アムネジア戦線

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04.石井獅死郎中佐

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「ジャップだっ!」


 グラスホッパーの偵察員席から声が上がる。

 気づくのが遅れた。

 このエリアではすでにアメリカ軍が制空権を把握しており、日本軍機の活動は認められないはずだった。

 操縦員は心の中で四文字言葉を連呼し必死の逃走に入る。

 この機体で戦闘などできるものではなかった。

 グラスホッパーは、弾着観測・地上偵察が主任務の軽飛行機だ。

 戦場の荒れた狭い土地でも離着陸ができる。砲兵にとっては欠かせない友というべき機体だ。

 しかし、その目的のため、極端に速度が遅く機体が軽い。

 エンジンを止め無音で滑空することすら できたが、今は意味がない。

 

 太陽を背にした日本軍機が迫る。

 翼が途中から方向に折り曲がったような特異な形状をしていた。

 風防もアンバランスな印象を受けるほどに大きい。

 速度はさほどではない。しかし、グラスホッパーよりは早かった。

 一気に距離を詰め、細いたった一本の火箭を吐き出す。

 それは濃緑色オリーブドラブの機体を舐める。

 やがて、ボッと火を噴いた。

 グラスホッパーは黒煙の尾を引いて、礫のように地に落ちていった。

 所詮、バッタは空にとどまれないと言うかのごとく。


 九八式直接協同偵察機は、落ちていく機体に祈りを奉げるかのように日の丸の描かれた翼を翻す。

 同機の前部武装は7.7ミリ機銃のみであり、捷和十九年時点では、無いよりマシかもしれないという程度の武装だ。

 それでも、防御が貧弱なグラスホッパー相手には何とか通じた。なにせ、小銃弾でも落ちたという話があるくらいだ。


 九八式直接協同偵察機は高度を下げ、滑り込むように着陸態勢に入る。

 周囲の緑と溶け込むようになっている偽装網の下の地面へと不時着のような着陸を敢行する。

 同機もまた、狭隘な不整地での運用を前提に製作された機体であった。

 

 ガリガリと地面を削るような音をたて、着陸する。

 古風であるが頑丈な固定脚が安定した着陸を担保する。

 頭でっかちな印象を与えるほど大きな風防が開き、男が降りてくる。

 やや肉がついているが、鈍重な感じはない。身長はこの時代の日本人とすれば平均的だろう。丸みのある体型は愛嬌があるといっても良かった。

 機体に集まった下士官、兵が敬礼をする。

 にこやかといっていい表情で返礼する男。

 丸いメガネの下の目を細め、口ひげの下の唇は笑みの弧を描いている。


「ここをあまり探られるのは困るが。敵の無電はあったかね?」



 声まで柔らかく、どこか女性的な印象すら与える物だった。

 男は近づいてきた部下に言った。


「落ちる寸前に」

「なんとも、仕事熱心なことだ。プロテスタントはやはり勤勉かね。死ぬまで任務を忘れない」

「さあ、どうなのでしょうか。中佐殿」

「死んだアメリカ人は救われて欲しいものだな。そう思わないかね」


 中佐と呼ばれた男――

 石井獅死郎は、貌に張り付いた笑みをピクリとも動かさず会話をしていた。

 その笑みの裏にはなんの感情もない様だった。空虚な黒い洞のような笑みだ。

 部下は何と答えていいのか分からず、首元に浮かんだ汗を拭う。


「まあ――」


 石井中佐は言葉を区切る。視線はどこを見ているのか分からない。

 細く笑みの形に絞られた目は黒目が殆ど見えない。


「その何倍も日本人が殺されるかな。救われるかどうかは知らないが」


 国民を守るのが軍人の言葉とすれば、信じられない言葉だ。

 だが、部下は驚く表情も見せない。

 その言葉を聞いているだけだった。


「舐方《なめかた》大尉――」

「はい。なんでありましょうか」

「日本は負けるわけだが――」


 すでに、自分の中では規定事項のように、祖国の敗北を宣言する。

 これには、舐方も眼を見開いた。まじまじと奇相の上官を見つめた。

 視線の先の表情は笑みが固まったままだった。


「日本が負けても、私だけは負けたくないと思っているんだが、その当りどうかね?」

「それは……」


 なんとも答えようのない質問だった。

 戦況が厳しいことは舐方大尉とて理解している。

 海軍によりアメリカのマリアナ侵攻はなんとか食い止めたが、その結果、海軍の戦力は払底したと聞いている。

 その影響か、フィリピンへの輸送は思うに任せない状況だ。


「そ言うわけで、やはり彼は必要だな。ペーパーの研究資料だけではなぁ。う~ん、手土産には少ないかもしれん。なんといっても、相手は世界一の金持ちの国だ」


「都々木…… 都々木永司中尉のことでありますか?」

「ああ、そうだ。彼、やはり彼を連れ戻そうか」


 どこまでも、優しく柔らかさを感じさせる、そして作り物めいた空虚な響を持つ声。

 石井獅死郎中佐は言った。

 仮面のような笑みを浮かべながら。
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