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巻の十四 「ごきげんよう」の世界。

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 「どうした? 食べぬのか? それとも菫青妃きんせいひは嫌いであったか?」

 「え、いえ、そういうことはないのですが……」

 いつものように訪れた黒曜宮こくようきゅうの四阿。
 卓の上の皿には、公主さまが用意してくださった果物がふんだんに盛られている。
 葡萄、桃、そして……。

 (荔枝ライチ……)

 ヒンヤリした暗い井戸の底。水面に広がる黒髪。カプリと浮かんだ恨めしそうな女の青白い顔。大きく開かれたままの目は血走り、壁を必死に引っ掻いたであろう指先は爪がはがれて――。
 イヤイヤイヤ、なにを想像してるのよ、わたし。
 あの事件以来、どうにもこの果物が食べられない。食べようとすると、あの井戸と想像しちゃった恐ろしすぎる劉貴妃りゅうきひ(怨念タップリ)が頭に浮かんでしまって……。

 「大丈夫じゃ。この荔枝ライチ黒曜宮こくようきゅうの井戸で冷やしたものじゃ。気にすることはない」

 「え?」

 驚くわたしの前で、皮をむいた荔枝ライチをヒョイッと公主さまが口に入れた。

 「あの……。井戸の話、ご存知なんですか?」

 あのことは、わたしと陛下、それと香鈴こうりんしか知らないと思ってた。

 「後宮中のウワサじゃ。お主がなにも知らずに、あの井戸で荔枝ライチを冷やしておったとな」

 う、ウワサに……。

 「後宮は嫌いじゃ。人を妬み嫉み、貶め、あざ笑う。知らぬ者がいれば、困っている者がいれば、助けてやればよかろうに。笑うてウワサにするのは、下衆のやること。あそこはきらびやかかもしれぬが、心根は真っ黒くろじゃ」

 プンプンと怒りながら荔枝ライチを召し上がる公主さま。
 怒ってるお顔は、どこかおかわいらしい。

 「この果実はの、お主の養父となった侍中から届けられたものじゃ。安心して口にするがよいぞ」

 「あ、はい。ではいただきます」

 啓騎けいきさん、いろんなところに贈物をしてるんだな。
 軽く覚悟を決めて、荔枝ライチを口に放りこむ。
 荔枝ライチはあの時よりも、甘く感じられた。

 「フフッ、よい食べっぷりじゃの」

 あ、しまった。もっと上品に食べたほうがよかったかな。
 でも、笑っていただけたのなら、まあいいか。

 「あの、公主さま。この荔枝ライチ、少し分けていただいてもよろしいでしょうか?」

 「なんじゃ? 異母兄上あにうえと一緒に食べたいのかの?」

 「ええ、まあ……」

 陛下には、あんな荔枝ライチを食べさせてしまったから、その、申し訳ないと言うのか。
 この荔枝ライチで、記憶を上書きしてほしい。大好物みたいだし。

 「構わぬぞ。フフッ……、本当にお主は異母兄上あにうえと愛し合っておるのじゃな」

 えーっと。その、あの……。
 次の言葉が出てこない。
 
 「そう照れずともよい。皇帝と妃が仲睦まじく愛し合っておるのは、国にとっても良いことじゃ。政をおろそかにするほど愛し合われたら困るがの」

 それは、絶対ないと思います。

 「ところで、菫青妃きんせいひ。そなたから見て、異母兄上あにうえはどのような方なのじゃ?」

 「どのような、とは?」

 「わたくしは、母も違えば、歳も離れておる。異母兄上あにうえとはあまり親しく会うたことがないのじゃ」

 後宮で生まれた皇子は、七つになれば世継ぎと認められ、〈紫宸殿ししんでん〉と同じ内廷にある〈琥珀宮こはくきゅう〉で暮らす。同時にその生母は皇后として認められ、〈天藍宮てんらんきゅう〉の主となり、同じく内廷で暮らすことになる。
 一方、公主さまは、母親が皇后とならないかぎり、一生後宮で暮らすことになる。玉蓉ぎょくよう公主さまの場合、父である先帝が崩御され、後宮が異母兄である陛下のものとなったので、別の宮で暮らすことになった。仮に陛下が夜毎女性のもとを訪れる生活をおくったとしても、後宮の外に出られた公主さまと会う機会はない。
 八つ違いで母も違えば、そう気軽に会える兄妹ではなかったんだろう。

 「とてもお優しい方だと思います。お優しくて、真面目で。政務に対してものすごく熱心でいらっしゃいます」

 いつ寝てるんだろうと、身体が心配になるぐらいに熱心。
 わたしを妃にしたのだって、後宮がうるさくて面倒だから、政務に集中するため、わたしに盾になって欲しいという理由からだもの。
 即位して三年。
 まだ政情が安定してないから、そういうことはまだ考えられないって言ってたけど、いつになったら考えられるようになるんだろう。
 
 (早く誰かとそういうことになって、落ち着いた暮らしができるようになればいいのに)

 閨にまで書類を持ち込むような日々は、とっとと終わればいい。
 そして、誰か愛する人を見つけて、心安らぐ時間を持つことができればいい。
 
 (あれだけステキな方だもの。権力だの子種だの言わず、一人の男性として愛してくださる人が見つかるはず)

 陛下はまだ二十五歳。
 「子種~」だの「権力~」だの言われちゃうから、うっかりしちゃうけど、お顔立ちだって、玉蓉公主さまに似て、キレイに整っていらっしゃるのよね。背も高いし、凛々しくあらせられる。
 性格も決して悪くないし、浮ついたところもない。たまにわたしをからかったり、いじわるな所もあるけど。きっと、誰かを愛したら一途に愛してくれるじゃないかな。政務に熱心に打ち込むように、誰かを一途に熱く――。
 ……って!!

 (ちょっと、なに考えてるのよ、わたしっ!!)

 かりそめさん、見せかけの妃が心配することじゃないでしょっ!! なにを想像してるのよ、わたしっ!!

 「菫青妃きんせいひ?」

 「あ、いえ、なんでもありません。アハハハ……」

 いけない、いけない。
 今は、公主さまの前で、〈愛され妃〉の実演中だったわ。

 「とにかく、陛下はとてもお優しい兄君ですよ。公主さまがお淋しくないよう、こうしてわたしを遣わすぐらい、公主さまのことを思っていらっしゃいます」

 わたしが公主さまのことを話すと、興味深く聞いていらっしゃるし。
 おそらくだけどさ、陛下は年の離れた異母妹とどう接したらいいのか、わかんないんじゃないかな。ほら、女性には(いろんな意味で)オモテになるけど、女性と親しくしたことなさそうだし。異母妹を大切に思ってても、それをどう表現したらいいのかわからない。だから、わたしを間に挟むことで、少しでも仲良く、お近づきになりたいとか思ってるんじゃないのかな。

 「そう。異母兄上あにうえが」

 「はい」

 わたしの言ったことを噛みしめていらっしゃるのだろうか。公主さまが軽く目を閉じた。
 お忙しくて滅多に会えないご兄妹。せめて間に挟まれたわたしが、陛下のお気持ちをお伝えせねば。いつかは、誰かを愛する時間がとれるように、ご兄妹で歓談の時間もできるかもしれないから。
 
 「菫青妃きんせいひは優しいの。そういうところを異母兄上あにうえは気に入ったのじゃな」

 ニッコリ笑う公主さま。
 なんだろう。同性のはずなのに、妙にトキメク不思議な魅力。
 あけすけなもの言いで人をふり回すけど、決して悪い人じゃない。わたしのために怒ってくれたり、こうして果物を用意してくれたり。陛下と同じでお優しい方だと思う。

 「のう、菫青妃きんせいひ。次はお主のことを教えてくれぬか?」

 「え? わたしのこと……ですか?」

 「異母兄上あにうえのことだけじゃなく、義姉上あねうえのことも知りたいぞ。お主は普段、どんなことをして過ごしておるのじゃ? 好きなことはなんじゃ?」

 義姉上あねうえって。
 異母兄あにの妻なら、義姉あねだけど。
 目をキラキラさせて訊いてくる公主さま。
 う。心が、良心が痛む。

 「そうじゃ、菫青妃きんせいひなどと他人行儀に呼ぶのも煩わしいの。これからはお主のことを、『琉花りゅうかちゃん』と呼んでもよいかの?」

 「琉花ちゃん……ですか」

 「ダメかの?」

 「いえ。ダメではないです。ただ、陛下と同じ呼び方だなって思って」

 まさか、ご兄妹で同じ呼び方をしてくるとは思わなかった。

 「フフッ。異母兄上あにうえと同じ呼び方か。悪くはないが、それならばこちらは『琉花りゅうか』と呼ばせてもらおう」

 「ちゃん」抜き……?

 「そのほうがより親密に感じられるじゃろ?」

 異母兄上あにうえよりもな。
 軽く片目をつぶってみせる公主さま。
 ……まずい。
 同性なのに、なぜかトキメクッ!! 妙に胸がドキドキします。
 
 (陛下によく似た面差しをされてるからかしら)

 でなければ、女同士でトキメクなんてありえないじゃない。
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