姉は伊勢に送られ、自分はここに残された。

 それだけではない。

 父は息子に誓わせるだけでなく、その子たちを娶せることで、一族がいさかうことないようにした。
 かつて、自分の妻であった額田王とその娘、十市皇女とおちのひめみこを兄と兄の子大友に嫁がせ、代わりに自分の母と叔母を妻にもらったように。

 長子、高市皇子には、淡海帝の娘御名部皇女みなべのひめみこを。
 次子、草壁皇子には、淡海帝の娘阿閉皇女あへのひめみこを。
 幼かった四男、忍壁皇子には、将来淡海帝の娘明日香皇女あすかのひめみこを与えることにした。
 淡海帝の三男、川島皇子には、自分の娘泊瀬部皇女はつせべのひめみこを。
 幼かった淡海帝の七男、志貴皇子には、将来自分の娘託基皇女たきのひめみこを与えることにした。
 そして、三男である自分には淡海帝の娘であり、蘇我赤兄そがのあかえの娘が産んだ山辺皇女やまべのひめみこが与えられた。

 父は婚姻を結ばせることで、かつて自分が甥を殺して帝位に就いたような悲劇を避けたかったのかもしれない。ここまで結ばれていれば、諍うことはないだろうと願ったのかもしれない。

 だけど。

 苦しい。
 自分に流れる血に、妻から与えられる血に。
 父の思惑に、周囲の思惑に。
 捕らわれ、がんじがらめになって。もがいても逃げ出すことは出来なくて。
 あの時よりも上手く息ができなくなっていく。

 ――父についていく、父とともにあるということは、どういうことなのかということを。

 叔父上の最後の言葉がやけに重くのしかかる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...