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第30話 空色エンゲージ。

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 家具のない部屋は、思いのほか広く感じられる。
 家具だけじゃない、カーテンも何もかも撤去したせいだろう。
 何もないマンション。差し込む日ざしを白く映した床は、いつもの何倍も明るく見える。

 (ここから始まったんだ――)

 そのガランとしたリビングの真ん中に立つ。「感慨」というのだろうか。いろんな思いが胸に去来する。
 律と再会して、エイヤッと飛び込んだ東京での子育て生活。
 初対面で懐いてくれた世那の世話。ベビーシッターなんて楽勝っしょなんて考えは、すぐに大泣きで打ち砕かれた。

 (あ、シミ)

 白い壁にボンヤリ浮かぶ、淡い卵色のシミ。世那が握りつぶし投げつけたブロッコリーの痕。拭いてキレイにしたけど、こうして家具のない部屋で見ると、かすかに色づいてるような気がする。
 お昼寝後、泣きぐずる世那を抱いて見た窓の景色。一緒にゴハンを食べたダイニング。
 すべてが懐かしく、愛おしい。

 「明里? そろそろ行こうか」

 玄関に続く廊下から声がした。
 同時に「アァイ~」と呼びかけながら、ドタドタ廊下を走る足音。世那だ。
 引っ越しの荷物を運ぶトラック。それを見送りに行ってた律と世那が戻ってきたのだ。

 「さあ、世那。電車に乗ろっか」

 「デッチャ?」

 「そうだよ。電車。新幹線に乗るよ~」

 ヨイショッと抱き上げる我が子の体。一歳十ヶ月となった世那は、初めて抱いた時よりずっしり重い。

 「デッチャ!! カヤンカヤンカヤン!!」

 あれだけ心配していた言葉も、今ではかなり増えた。けど、カヤンカヤンカヤン?

 「踏切のことだよ」

 首を傾げた私に、少し遅れてリビングに戻ってきた律が笑う。

 「うーん。新幹線に踏切はないと思うな」

 踏切つきの新幹線も地方によってはあるのかもしれないけど、少なくとも、今から乗る東海道新幹線には存在しない。

 「忘れ物ない?」

 「うん、後はそのカバンだけ」

 世那の着替えとオムツ、それといくつかのお気に入りオモチャ。ここに来る時は、黄色い新幹線のオモチャ一つだったのに、今ではそこにイルカのぬいぐるみが仲間入りしている。ここで増えた世那の宝物。

 地元に帰る。

 それは一時の帰省ではなく、引っ越し。
 律は、あっちに新設された営業所の所長として赴任することが決まった。大学の先輩である社長が彼を雇用したのは、こうして全国に事業を展開するさい、派遣するコマを増やすためだったと教えてくれた。地元の人間をそこに派遣すれば、土地に馴染みやすく離職率も減る。残業が多かったのも、深夜遅くまで仕事をこなしてたのも、赴任の準備に追われてたから。
 「ウチの社長はかなりのやり手だよ」
 先輩後輩の情だけでの雇用じゃない。社員をどう使って事業展開を進めるか。将来を見据えての雇用だと律は笑ったけど、社長は彼の有能さも買って雇ったんだと思ってる。

 「明里、行こうか」

 カバンを肩にかけた律が言った。ついでにさり気なく手を伸ばし、世那を抱き取る。
 なんかなあ。すごいスマートな行動。
 
 「アァイ、コッカ」

 世那が真似をする。

 「こぉら、世那。“明里”じゃなくて“ママ”だろうが。彼女はお前の“ママ”になるんだからな」

 今はまだ「高階 明里」だけど、あっちに帰ったら私は「一条 明里」になる。律と世那と家族になるため、到着次第、三人で婚姻届を役所に提出する予定。

 「“明里”って呼んでいいのはパパだけだ。世那は“ママ”って呼ぶんだぞ」

 至極真面目な顔で諭す律。もう。せっかくこっちがデキるイクメンパパだって見直してたのに。そんな狭量な人だったとは思わなかった。 

 「マンマ……?」

 世那が言われるままに呼び方を変更する……けど。

 「ねえ、それって私なの? それともゴハンなの?」

 「カヤンカヤンカヤン」が「カンカンカン」の踏切なのは百歩譲っていいとして、ゴハンが私か微妙な「マンマ」は納得できない。

 「どっちでもいいよ。“アァイ”じゃなければ」

 「よくないよ!!」

 笑う律に抗議する。

 「それより、早く行かないと電車に乗り遅れるよ」

 「あ、待っ……ウッ」

 息を吸い込んだ拍子に襲った吐き気。口を押さえ、バタバタとトイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出す。と言っても、朝から食欲なかったから、たいして吐くことはできなかったけど。

 「……ハァッ、ハァッ」

 口をゆすぎ、息を整え直してから、二人のもとに戻る。

 「大丈夫? 少し休む? 気分悪いようなら電車の時間遅らせようか?」
 「マンマ?」

 「あー、うん。大丈夫。ちょっと気持ち悪かっただけだから」

 まだ胃は落ち着かない気がしたけど、だからって出発を遅らせるほどじゃない。

 「引っ越しとかなんだかんだで疲れたのかな。最近、匂いとかそういうのに敏感になっちゃってるんだよね」

 食欲もわかないし。体もだるいし。夏バテかな。まだ初夏だけど。
 気候の変化に体がついていってないのかもしれない。あっちに帰ったら栄養剤と胃薬を買っておこう。
 お腹のあたりを少しさする。

 「明里、……それって、もしかして」

 え?
 律の視線が手をあてたお腹に注がれる。意味ある視線。
 あれから、律とはいっぱい愛し合ったし。そういえば、生理が遅れてるような……気が……する。
 って、まさか?

 「赤ちゃん……来たの?」

 今度こそ間違えずに、コウノトリが来てくれたの? 私と律の子を運んできてくれたの?
 目を真ん丸にして、信じられない思いで彼を見る。
 ポカンとした彼の顔が、みるみる間に崩れ破顔した。

 「明里っ!!」

 「うわっ、律!!」

 世那と一緒に私を抱き上げた律。重くないの?って思ったけど、彼はお構いなしだった。そのままグルグルと回り、世那が「キャーッ」と奇声を上げた。

 「っと。妊婦を振り回しちゃダメだよね」

 そっと下ろしてくれた律。でも、またギュッと抱きしめ直された。

 「――ありがとう、明里」

 私の肩に顔を載せて囁く律。

 「まだ気が早いよ」

 本当に妊娠したのかなんて、調べてみないとわかんないし。
 でも、そうだったらいい。二人目の赤ちゃん。今度は間違えずに私のお腹に来てくれたのだとしたら。

 「マンマ?」

 「世那。世那は、お兄ちゃんになるんだよ。お兄ちゃん」

 律に抱かれたままの世那。その柔らかい髪を撫でてあげる。
 この子はきっと優しい兄になるだろう。私達が愛した分だけ、お腹の子も愛してくれる優しいお兄ちゃん。
 弟妹が生まれたら、きっといっぱい電車のお話しをしてくれるんだろうな。眠る赤子に、「これはラピート、これはゆふいん」とうれしそうにオモチャを見せてくれる。時にはケンカもするかもしれないけど、それでも一緒に仲良く遊ぶんだろう。
 
 「早く行こう、律、世那」

 二人を急かし、玄関に向かう。
 この扉の先、乗り込んだ電車が向かうは、家族で暮らす幸せな未来。

 ドアの外に広がる、天色あまいろに染まった初夏の空に目をすがめた。
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