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巻の二十九 皇帝寵愛唯一人。

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 小さな鳥が舞い込んだ琥珀宮こはくきゅうの庭園。その庭に面した場所に設けられた卓に、宮の主となった元公主と、皇帝の侍中が向き合って座る。

 「そっか。それで、琉花りゅうかは今、思清宮しせいきゅうに?」

 「はい。切った髪が元に戻るまではと、陛下がそのままとどめ置かれました。髪が伸び、普段の装いができるようになれば、天藍宮てんらんきゅうに居を移すそうです」

 天藍宮てんらんきゅうに居を移す。つまりは、皇后に立后するこということだ。
 
 「後宮には暇を出されたと聞いたけど、本当?」

 「はい。琉花さま以外召し上げる気はないとのことで。自薦他薦を問わず後宮に上がるような器量よしならば、この先どこに行っても困らぬだろうと、後宮から暇を出されました」

 不要だから後宮を出す……のではなく、器量のよいお前ならどこででもやっていける、引く手あまただろうと言われて、異を唱える者はいないだろう。後宮に残りたいなどと言い出せば、それは自分が不器量であることの表明となってしまう。
 
 「官女の数も減らされ、陛下の御代の間、後宮につながる門は閉ざされたままになるかと」

 「ふうん。後宮に無駄なお金が流れなくなっていいんじゃないか?」

 「はい。陛下もそう申しておられました。浮いた経費で常州をはじめとする地方に予算が回せてよかったとも」

 同じことを考えていた……か。
 似せるつもりはないのに、どうにも自分は異母兄あにに似た思考をしているらしい。
 異母弟おとうととして、一人の男として微妙なところだった。
 目の前にあった茶をすすり、笑いを濁す。

 「後宮から美女たちが大放出されたんだから、市井の男たちも大喜びだろう?」

 「そうですね。陛下は美女を独り占めしない、御心の広い、素晴らしい方だとウワサされるでしょうね」

 金は浮くし、男たちからは感謝される。いいことずくめだ。

 「それで、いつ頃琉花は天藍宮てんらんきゅうに?」

 「それは……、なにせあの琉花さまなので……」

 珍しく侍中が言葉を濁す。
 まったく。
 異母兄上あにうえと一緒に暮らしていても、まだそういうことに至ってないわけか。過去に菫青妃きんせいひとして後宮で暮らしていた頃と、あの二人の関係は変わってないとみえる。
 いい加減、そのあたりを諦めて、トットと結ばれて欲しいものなんだが。
 琉花が皇后として世継ぎを産めば、自分はこの宮から出ていくことができる。今は暫定的に皇太子とされているが、あの二人に子が出来れば、自分はお役御免になる。
 かつて、琉花と共に旅したいと願った世界。一人で巡るのは少し淋しいかもしれないが、本来の自分に戻って生きられるのなら、それもいいかと近頃思う。
  
 「琉花に伝えて。いい加減、腹をくくれって」

 淡い、〈恋心〉と言っていいのかわからない感情ではあったけれど、心惹かれたのは事実。
 割り切れないせつなさはあるけれど、幸せになって欲しいと思える相手。

 「異母兄上あにうえにも、四の五の言わせずに、ヤることヤれって伝えて。でないと、僕が攫って行くよってね」

 「お伝えしましょう」

 「あと、琉花を泣かせたら許さないって、つけ加えておいて」

 大切な異母兄。そしてその想い人。
 
 「大丈夫ですよ。琉花さまを泣かせたら、まず、わたくしが黙っておりませんので」

 なるほど。
 そういえば、この男は、琉花の異母兄だと言っていたか。琉花自身は知らないようだけど。彼女の幸せと、己の主の幸せを願って二人を娶せたと。
 そんな男が後ろについているんだ。彼女が幸せになるのは必定だろうし、もし異母兄のせいで不幸な目に遭うとしたら……、皇帝であってもタダではすまなさそうだ。
 賢帝と名高い自分の兄と、異母妹いもうと思いの実の兄。
 この二人がいれば、琉花の未来は安泰だろう。
 
 ――幸せに、琉花。

 言葉にできない思いを込めて、飛び立った小鳥を見上げる。
 小鳥は、琥珀宮こはくきゅうの空をしばし舞い、思清宮しせいきゅうへと飛んでいった。

*     *     *     *

 「ですからお嬢さま、そういう場合は、すべて陛下にお任せしたらよろしいんでございますよ!!」

 「そ、そうなの?」

 「そうなんでございますっ!! 陛下にお任せしたら、アレをナニして、コレにソレして、ややを授けてくださいます!! お嬢さまは、嫌がらずに陛下をお迎えなされたらよろしいんでございます!!」

 いや、そんな力説されなくても。
 用意された湯殿。その湯船に浸かりながら、のぼせたわけでもないのに、顔を真っ赤にする。

 「嫌がらずに……って、なんか怖いことでもあるの?」

 「え? え~っと。それはですねえ……」

 あ、香鈴こうりんが視線をそらした。

 「大丈夫ですよ。陛下なら、きっと痛みも少なく、ことを成してくださいます!!」

 い、痛いの?
 ややを成すってことは、痛いってことと同義なの?
 月のものの時の痛みを思い出す。あれと同じぐらい痛いんだろうか。産むのが痛いことは知ってるけど、まさか子を成す時も同じように痛いとは。
 それはさすがに。ちょっとイヤだな~。
 母さまや香鈴が読んでた本では得られなかった情報に驚き戸惑う。

 「本とは、かなり違うみたいね」

 「ああ、奥さまが持っていた本でございますね。乙女向けの恋愛小説」

 ああいう本では、口づけして裸になって一緒に寝たらその……、朝になってて、小鳥がチュンチュン鳴いてたから。あいだの夜の時間に、どうなってたかは、具体的にはわからなかったのよね。
 
 「あれは、乙女が読むため用のものですから、そういう部分はやんわりと隠してるだけでございます」

 「乙女が読むため用って……。そうじゃないのもあるの?」

 「ありますよ。もっと具体的なものも。男女の交わりを物語にしてあるんです」

 おおお。
 そんな本の存在にも驚いたけど、なにより香鈴がケロリとした表情のまま言いのけたことにもっと驚いた。交わりってアンタ……。

 「女性用もそれなりに具体的ですが、男性用はもっと具体的ですわよ。絵つきのものもございますし」

 おおう。
 男性用もあるのか。

 「ねえ、そういうのって、陛下も読んでらしたりするのかしら?」

 「おそらくは。男性はみな、そういうものを好むと聞いたことがあります。本で夫婦の交わりを学び、恥じらう妻をやさしく導く……らしいですわよ」

 そ、そうなんだ。
 わたしの知らない世界の扉がドンドン勝手に開かれてくような感覚。

 「ですから、お嬢さまはなにも心配なさらずに、陛下の手で導かれればよろしいのですわ。この国のためにも、陛下のためにも、一日も早くややを授かるようになさるべきですわ」

 「う、うん……」

 わかりたくないけど、わかった。
 思わず反抗的に、湯船にブクブク沈みたくなったけど、アッサリと香鈴に引っ張り上げられてしまった。
 
 ――帝国のためにも世継ぎは必要。

 わかってる。わかってるのよ、頭では。
 陛下、後宮を閉めちゃったし、妃って呼べる立場にいるのは、わたしだけなんだし。
 わたしが子を産まなきゃ、誰も産めないんだし。
 濡れた髪から雫が滴り落ちる。

 (この髪が元通りになるころには。その時は、ちゃんと覚悟するから――)

 妃になる覚悟はある程度できたけど、その先に進むことはまだ無理っ!!
 だってあの時、狩り場に行ったのは、あくまで借りを返したかったからで。陛下をステキな方だとは思ってるけど、それが「好き」ってことなのかどうかは、まだよくわかってないわけで。妃になることを了承したのは、気心知れた相手だし、嫌いな相手と添い遂げるよりはマシかなって思っただけであって。それ以上のことを考えて決めたわけじゃないし。
 
 (それに、まあ、まあ、ね……)

 陛下が他の後宮の女性をお召しになるの、ちょっと嫌だったっていうか。
 陛下が後宮を閉めるって言い出した時、ちょっとだけうれしかったのは事実。
 絶対、誰にも言わないけど。
 そんなことうっかり知られたら、香鈴には「それが恋ってものですわ」って言われるだろうし、陛下には「そんなに嫉妬するぐらい私のことを」って変に喜ばれるだろうし。
 喜ばれて次の段階へと、香鈴の言うような、めくるめく愛の世界になんか連れてかれたら、本当に困るし。怖いし。
 せめて、この髪が伸びるまで。
 ちょっとずつ心を決めていくから、それまでは待っていて欲しい。

*      *     *      *

 (またか……)

 思清宮しせいきゅうの寝室。夜遅くに訪れると、いつものように先に寝台にもぐりこんだ寵妃が、いつものように眠りこけていた。
 しかたなく軽くため息を漏らしてから、いつものように、その隣に添うように並んで寝台に入る。

 (コイツ、「寝る」というのを本当に「寝るだけ」と勘違いしてないか?)

 寵妃が皇帝と「寝る」という意味、わかってないだろ。
 少し憎たらしく思えて、その鼻を軽くつまんでやる。
 プヒッと軽く鼻音がしたが、そのまま眠りこける寵妃。いや、空寝か。そのまま少し頬に指をやりくすぐると、今度は何かをガマンするように眉が寄った。
 どこまで空寝を続けられるか、くすぐり倒してやろうかとも思ったが止めておいた。
 見せかけとは違う、本物の寵妃になる覚悟はできた。しかし、その先をどうしたらいいのか、戸惑っているのだろう。
 
 (仕方がない。今日はこのまま寝るとするか)

 寝るふりをされるのなら、こちらも寝るだけだ。
 一緒に寝るのが精一杯なのだとしたら、こちらもそれに従うだけ。
 横向きになったまま空寝を続ける彼女を抱きしめる。
 これぐらいはやっても許されるだろう。ビクンと抱きしめた身体が震えたけど、気づかないふりをした。
 こうやって少しずつ出来ることを増やしていく。
 そうだな。この髪が元の長さに戻るころまで。ゆっくりと時間をかけて進んでいく。
 なに。
 時間ならタップリある。
 邪魔な後宮もなくしたし、政治も安定した。
 彼女が怯えず近づいてこれるまで、ゆっくり待てばいい。

 (その時が来たら容赦しないけど、な)

 腕のなかの温もりに誘われるように、眠りの世界に入っていく。
 その時は、遠くない未来にあることを夢見ながら。

*     *     *     *

 後宮佳麗三千人 三千寵愛在一身。
 ――後宮には、三千人もの美女がいるが、三千人分の寵愛を一身に受けている。

 奏帝国第十二代皇帝、こう 栄順えいじゅん。諡号、景帝けいてい
 彼は、その統治の素晴らしさもさることながら、ただ一人の妃のみを愛した皇帝として、後の世に特筆されることとなる。寵愛を受けた妃がいた皇帝は数知れないが、その一人のために後宮を閉めた皇帝はこの景帝以外、歴史上存在しない。
 その寵愛を一身に受けた李皇后こと、 琉花りゅうか
 商家生まれの彼女がそれほどの美女だったのかどうか。後の史家は、微妙な沈黙を続ける。

 ――皇帝のゆるぎない愛情を得たのだから、絶世の美女だったに違いない。
 ――いや、当時の皇后をまねたという装いは、到底美女と呼べる類のものではなかった。

 いまだに結論のでない問題となり、史家だけでなく市井の人々も論議を交わす。
 ただ彼女は「無欲の皇后」とも呼ばれており、たった一人の「ご寵妃」となっても、贅を尽くすことなく暮らしたことだけは、みな意見を一致させ、素晴らしい女性であったと称賛する。

 無欲?

 治天の君である皇帝の寵愛を一人占めしたのだから、最高に欲深い女ではないか。
 
 英明な皇帝と、その純愛を一人占めした無欲の皇后。
 彼らの出会いのキッカケは、誰も知らないヒミツの物語。
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