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2.恋とはどういうものかしら
(五)
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「そういや、陽。お前ら、なんや学校でおもろいこと始めたんやって?」
夜。
二人だけで囲む夕食の時に、突然じいちゃんが尋ねてきた。
「な、なんでそれを」
まるで、「学校はどうや」とか、「今日はどんなことした」みたいな気さくさで訊いてくるから。驚き、呑み込みかけたジャガイモが喉につかえかけた。よく煮てあったから、なんとか飲み込めたけど。
「川嶋の爺さんが言っとった。なんでも、玄孫が見れそうだ。航太だけやのうて、健太にも子が生まれるって」
「玄孫って。気が早すぎ」
じいちゃんの言う、「川嶋の爺さん」ってのは、今年確か百歳を迎えるとかなんとかの、健太のひいじいちゃん。血圧が高くて、薬をもらいにウチの診療所に通ってるけど、その通院も、杖を使わず自分で歩いてくるっていう猛者。
「航太が、山野さんちの寧音ちゃんとつき合い始めたのは知っとったが。健太も、誰かつき合い始めたんやて? 暗くてよう見えへんかったけど、健太が誰かと、うれしそうに帰ってくのを見たって、美浜屋の大将も言っとったしな」
うわ。プライバシー筒抜けかよ。
美浜屋の大将が見たって言うのは、おそらく、あの「パキコ事件」の帰りのことなんだろうけど。
最終的に、ギャアギャアと明音ちゃんと言い合いながら歩いてった。あれ、傍目から見たら、「うれしそうに」って思われるんだ。
「陽は、そういうこと、ないんか?」
ゴホッ。
「な、なな、ないよ。僕は」
ご飯に載せたこんもりしらす干し。細かいことが仇になって喉でむせる。
「そうか、ないんか」
テーブルの真んなか。ビニール袋に無造作に入れられたしらす干しをご飯にかけながら、じいちゃんが残念そうに言う。
「今日かて、なんやかわいい弁当作っとったから、誰かにあげるんか~、最近は男子も弁当をあげたりするんか~、健気やな~って、思とったんやがな~」
「ちゃうよ。あれは、ネット観てて『こんなん作れんのやな~、やってみよ~』って思ってやっただけ。誰かにあげるものやあらへん」
じいちゃんにつられて、この地方の言葉で返す。
イントネーションはおかしいけど、方言を使える程度にはここに馴染んだ。
「そっか」
「せやよ」
山野から空の弁当箱、取り戻しておいてよかった。彼女は洗って返すって律儀に申し出てくれたけど、そんなことしたら、一発じいちゃんにバレちゃうもんな。
立ち上がり、二杯目のご飯をよそう。二杯目は味変したくて、冷蔵庫からこれまた無造作にビニール袋に入れられたちりめんじゃこを取り出す。
ちりめんじゃこは、しらす干しと違って、そのままご飯に載っけたりしない。醤油とお酢、それを小皿の上で適当に配合して、そこにちりめんじゃこを浸す。この食べ方の名前は知らない。でも旨いことは知ってる。
今日の夕飯。
アサリの味噌汁。赤だし味噌汁なのは、じいちゃんのこだわり。
肉じゃが、やや肉少なめ。
胡瓜とわかめの和え物。
カレイの煮つけ。
それと、しらす干しにちりめんじゃこ。
ちょっと海のものが被りまくってるけど、それはいつものこと。隣町のスーパーなんかで「魚、食べよう~♪」なんて曲がかかってるけど、「そんなもん、言われんでも食っとるわい」ってのが、この町の日常。一週間、7日間。バッチリ海産物を、これでもかと摂取する。
「陽。このあと、ちょっと往診に行ってくるけど。留守番できるか?」
「できるよ、それぐらい」
「そっか」
先に食べ終え、立ち上がったじいちゃん。自分の食器だけでも洗おうとするけど。
「いいよ、洗い物、僕がやっておく」
「すまんの」
流しに食器だけ置いたじいちゃん。シンクの中には柔らかい水色のマットが敷いてあるのに。気が逸ってるのか、ガチャンと置いた食器が音を立てた。
「ねえ、今日はどこの往診?」
診療が終わってから、じいちゃんが往診に向かうことは珍しくない。昼間の休み時間ってこともあれば、こうして夜にってこともある。
「美浜屋の婆さん。飯を買いに行ったら、大将から往診を頼まれた」
「へえ……」
美浜屋の大将は、じいちゃんとさほど歳が変わらないおっちゃん。婆さんってのは、大将のお母さんだから、多分、川嶋のひいじいちゃんとどっこいどっこい。よく似た年齢だと思う。こっちも九十すぎ。
昔は店に立って、僕たちともいろいろとお喋りしたけど、去年、足を骨折してからずっと寝たきりになって、家で介護されてる。
「陽、ちゃんと戸締まりして用心するんやで?」
「大丈夫だって。僕をいくつやって思とるの」
十六にもなって、用心せいと言われても。
それに、こんな田舎で泥棒とかありえないし。
「それでも用心するに越したことないわ。あと火の元もな」
「わかってるって」
台所の入口、すりガラス入りの引き戸から、なかなかじいちゃんはフェードアウトしない。
「それより、じいちゃん。じいちゃんの本、読んでてもいい?」
「ええけど。あんなん読んでわかるんか?」
「わからんけど、読みたい」
「好きにせい」
ようやく会話が終わって、じいちゃんが往診に出かけていく。食器をガチャンと鳴らすあたり、急いでいるのかと思えば、ダラダラと僕と会話を続ける。
美浜屋のばあちゃんが急患でないことは確かだけど。
じいちゃんに言われたとおり、玄関に鍵をかけ、残った食器を洗って、テーブルも拭く。
一通りの家事を終え、それから二階にあるじいちゃんの書斎に向かう。
書斎と言っても、そんな立派な書棚が並んで、ビッシリ整然と本が並んでるわけじゃない。あっちにこっちに、無造作に本が積まれ、雪崩れ、紙とインクと、少しカビの匂いのする和室。本棚はあるけど、その前にも本が積まれてるから、奥のものを取り出すことはほぼ不可能。
そんなじいちゃんの書斎で、探す指が引っかかった本を取り出す。読む場所は、少しでもカビ臭さを取ろうと開けた腰高の窓。枠にもたれるようにして腰掛ける。
――あんなん読んでわかるんか?
じいちゃんの書斎にあるのは、すべて医学書。それも昭和発行の書籍がほとんど。
じいちゃんの言う通り、手にした本の内容は、わかる時もあればわらかない時もある。というか、わざと小難しく書かれてることが多いので、わからない時のほうが多い。
これ、理解させようと書いてないだろ。
もっとわかりやすく、平易に書けばいいのに。難しいことをわざと難しく書くこと=高尚な文章って思ってる節がある。
今なら、絶対売れない本、確実。
そんな本でも、半ば意地になって、少しずつ読み続ける。わからない単語は、でてくるたびに、文明の利器、スマホで検索。
――は~る~くん。お~はぁよ!
今より少し幼い山野の声を思い出す。
背も今より低くて、姉からのお下がりだろう。きれいに洗ってあるけど、ちょっとだけくたびれた夏服を着ていた。
――は~る~くん。
鼻にかかった呼び方。
僕がこっちに引っ越してきた中学二年の二学期。まだ夏の暑さが残る朝、毎日山野は僕を学校に行くため、誘いに来ていた。
学校なんて。
中学受験の失敗。公立中学への進学。
優秀な両親。デキのいい兄。
激しいイジメ。
中学二年、自分の中にあった劣等感と焦りと、イジメの辛さに、不登校になっていた僕に、仁木島行きを提案したのは父だった。
――お父さんの親戚の家で暮らすのはどうだ?
仁木島町。
外海に面したリアス式海岸の小さな湾にある町。そこで、大伯父が町唯一の診療所を経営している。
そこで、少しゆっくり受験から続く疲れを癒やしてきたら、と。
父の提案に、僕は何を思うでもなく、流されるままに乗った。
親戚のところに行ってなんになる? でも、そこに行けば、兄や両親と比較されることはない。
どうせ、仁木島に行っても、学校には通う気ないし。
もしかしたら、お父さんは、不出来な僕を追い出したいのかもしれない。それなら言われる通りに追い出されることにしよう。
そんなことを考えるぐらい、あの頃の僕はとても卑屈だった。
でも。
――は~る~くん。お~はぁよ!
9月に入るなり、毎朝うれしそうに迎えに来た山野。
どれだけ呼んでも、どれだけ待っても僕が学校に行くことはないのに。それでも根気強く登校を誘ってきた。
誘われたって行くもんか。
少し意地になってたのかもしれない。
ニコニコと誘いにくる山野にムカついて、意地でも登校しようとしなかった。じいちゃんも何も言わなかったし、僕も言われたとしても行くつもりもなかった。けど。
ある日、突然に山野が誘いに来なくなった。
いつもなら、うるさいぐらいちゃんと来てたのに。
なんだよ、諦めるのかよ。結局は、その程度の優しさだったのかよ。
誘われなくなったことに、妙な苛立ちと寂しさが残った。
ますますいじけて引きこもるようになった時、じいちゃんが言ったんだ。「山野さんちに往診に行く」って。
往診? あの子の家に誰か具合の悪い人でもいるのか? 気になってじいちゃんに尋ねると、患者は、あの山野未瑛本人だと教えてもらった。
もともと彼女は身体が弱くて、よく寝込むのだという。この数日家で休んでいるのだけど、具合が良くならないので診て欲しいとのことだった。
身体が弱いのに、あんなに毎日迎えに来てたのか? 学校とは逆方向の僕の家まで?
最近来なかったのは、来なかったんじゃなくて、来られなかったってことか?
そう思ったら、いじけてる自分がとてつもなく申し訳なく思えてきて。
彼女が次に誘いに来た時、僕は、初めてここの制服に袖を通し、彼女の前に姿を現した。
――今日からよろしくね! 陽くん!
あの時、僕を見て嫌味を言うでなく、パアッと明るくなった山野の顔。多分、一生忘れられないと思う。
――よう! お前が先生ン家のヤツか!
誘われるまま登校したものの、「東京モンが!」とかイジメられたらどうしよう。そんな不安は、健太の明るさと勢いで、アッサリ吹き飛んだ。
健太だけじゃない。逢生も夏鈴も榊さんも明音ちゃんも。誰もが山野や健太と同じように、僕を受け入れてくれた。中学には他にもクラスメイトがいたけれど、誰も僕をどうこう言ってきたりしなかった。
ここは居心地がいい。
高校に進学する際、ほとんどの同級生が本校やもっと大きな市の学校に進学したのに、東京にも戻らず、あえてここに残ったのは、そういった心地よさにもう少し浸っていたかったから。
勉強なら、ここでもできる。
家が近いからとか、友達が行くならとか、学ぶ意欲さえあれば入学できるからとか。そういった理由で選んだ健太や山野と同じように、僕も仁木島分校に進学した。
(父さんには感謝だな)
僕にここを勧めてくれたこと。
父さんだけじゃない。山野や健太にも感謝だ。
今の僕は、とても楽しい。
この先は、どうするかまだ決めてないけど、でも今ここで過ごす青春はとても楽しい。
(青春か)
そんな単語が出てきたことに、健太にかなり感化されちゃったな~と思う。普段の自分なら絶対使わない。だってクソダサいし、すっごく恥ずかしい。
まだ、ここの言葉も上手く喋れないのに。そういう部分だけ、先に感化されてしまった。
(そういや、山野って、いつから僕のことを「大里くん」呼びしてたんだっけ)
記憶を掘り起こす。
僕を迎えに来てた時は、「ハルくん」って、小学生みたいな呼び方してきてたけど。いつの間にか、夏鈴たちと同じ、「大里」呼びになっていた。今じゃ、僕のことを「陽」呼びするのは、健太だけになっている。
(高校入るときぐらいか?)
思い出したくても記憶が曖昧。
でも確か、それぐらいからいっしょに学校に行くとか、そういったこともなくなって、わずかかもしれないけど、距離ができたような気がする。
(山野、今、何してるんだろうな)
ちっとも読み進められない本を諦め、窓の外に目をやる。
海まで続く、家の灯りがポツリポツリあるだけの暗い町並み。その灯りの一つが、山野の家。
別に何をしてたっていいんだけど。
(風呂、入ろ)
じいちゃんが帰ってくる前に。
本を閉じ、窓を離れる。
窓も閉めようかと思ったけれど、心地よい風が吹いていたので、もうしばらくだけ開けておく。お風呂入ってくるまで開けっ放しでも問題ないだろう。
僕の離れた窓で。初夏の夜の爽やかな風が、色褪せたカーテンをフワリと揺らめかせた。
夜。
二人だけで囲む夕食の時に、突然じいちゃんが尋ねてきた。
「な、なんでそれを」
まるで、「学校はどうや」とか、「今日はどんなことした」みたいな気さくさで訊いてくるから。驚き、呑み込みかけたジャガイモが喉につかえかけた。よく煮てあったから、なんとか飲み込めたけど。
「川嶋の爺さんが言っとった。なんでも、玄孫が見れそうだ。航太だけやのうて、健太にも子が生まれるって」
「玄孫って。気が早すぎ」
じいちゃんの言う、「川嶋の爺さん」ってのは、今年確か百歳を迎えるとかなんとかの、健太のひいじいちゃん。血圧が高くて、薬をもらいにウチの診療所に通ってるけど、その通院も、杖を使わず自分で歩いてくるっていう猛者。
「航太が、山野さんちの寧音ちゃんとつき合い始めたのは知っとったが。健太も、誰かつき合い始めたんやて? 暗くてよう見えへんかったけど、健太が誰かと、うれしそうに帰ってくのを見たって、美浜屋の大将も言っとったしな」
うわ。プライバシー筒抜けかよ。
美浜屋の大将が見たって言うのは、おそらく、あの「パキコ事件」の帰りのことなんだろうけど。
最終的に、ギャアギャアと明音ちゃんと言い合いながら歩いてった。あれ、傍目から見たら、「うれしそうに」って思われるんだ。
「陽は、そういうこと、ないんか?」
ゴホッ。
「な、なな、ないよ。僕は」
ご飯に載せたこんもりしらす干し。細かいことが仇になって喉でむせる。
「そうか、ないんか」
テーブルの真んなか。ビニール袋に無造作に入れられたしらす干しをご飯にかけながら、じいちゃんが残念そうに言う。
「今日かて、なんやかわいい弁当作っとったから、誰かにあげるんか~、最近は男子も弁当をあげたりするんか~、健気やな~って、思とったんやがな~」
「ちゃうよ。あれは、ネット観てて『こんなん作れんのやな~、やってみよ~』って思ってやっただけ。誰かにあげるものやあらへん」
じいちゃんにつられて、この地方の言葉で返す。
イントネーションはおかしいけど、方言を使える程度にはここに馴染んだ。
「そっか」
「せやよ」
山野から空の弁当箱、取り戻しておいてよかった。彼女は洗って返すって律儀に申し出てくれたけど、そんなことしたら、一発じいちゃんにバレちゃうもんな。
立ち上がり、二杯目のご飯をよそう。二杯目は味変したくて、冷蔵庫からこれまた無造作にビニール袋に入れられたちりめんじゃこを取り出す。
ちりめんじゃこは、しらす干しと違って、そのままご飯に載っけたりしない。醤油とお酢、それを小皿の上で適当に配合して、そこにちりめんじゃこを浸す。この食べ方の名前は知らない。でも旨いことは知ってる。
今日の夕飯。
アサリの味噌汁。赤だし味噌汁なのは、じいちゃんのこだわり。
肉じゃが、やや肉少なめ。
胡瓜とわかめの和え物。
カレイの煮つけ。
それと、しらす干しにちりめんじゃこ。
ちょっと海のものが被りまくってるけど、それはいつものこと。隣町のスーパーなんかで「魚、食べよう~♪」なんて曲がかかってるけど、「そんなもん、言われんでも食っとるわい」ってのが、この町の日常。一週間、7日間。バッチリ海産物を、これでもかと摂取する。
「陽。このあと、ちょっと往診に行ってくるけど。留守番できるか?」
「できるよ、それぐらい」
「そっか」
先に食べ終え、立ち上がったじいちゃん。自分の食器だけでも洗おうとするけど。
「いいよ、洗い物、僕がやっておく」
「すまんの」
流しに食器だけ置いたじいちゃん。シンクの中には柔らかい水色のマットが敷いてあるのに。気が逸ってるのか、ガチャンと置いた食器が音を立てた。
「ねえ、今日はどこの往診?」
診療が終わってから、じいちゃんが往診に向かうことは珍しくない。昼間の休み時間ってこともあれば、こうして夜にってこともある。
「美浜屋の婆さん。飯を買いに行ったら、大将から往診を頼まれた」
「へえ……」
美浜屋の大将は、じいちゃんとさほど歳が変わらないおっちゃん。婆さんってのは、大将のお母さんだから、多分、川嶋のひいじいちゃんとどっこいどっこい。よく似た年齢だと思う。こっちも九十すぎ。
昔は店に立って、僕たちともいろいろとお喋りしたけど、去年、足を骨折してからずっと寝たきりになって、家で介護されてる。
「陽、ちゃんと戸締まりして用心するんやで?」
「大丈夫だって。僕をいくつやって思とるの」
十六にもなって、用心せいと言われても。
それに、こんな田舎で泥棒とかありえないし。
「それでも用心するに越したことないわ。あと火の元もな」
「わかってるって」
台所の入口、すりガラス入りの引き戸から、なかなかじいちゃんはフェードアウトしない。
「それより、じいちゃん。じいちゃんの本、読んでてもいい?」
「ええけど。あんなん読んでわかるんか?」
「わからんけど、読みたい」
「好きにせい」
ようやく会話が終わって、じいちゃんが往診に出かけていく。食器をガチャンと鳴らすあたり、急いでいるのかと思えば、ダラダラと僕と会話を続ける。
美浜屋のばあちゃんが急患でないことは確かだけど。
じいちゃんに言われたとおり、玄関に鍵をかけ、残った食器を洗って、テーブルも拭く。
一通りの家事を終え、それから二階にあるじいちゃんの書斎に向かう。
書斎と言っても、そんな立派な書棚が並んで、ビッシリ整然と本が並んでるわけじゃない。あっちにこっちに、無造作に本が積まれ、雪崩れ、紙とインクと、少しカビの匂いのする和室。本棚はあるけど、その前にも本が積まれてるから、奥のものを取り出すことはほぼ不可能。
そんなじいちゃんの書斎で、探す指が引っかかった本を取り出す。読む場所は、少しでもカビ臭さを取ろうと開けた腰高の窓。枠にもたれるようにして腰掛ける。
――あんなん読んでわかるんか?
じいちゃんの書斎にあるのは、すべて医学書。それも昭和発行の書籍がほとんど。
じいちゃんの言う通り、手にした本の内容は、わかる時もあればわらかない時もある。というか、わざと小難しく書かれてることが多いので、わからない時のほうが多い。
これ、理解させようと書いてないだろ。
もっとわかりやすく、平易に書けばいいのに。難しいことをわざと難しく書くこと=高尚な文章って思ってる節がある。
今なら、絶対売れない本、確実。
そんな本でも、半ば意地になって、少しずつ読み続ける。わからない単語は、でてくるたびに、文明の利器、スマホで検索。
――は~る~くん。お~はぁよ!
今より少し幼い山野の声を思い出す。
背も今より低くて、姉からのお下がりだろう。きれいに洗ってあるけど、ちょっとだけくたびれた夏服を着ていた。
――は~る~くん。
鼻にかかった呼び方。
僕がこっちに引っ越してきた中学二年の二学期。まだ夏の暑さが残る朝、毎日山野は僕を学校に行くため、誘いに来ていた。
学校なんて。
中学受験の失敗。公立中学への進学。
優秀な両親。デキのいい兄。
激しいイジメ。
中学二年、自分の中にあった劣等感と焦りと、イジメの辛さに、不登校になっていた僕に、仁木島行きを提案したのは父だった。
――お父さんの親戚の家で暮らすのはどうだ?
仁木島町。
外海に面したリアス式海岸の小さな湾にある町。そこで、大伯父が町唯一の診療所を経営している。
そこで、少しゆっくり受験から続く疲れを癒やしてきたら、と。
父の提案に、僕は何を思うでもなく、流されるままに乗った。
親戚のところに行ってなんになる? でも、そこに行けば、兄や両親と比較されることはない。
どうせ、仁木島に行っても、学校には通う気ないし。
もしかしたら、お父さんは、不出来な僕を追い出したいのかもしれない。それなら言われる通りに追い出されることにしよう。
そんなことを考えるぐらい、あの頃の僕はとても卑屈だった。
でも。
――は~る~くん。お~はぁよ!
9月に入るなり、毎朝うれしそうに迎えに来た山野。
どれだけ呼んでも、どれだけ待っても僕が学校に行くことはないのに。それでも根気強く登校を誘ってきた。
誘われたって行くもんか。
少し意地になってたのかもしれない。
ニコニコと誘いにくる山野にムカついて、意地でも登校しようとしなかった。じいちゃんも何も言わなかったし、僕も言われたとしても行くつもりもなかった。けど。
ある日、突然に山野が誘いに来なくなった。
いつもなら、うるさいぐらいちゃんと来てたのに。
なんだよ、諦めるのかよ。結局は、その程度の優しさだったのかよ。
誘われなくなったことに、妙な苛立ちと寂しさが残った。
ますますいじけて引きこもるようになった時、じいちゃんが言ったんだ。「山野さんちに往診に行く」って。
往診? あの子の家に誰か具合の悪い人でもいるのか? 気になってじいちゃんに尋ねると、患者は、あの山野未瑛本人だと教えてもらった。
もともと彼女は身体が弱くて、よく寝込むのだという。この数日家で休んでいるのだけど、具合が良くならないので診て欲しいとのことだった。
身体が弱いのに、あんなに毎日迎えに来てたのか? 学校とは逆方向の僕の家まで?
最近来なかったのは、来なかったんじゃなくて、来られなかったってことか?
そう思ったら、いじけてる自分がとてつもなく申し訳なく思えてきて。
彼女が次に誘いに来た時、僕は、初めてここの制服に袖を通し、彼女の前に姿を現した。
――今日からよろしくね! 陽くん!
あの時、僕を見て嫌味を言うでなく、パアッと明るくなった山野の顔。多分、一生忘れられないと思う。
――よう! お前が先生ン家のヤツか!
誘われるまま登校したものの、「東京モンが!」とかイジメられたらどうしよう。そんな不安は、健太の明るさと勢いで、アッサリ吹き飛んだ。
健太だけじゃない。逢生も夏鈴も榊さんも明音ちゃんも。誰もが山野や健太と同じように、僕を受け入れてくれた。中学には他にもクラスメイトがいたけれど、誰も僕をどうこう言ってきたりしなかった。
ここは居心地がいい。
高校に進学する際、ほとんどの同級生が本校やもっと大きな市の学校に進学したのに、東京にも戻らず、あえてここに残ったのは、そういった心地よさにもう少し浸っていたかったから。
勉強なら、ここでもできる。
家が近いからとか、友達が行くならとか、学ぶ意欲さえあれば入学できるからとか。そういった理由で選んだ健太や山野と同じように、僕も仁木島分校に進学した。
(父さんには感謝だな)
僕にここを勧めてくれたこと。
父さんだけじゃない。山野や健太にも感謝だ。
今の僕は、とても楽しい。
この先は、どうするかまだ決めてないけど、でも今ここで過ごす青春はとても楽しい。
(青春か)
そんな単語が出てきたことに、健太にかなり感化されちゃったな~と思う。普段の自分なら絶対使わない。だってクソダサいし、すっごく恥ずかしい。
まだ、ここの言葉も上手く喋れないのに。そういう部分だけ、先に感化されてしまった。
(そういや、山野って、いつから僕のことを「大里くん」呼びしてたんだっけ)
記憶を掘り起こす。
僕を迎えに来てた時は、「ハルくん」って、小学生みたいな呼び方してきてたけど。いつの間にか、夏鈴たちと同じ、「大里」呼びになっていた。今じゃ、僕のことを「陽」呼びするのは、健太だけになっている。
(高校入るときぐらいか?)
思い出したくても記憶が曖昧。
でも確か、それぐらいからいっしょに学校に行くとか、そういったこともなくなって、わずかかもしれないけど、距離ができたような気がする。
(山野、今、何してるんだろうな)
ちっとも読み進められない本を諦め、窓の外に目をやる。
海まで続く、家の灯りがポツリポツリあるだけの暗い町並み。その灯りの一つが、山野の家。
別に何をしてたっていいんだけど。
(風呂、入ろ)
じいちゃんが帰ってくる前に。
本を閉じ、窓を離れる。
窓も閉めようかと思ったけれど、心地よい風が吹いていたので、もうしばらくだけ開けておく。お風呂入ってくるまで開けっ放しでも問題ないだろう。
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